矢車通り~オリジナル小説~

はてなダイアリーから移行させました。

雪の花

 灰色の厚い雪雲が都会を覆っている。私はフワフワとうす汚れた大気にむせながら大空に漂っていた。雪の結晶が体に纏いつく様だ。下界の騒がしいジングルベルの音が自動車の騒音に混じって聞こえる。綺麗な雪も地上に降ると汚れてしまう。ああ、今年もまた来てしまった。私は何故だかこの季節になると、東京という不潔このうえもない、巨大なごみ溜めにたかる蝿みたいに引き寄せられてしまう。古い下宿屋の残っている、本郷Y町へ舞い降りた。そこには一軒の古ぼけた家が隣のビルに寄り掛かる様に建っていた。その二階の窓を私はためらいがちに覗く、去年と同じ光景がそこに在った。やっぱり彼は苦しんでいる。狭い四畳半は資料の古本の山に埋れて、ワープロと格闘している。頭をかきむしっては煙草を何本も灰にしながら……。
 彼には私の姿は見えない、いや彼だけではなく、人間の誰もが見る事は出来ない。だって私は『雪の女王』の娘だから……。
 毎年この季節になるとじっとしていられなくなる。おてんば妖精? あの嫌な死神の求婚を逃れて、この騒々しい街へやって来るのは、売れないコピーライター板井がいるからだ。彼が好きなのだ、どうしようもなく……。なんの取り柄もないボサボサ頭の冴えない男、どうしてこんなに惹かれるのか、私にも分からない。恋は思案の外というから、馴れ初めは平凡だけど、三年前の上野駅にしておこう。その時は彼は詰め襟の学生服に、痛んだバックを提げていたっけ。私は初めての下界に無我夢中だった。彼は自動販売機のホット・コーヒーが出なくて困っていた。私は念力で出してあげた。それくらいの魔法は使えるんだ。妖精なんだものね。
 電話がけたたましいベルを鳴らす。ビクッと彼が顔をこわばらせた。受話器の側にいるのが怖い。そんな風に見える。
「もしもし、板井ですが」
 か細い声でやっと答えた。
「板井君かっ! 頼んだ原稿は出来たんだろうね」
声高な永田編集長の叫びが耳を打った。落ち目と言われる写真週刊誌を預かって5年、ヒステリックになるのも無理はない。
「それがそのーっ」
弱弱しい声で彼はボソッといった。
「まだなのか! 締め切りは明日なんだ。しっかりしたまえ」
それだけ言うと向こうからガチャっと切った。
 彼は空しい気分で受話器を置いた。相も変わらずアイドル歌手の、情事の現場を撮ったピンぼけ写真に付ける、暴露記事の僅かな稿料の為に、精神を磨り減らしている自分に焦っていた。
 上京するときには、大志とは行かないまでも、立派な小説を書いて賞の一つも取ってやる。そういう意気込みはあった。だが、それは甘い考えというものだった。賞を取るどころか短編一つ採用してくれる出版社はなかった。駄文を切り売りしてその日暮らし。こんな事では駄目だと思えば思う程、つきは彼から遠ざかる。
「雪だ、どうりで寒いと思った。こんな日にやってられるかよっ」
 今頃気が付いたのか、彼は窓の外をうつろな目で眺めていた。
(そう、私のいる所には必ず雪が降ってるの)
 彼はムクッと立ち上がると、壁に掛けてあったブルゾンをはおり、手荒くドアを開け階段を急いで下りた。私も雪の舞う中空にフワリと浮かんで彼を追った。
「馬鹿野郎!」
 突然、われ鐘みたいな凄い声が彼の耳元に響いた。ドスンっと誰かにぶつかってそこに倒れた。見上げると派手なチェックの背広に趣味の悪いネクタイ、濃い色のサングラス、一見して組関係と分かるその格好、赤ら顔に酒臭い息をはいて、突っ立っている大男、彼の右隣に住むはた迷惑な住人、『てっぺんの熊』という歓迎されない奴だった。
「このくそ忙しい師走にボヤボヤしてんじゃねぇ。てめぇだろう、役に立たねぇ人のあらばっか書いて、飯の種にしている青二才ってぇのは……」
 まだ起き上がれないで、あがいている彼を『熊』は踏み付け様とした。あんまりみじめなんで私は母上に滅多に使っちゃあ駄目よと、止められている魔法だが反射的にかけた。突風が巻き起こり、チラチラ程度だった雪がゴーッと渦を巻いて『熊』の顔に固まりとなってぶつかった。
