矢車通り~オリジナル小説~

はてなダイアリーから移行させました。

稲妻お雪 伍の壱

 ここは安土。まだあの壮麗な天守こそないが、この当時としてはなかなか見事な城郭がそびえている。
 信長の寵愛しているオリンという女侍が、いましも市の雑踏を警戒しながら歩いて行く。その前を絶世の佳人がしずしずと歩を進める。
 信長の妹お市であった。
 お市は浅井に嫁いでいた。それが何故に安土の市場を散策しているのか。
「オリン。兄上はどうしても越前をお攻めになるつもりであろうか」
 ぽつりと聞いた。いくら雑踏の中とはいえ、あまりに軽率な発言だと思いオリンは辺りを見回した。
お市様。さような事は迂闊にかような所で口にあそばすな。どこの誰が耳を欹てておるか分かりませぬゆえ」
 オリンは辺りに目をくばりながら注意した。
「分かっておる。妾とて織上総介信長の妹じゃ。したが今回の兄上の強引なやり方が納得できぬ。急に越前から帰って来いとは他家に嫁いだ女に無礼であろう」
 お市は柳眉を逆立ていった。
 オリンは内心舌打ちをした。いくら浅井長政に嫁いで眉を落としたといっても、まだ十七歳の少女の事、芋の煮えたもご存じないか。世間知らずに少々腹が立った。
「お方様。今兄上がどのようなお立場かご存知で御座いますか。浪速の本願寺の坊様相手に大変なご苦労をなさっておいでなのでございます」 
 オリンは小声で信長の立場を説明しようとしたその時、何処からかビューンと風を切ってやお市に向かって飛んで来た。間一髪オリンの太刀がその矢を払落した。

稲妻お雪 四の伍

 この頃の大名には釜を掘るのは当たり前の習性であった。織田信長こそ不名誉の代表格ではあった。
「おいおい、われらはさような怪しい仲ではない。松平の家では御法度になっておるわ。それにこの大久保には見目良い妻女がおる」
 家康はあわてて手を振り、お雪の疑いを晴らそうとした。
「なんだ。女房持ちか。空家ならあたいが入りこもうと思ったのに、ちょっと残念だね」
 お雪は本気とも冗談ともつかぬ顔でいった。家康は小娘にしてやられたかと苦笑した。
「ところでお雪、おまえのお頭はどんな男かの」
 家康は変なほうにそれた話をもどそうと話題を変えた。
「そりゃあ、いけすかない奴に決まってるよ。あたいを人買いから買って乱波にする気なんだから」
 お雪は例の調子で罵った。
「まあ待て。いかに悪い主でも他家でそのようにいうものでないぞ。主を卑しめることは己を卑しめることに等しいとは思わんか?」
 家康はそういってお雪を諌めたつもりであった。
「家康の大将。そりゃあ心得違いというもんだよ。金で買ったお頭と買われたあたいとでは、行く道が違うのは当たり前だろう」
 お雪は猛然と食って掛かった。家康は怯んだが、やっと次のように言って、その場を繕った。
「世の中も変わったものよ。おい大久保、女を侮るととんだ目にあうぞ。お互い気をつけんとな。わっははは」
 家康は言い訳めいた照れ笑いをした。  
「苦しい酒だね。おっといけねえ。すっかりごちになっちまってお頭の事を忘れてたよ。怒ってるだろうな。あれでも一応お頭と名がついているんだ。返事を持って帰らないと義理がたたねえや」
 お雪は盃をおいて家康の返事を待った。
「あい分かった。さっそく書状を認めるが、お頭の名はなんといったかな」
 その家康の言葉を聞いてお雪はぷっと吹き出した。いくら三太夫が威張っても所詮この程度である。越後の乱波は東海一の弓取には名前も知ってもらえぬでないか。もっともお頭は負け惜しみをいうだろう。乱波が名前を憶えられては仕事にならねえと。しかし徳川家には服部半蔵というかなり名の知れた大物がいるではないか。
「おい、書けたぞ。お頭に礼を家康が言っておったと伝えてくれ。ようやく目の上の瘤がとれた。信長殿に援軍を送れるともな」
 家康は祐筆に書かせた書状に花押をしながらいった。
「ずいぶん大仰だね。たかが乱波の頭に返事を書くのに花押とはね」
 お雪は家康の律義さに呆れていった。
「いやいや、たとえ相手が橋の下の乞食でも、これが代のやり方じゃ」
 家康はそういってお雪に書状を渡した。
「確かに預かったよ」
 お雪はその書状を懐に入れると風のように走り去ってしまった。