「冷てぇっ。何だ、この天気はっ?」
 『熊』は仰天して転ぶように逃げ出した。彼も狐につままれたって様子で立ち上がり、お尻に付いた泥を払いながら、半ば放心状態で電車の駅の方へ歩いていく。ポケットを探り小銭を出して数えている。切符を買うだけの金はあるらしい。私は彼の行先はある程度察しがつく。新宿の『マリー』という安バーより他に彼のツケの効く店はない。一足先にテレポートして待っていよう、私はバーを目指して舞い上がった。が、後ろからつけてくる黒い影には全く気付かなかった。
 『マリー』は今日も空いていた、Xマスも近いというのにこのていたらくでは、余程流行らない店なのだ。尤も彼が気楽に飲めるのは此処しかない。ママが永田とデキているらしい、あれでなかなか面倒見のいい男だ。彼が怖いもの知らずで、出版社に原稿を持ち込んだとき、文芸雑誌の編集者は鼻で笑って相手にしてくれなかった。丁度その頃は写真雑誌の全盛期だったので、コピー・ライターが必要という打算もあったのだろうが、負け犬のようにスゴスゴと帰ろうとしていた処に声を掛け、この店に誘って仕事をくれたのだった。
「板井さん。何だか荒れてるわね。ピッチが早いようよ。もういい加減にしたら……」
 カウンターの奥でママが文句をいい出した。確かにハイボールを5杯あけている。いつもはあまり強くない彼が、こう乱れるのは余程今の仕事がこたえているのだろう。
「ママっ、助けてくれよっ。俺はもう駄目だ。あんな下らん記事を書いていたら、内臓(はらわた)まで腐ってくる様で恐ろしいんだよっ。頼む、なんとかしてくれよ」
 カウンターを乗り越えそうな様子にママはちょっとたじろいだ。
「はいはい、気持ちは分かるけどね。それは貴方自身のことでしょう。気の毒だけど私達にはどうしようもないの」
 隣に立ってコップを磨いている、痩せて背の高いバーテンに同意を求めた。その男は黙ってうなずいた。こういう場所に務める男でおしゃべりは信用されない。
「さっきからいってるだろう。俺はあいつに騙されたんだって……」
「永田さんの事、そんなに悪くいうのはおよしなさい。貴方だって、あの人のお陰でどうやら生きてられるんでしょう」
 はっきり言うなと私は思った。
 夜の歓楽街に雪はしんしんと降り続いている。その中をシンクロナイズドスイミングでもする様に浮遊しながら、下界を眺めるとネオンの光がお花畑のように美しい……。でも、透視して奥をのぞくと人間達の欲望や、憎悪、権謀術数が入り乱れ、渦を巻いているのがはっきりと分かる。
「おやっ、それはなあに……」
目ざといママは、彼がポケットから取り出した小さな物に気が付いた。
「ああこれか……」
彼は、さも億劫そうに差し出した。それはボロボロになった『斜陽』の文庫本だった。
「こんな物にうつつをぬかして腑抜けになっちまったんだ。いまいましい……」
 ポーンッと側のソファーに投げ出した。途端に体がグラッと揺れ、カウンターからグラスを落とした。ガッチャーンという音が狭い店の隅々まで響いた。上げ板を持ち上げて、堪り兼ねた様にバーテンが出てきた。
「板井さん、もう今夜はお帰りなさい。タクシー呼びますから……」
言葉は丁寧だけどやる事は随分荒っぽい。
「何をーっ、まだまだ飲んでやる。どうせ永田のツケなんだ」
 彼は益々暴れ、大声を出した。
「しょうがねぇなぁ、ママどうします?」
「酔いが冷めるまで表にも出せないわね。いいわ、隅のソファーにでも放り出しておきなさいよ」
 私は今夜くらい妖精の身を悲しく思ったことはない。目の前で起こっている事は分かるのに、手を触れて助けてあげられない。突風を起こすくらいのものだ。ああ、もどかしい。生身の人間には触れられないなんて……。あれから数時間、雪は激しくなる一方だ。彼は『マリー』を出た後、薄いブルゾンで寒い東京の街を深海魚のようにさ迷っている。所詮、これでは小説を書くのは無理だろう。何故あんなに言葉を紡ぎ出す事に苦労するのか、死ぬほど苦しむ価値があるものなのか……。
(板井さん、早くタクシーを拾って帰んなさい!)
聞こえる筈もないのだが思わず、そう叫んでいた。あ、そうだ! 人間にはお金というやっかいな枷があったんだ、今の日本の政治がリクルートが皆それだ……。
 尤も私達みたいに肉体という物がなければ、小説なんて成立しないらしいけど……。
 あっ、『てっぺんの熊』だ。子分を二人連れ、ヤッチャン独特の肩を揺らす歩き方で、彼の方へ近付いていく。昼間、私のやった悪戯がかえって仇になった。
 『熊』は鋭い目で彼を見付け獲物を追う狼の様に近ずく。仰天した彼は慌てて逃げ出した。表通りは車の洪水だった。
「ふふふっ、どうだな。なまじ人間に妙な同情を寄せると、ロクな事にならねえのが分かったろう」
 背後から錆びた金属でもこすり合わせるような声がした。
「死神!」私は思わず悲鳴に近い声を上げた。深々と降る雪を背景に、大鎌を杖代わりにし、黒いマントを翻してマリオネットみたいに空中に浮き、空虚な眼球のない眼でじっと彼の方を凝視している。
「鴨だな!」
 死神はカタカタと笑った。そしてこっちをゆっくりと振り向いた。
「あいつは俺がもらったぜ、悪く思うな」
 さっきから妙に後ろが変だった。こんな嫌な奴につけられていたのに気が付かないなんて、私もまだまだ修行が足りない。
「『雪っ娘(こ)』。夜遊びは十年早ぇぇや、さっさと帰って寝ちまいな」
「それが妖精の姫に向かって云う言葉……。お行儀をわきまえなさいっ」
「あいにくだったな、育ったところがヴェトナム戦争のまっただ中とくらぁ。行儀作法なんて屁の突っ張りにもならねえものは、習っちゃいなねえのさ」
 骨の触れ合う不気味な音をガチャガチャさせて死神は云った。
「そうっ、それなら商売の邪魔をさせて貰うわよ。彼は絶対渡さない。貴方こそとっとと尻尾を巻いて冥土(あの世)へ帰りなさいっ!」
「ケケッ、気の強い小娘だぜ。生意気に色気付きやがって、それ程あの男が助けたかったら、俺をさしで勝負してみるか」
「いいわよっ!」
 私達は一気に上昇して雲海の上に出た。頭上には満天の星が輝き、足下には稲妻が光る。その度に死神の自信に満ちた姿が浮かび、私は素手を前に突き出すように構え、すきを見せまいと息を殺してジッとしている。相手は大鎌を大上段に振りかむり、呼吸をはかっている。時々フェイントを掛ける様に指先から青白いオーラを発射してみるのだが、一向に動じる気配がない。
「どうした小娘、術はそれだけか?」
 からかう様に『死神』は声をかけた。私は段々疲れて意識が希薄になってきた。精神(サイコ)パワーを持続するのは強力なエネルギーが必要だ。私みたいな新米の妖精には荷が重すぎる。半ばヤケ気味で体当たりをしようと、盲滅法相手に向かって突進した。当然頭に大鎌が風を切って食い込んでくるものと覚悟していた。が、いつまで経っても衝撃はやって来なかった。恐る恐る薄目を開け様子を伺った。どうも死神が何だか変だ。あっけにとられているといった感じだ。くぼんだ空虚な眼でジッと下界を見下ろしていたが、落胆半分、おかしさ半分といった感じでボソッと云った。
「おいっ、雪っ娘(こ)。あの馬鹿、俺が頂戴しねえうちにさっさと昇天しちまいやがった」
 死神は盛んにボヤきながら、大鎌を担いで地上へ下りて行った。私も何が起きたのか理解出来ぬままついて下りた。
 そこはバー『マリー』からさほど離れていない、路地から表通りに出る一角だった。
「おやおや、人間ってなあ俺達死神を出し抜く怖い連中がいるってわけだ」
 死神はパトカーの赤い回転灯がクルクルと明滅するのを見て溜息をついた。彼は2センチほど積もった雪を僅かばかり血に染めて倒れていた。側にはボンネットを少しへこました緑色のタクシーが止まり、運転手と警官が小声で押し問答をしている。野次馬の中には、素知らぬ顔をして『てっぺんの熊』が成り行きを見ているのだ。
「あいつから逃げるって自動車に跳ねられたのよっ!」
 私はあまりの無惨な結果に我を忘れて死神に言った。
「そうだろうよ、お粗末な野郎だぜ。やくざに命をとられるくらいなら、俺にくれればいいものをよっ。ようしっ、今度はあいつがターゲットだ……」
 死神はカタカタ笑うと『てっぺんの熊』の中に溶け込んでいく。私は諦めきれない気持ちで彼の倒れている上を何回も飛び回った。しかし、何時までもこうしてはいられない帰らないと母上に心配をかける。ふと思い付いて『マリー』を覗いてみた。外で何事も無かった様にバーテンが後かたづけをしている。先ほどまで彼の酔い潰れていたソファーに手垢の付いた『斜陽』があった。手に取ってペラペラめくっていたが、つまらなそうに屑篭に放り込んだ。冬の空には、相変わらず雪の花が舞い狂っている。