稲妻お雪 四の四

「よしておくれよ。あたいのお頭を買い被るのは。そこらに転がっている蜂の頭なんだからさ」
「はははっ、蜂の頭とは、ちと言い過ぎではないか。余の頭痛の種を取り除いてくれたなかなかの頭ではないか」
 家康はお雪の顔を覗き込んでいった。どうも其処らの土民の娘にしては気品があるとにらんだ。
「だめだめ、それが証拠にあたいみたいな屑娘を人買いから買い込んでさ。乱波にしようなんて、どう見ても大した男じゃないね。もう一杯」
 お雪は杯を差し出した。
「おいおい、大丈夫か。そのように飲んで。物惜しみするわけではないが、飲みなれぬ物を過ごして、身体にさわるぞ」
 家康は心配そうにいった。
「大丈夫。あたいのもう一つの名を聞いて驚くな。うわばみのお雪ってんだ。こんな甘ったるい酒で正体を無くすほどヤワにゃあ出来ていないから安心しておくれ」
 家康は気がついた。お雪の強がりの裏にある孤独の影に。自分も子供のころから今川の人質生活で、今の忍耐力を身につけたのだ。この娘は何かしら生まれに秘密があるのだ。
 お雪はどんな生まれかまだこの時点では分からない。そうしないとこの物語の面白さが半減する。
「とにかく大久保の倅に代官を任せる事にしよう」
 家康はそう言って自分も盃を干した。お雪はこの時節にずいぶんのんきな大将だな。あの荒くれどもを追い出して辺りを平定するには、こんな若造では心もとないと、隣で同じく盃を重ねている信三郎を見ながら思った。
「大丈夫かい。こんな優男に代官が務まるかねえ」
 お雪は心配そうにいった。
「懸念はいらぬ。こんな若衆のように見えるが、徳川家の四天王に数えてもよいと余は思っておる」
 家康はどんと胸をたたいていった。
「大将がそういうなら一応信じることにするけど、まさかこっちじやあるまいね」
 お雪は右の手の甲を自分の手のひらへあて、意味ありげににやっと笑った。

稲妻お雪 四の参

「やいっ、お前が家康か。何が東海一の弓取りだ。家臣の口のきき方の躾けも出来ねえ大将は、大将として認めねえからそう思え」
 家康はお雪の剣幕にはさすがに驚いたようだが、大久保から事情を聞いてからからと笑い出した。
「わっははは。あの頭痛の種であった今川の残党を血の一滴も流さずに片付けるとは、上杉公は油断のならぬ大将と見た。礼をいう。さっそく代官を派遣せねばならぬが誰がよかろう。おい、大久保。いっそお主が引き受けてくれぬか」
 これをを聞いていたお雪は面白くない。
「おい、家康。いい加減にしろよ。あの連中を始末したのは、謙信じゃあないよ。あたい達、乱波の働きじゃあねえか。下の者の苦労に感謝しねえ大将は長続きしないよ」
 家康はこれを聞き、お雪の器量が並々でないと悟った。そこで小姓に命じて、堺のあきんどの献上したカスティラを持ってこさせ、勧めながら問うた。
「親御はおられるのか。たしかにそなたのいう通りじゃ。大将がいくら頑張っても兵が思い通りに動かねば戦には勝てぬ」
 お雪はカスティラを怪しみもせずに口へ放り込みながらいらえた。
「親がいりゃあ、この歳で乱波なんて危ない仕事をやるもんか。旨いけどちょっと甘ったるいや。南蛮には血のような赤い酒があると聞いたよ。一杯所望したいね」
 家康は酒はあまり嗜まぬが、それでも寝酒にちびちびやっているワインを所望されて驚いた。
「いやあ、これは参った。余の寝酒を所望するとはな。これワインを持って来てつかわせ。信八郎、越後の乱波は凄腕よのう」
 家康は苦笑しながらいった。
「いかさま、童がこれでは頭の腕は服部半蔵とよい勝負かも知れませんなあ」
 信八郎も賛同して頷いた。ところがお雪は腹を抱えて笑い転げた。

稲妻お雪 四の弐

 質素ながら堅牢な城である。もちろんまだ天守は無い。安土に信長が城を築くのは、これから後四、五年待たなければならい。お雪には専門的な縄張りはわからないが、守りの固いことだけは分かる。
「どうじゃな。そなた我がお館様の城作りの思いが」
 武士が少し自慢げに聞いた。
「まあねえ。春日山のお城と同じくらいか。でもあっちは山城、こっちは平山城。比べる方が無理だよ」
「いかさまのう。そなたのいうとうりじゃな。ほら、あれに見えるのがお館様の住まいじゃ」
 武士が指差した方を見ると、当時流行った復古調の庭の樹木に囲まれ、豪壮な甍が望まれる。
「あれかい。随分贅沢なお屋敷みたいだけど、金は大丈夫だろうね」
「他人の家の懐を心配いいたすな。それより身共は大久保信八郎ともうす。そなたは何ともうす」
「いけねえ。これは失礼いたしやした。あたいは上杉家の乱波のはしくれで、稲津のお雪ともうしやす。今後よろしくお引き回し願いやす」「お雪ちゃんともうすか。二つ名をもつような歳には見えんが、幾つになるのじゃ」
 大久保はお雪の姿があまりに幼く見えたので迂闊にきいた。
「女に歳を聞くなんてあんた相当な野暮天だねえ」 
 すぐに大人びた反撃が返ってきた。
「これはあいすまん。なにせ身共は徳川家きっての野暮天で通っておる男じゃで」
 大久保は謙遜のつもりでいったのだが、お雪には嫌味に聞こえたとみえ、強烈な皮肉を飛ばした。 
「そうかねえ。あたいにはそれだけのご面そうなら、城下の女子衆に持てて身が持たないのかと思ったけどね」
 そうこういっている内に家康の住まっている屋敷に着いた。三河を納める大名の住まいは意外に質素であった。

 家康は庭で弓を引いていた。日に三百本欠かさず引くのが日課であった。年頃は三十路を少し得たというところであろうか、いずれにしても男盛りには違いない。美男ではないが、かといって鬼瓦でもない、ごく普通の壮年武士である。ただ眼光は鋭い。
「おお、大久保か。しばらく無沙汰しておったが、今日は何か用か」
 弓を小姓に預け自らは汗を拭いながらきいた。
「ははっ、さして用があってという訳ではござらぬが、今日身共が城門の前を通りかかったところ、門番の小者といさかいをしておる珍なる小娘がおりました故、お館様の退屈凌ぎに連れてまいりました」
 大久保のいい方がお雪の気に入らなかったと見え、家康に向って凄い啖呵をきった。

稲妻お雪 四の壱

 それから二日後、お雪の姿が駿府城の城門に現われた。
 お雪は門を警備している小者に声をかけた。
「おい、おっさん。家康に会いたいんだけど案内してよ」 
 聞いた小者の怒るまいことか。六尺棒を振り上げお雪に殴りかかった。
「随分乱暴な所だねえ。三河という所は。うっかりものも聞けないよ」
 お雪は体をかわしながらいった。しばらくお雪と小者の鬼ごっこが続いた。
「これ、そのような童と何をしておる。組頭にいいつけるぞ」
 声をかけたのはまだ二十歳代と見える武士であった。 
 小者は慌てて深々とお辞儀をして、お雪の事を悪し様にいいつけた。しかし、かの武士は逆に小者を叱った。
「良い歳をした男が小娘相手にみっともない。よしたがよかろう。松平家の面汚しになろうぞ」
 若い武士はそういいながらお雪を見た。なかなかの美男であった。
「これは大久保の若さま。お言葉を返すようですが、こ奴只者とは思えません。お館様を呼び捨てにしたのです」 
 小者は剥きになっていった。
「はははっ、これは面白い。かような小娘の分際でお館様を怖がらぬとは、たしかに只者ではないのう。よい、身共が預かろう。おい、そこな娘。ついてまいれ」
「そんなもんですかねえ」
 小者は呆れ顔でいらえた。
「そんなもんじゃ。おい、そこな娘。ついてまいれ。お館様に取り次いでやる」
 若い武士はそういうとさっさと城門を潜った。お雪は小者に赤んべえをして、その武士の後とを追った。
「おい、若い娘がさような真似をいたすと縁遠くなるぞ」
 武士が諫言するのをお雪はどこ吹く風と聞き流して城内を見まわした。

稲妻お雪 参の四

「越後の乱波が何用あって家康の所へ参る。我らは徳川に遺恨ある者、容易にここを通すと思うてか」
「それそれ、そこが相談のし所ともうすもの。貴公等の事情を分かりなが、危うい橋を渡って来たのじゃ。土産を用意せんで何とする」 
 そういいながら三太夫は、砂金の袋を頭分の足元へポンと放り出した。
「これでこの城、いや寺を売ってくれないか。それには条件がある。お主たちがどこぞへ立ち退いてくれなければ困る」
 お雪は三太夫の腹の内が今やっと読めた気がした。血を流さぬ方法で城を落とすのも軍略の一つと、日ごろから言っていたのはこれかと気がついたのだ。
「親分、見直したよ。なかなかの軍師だね。これが旨くまとまったら家康に土産ができるという寸法だ」
 三太夫は商人が駆け引きするような口調で、それでも油断なく身構えていった。
「成程な。我らに此処を引きはらせて、それを手土産に家康に会おう算段か。考えおったな。越後の乱波殿」
 頭は砂金の値踏みをしながらいった。
「我らは乱波ではあるが、この場面で誤魔化したりはいたさん。砂金の重みはきっかり五貫目じゃ。それだけあればこの頭数が、どこぞに仕官するまでの食い縁はあろう」
 これが忍びの仕事と割り切って、三太夫はいらえた。
「さようさ。我らはまことの武士ではない。雇われたらどこの大名の仕事でも引き受ける。だが今度の仕事はちと趣きを異にしておる。家康公はいずれ天下に号令する。そのお方に助成しよう、というのが我れらの大殿上杉信玄公じゃ。それには家康公の喉に刺さった小骨を抜いておかぬとな」
 お雪は思った。これでは喧嘩を売っているのではないかと。如何にもこの荒法師が家康の喉に刺さった小骨と言わぬばかりではないか。
「するとお主は我らを小骨というか。ちと無礼な言い草じゃな。いかに主の今川公が、にっくき信長づれに敗れたとは申せ、かように城を持っておる。まだまだ家康に一泡ふかせる事も出来る立場ということを忘れるな」
 頭は三太夫に高圧的にいった。 
「だからこそ、この砂金で城を買うといっておる。お主達にしても今川あっての城であり、武士の意地であろう。これから先何時までその意地がはり通せるかの。近隣の百姓を絞りあげ、兵糧を調達しておるようじゃが、そんな無理が何時まで続くかよおく考えて見なされ。一騎が起こるのは必定じゃ。越前の一向宗には謙信公も手を焼いておられる」
 三太夫は口をきわめて説得した。