矢車通り~オリジナル小説~

はてなダイアリーから移行させました。

肝試し・前編(55枚)

 あれは昭和の始めだった。
 不景気のどん底で娘の身売りが世間の評判になっていた。俺はその頃まだ八つだったから、身売りの意味は理解できないが、とにかく姉ちゃんたちが酷いめにあうことだと漠然と感じていた。
 俺も親もそのまた親も、代々続いた小作であった。小作と言っても自分の家で野菜を作る、一反ばかりの畑は持っていたが……。
 そんな或る年の盆に近い頃の話である。その噴は旧暦で年中行事をやっていたから、盆といえばもう秋風がかすかに感じられた。
 俺の住んでいる村には、ちょっと変わった人物が二人居た。
 一人は年の頃六十過ぎた爺さんで、見事な山羊髭を蓄えていた。自慢話は決まって日露戦争の武勇伝であった。本当かどうか分からないが、二百三高地の戦いで、露助のトーチカに爆裂弾をほうり込み、五人も殺ったという。ちょっと頭がおかしいとみえ、夏の真っさかりでも古びた軍服を着て、胸には勲章をぶらさげ、会う人ごとに敬礼をした。
 もう一人はこれも独り者で、村の外れの土手の下に、ほったて小屋よりは少しは増しという、荒屋に住むおさよという女であった。
 この女は元々財産はあったのだが、独り娘という身の上がたたって、妙な婿を貰い、その婿に財産を根こそぎ食い潰されたということだ。何でも沖縄で養蚕をやるといって出かけたきり、何年経っても戻ってこない。
 後はお定まりの銀行や高利貸が、借金の抵当に入っていた家屋敷は勿論田地田畑を、まるで鶏の羽根をむしるように取り上げてしまったので、村の者が気の毒がり住むところを用意してやった。
 それは洪水の防災のため土手下に、機材を入れていた小屋を空けて、造作をして住まわせている今の荒屋であった。
 おさよは三十を少し出たくらいの大年増で、借金取りにさんざんいじめられたせいで、頭のネジが少し緩んでしまっていた。何時も着物をぞろぞろと引きずって歩いて、いつ何処で覚えたのか、松井須磨子のカチューシャの唄や、船頭小唄を口のなかで呟くように唄っていた。子供の俺にはそれがもの悲しく響いた。
 何時の時代でも質の悪い悪童連が居るもので、おさよが村の挨っぽい道に出てくると、物陰から石を投げるという卑怯な悪戯をした。
 それを止めるのが権太郎という子で、俺と同じ水呑百姓の倅だったが、この村の子供全部を束ねる、ガキ大将の役目であった。権太郎は今年十五になるが、家の事情で尋常小学校を三年で止めてしまっている。今は村にたった一人しか居ない清二郎という大工の棟梁のところへ、住み込みの弟子となっていた。
「こら、弱い者いじめをする奴は誰だ。出てきて謝れ」
 権太郎が丸くて赤黒い顔で、仁王さんのような目を剥いて大声で怒鳴った。だが、何時の問にか連中は顔も見せずに、草むらをこそこそと逃げてしまった。
「卑怯者。きっと糾明して罰を与えるから覚えておれ」
 なんだか立川文庫の田宮坊太郎のような口調で、逃げて行く連中に後ろから脅しを掛けた。
 そこへ俺が、親父の大八車にのせて貰って、町の帰りに通り掛かった。
「兄いちゃん。相変わらず威勢がいいな」俺は年より増せていたからそう声をかけた。
「やあ健坊か。そっちこそ生意気を言うんじゃあねえ。このおばちゃんがいじめられていたから止めてやったんだ。あんな連中の真似は絶対にするなよ。俺は卑怯者は大嫌いなんだ。お前今日は何処へ連れていってもらったんだい」
「うん。麦わらを町の帽子屋に運んでいった帰りだよ。この車に一杯載せて俺が後から押して行ったのに、たった一円五十銭しか出してくれない。けちな帽子屋の親父だ」
 俺は大八車から飛び降りながらそう答えた。
「この不景気じゃあそんなに沢山御足をくれるもんかい。親方の一日の手間が一円だぜ」
 権太郎は苦笑しながらそういうと、俺をさっと持ち上げて肩車をしてくれた。親父はそれをみて首にたまった汗を抗いながら、じゃあ頼むぜと、権太郎に言うとさっさと車を引いて家へ帰って行った。
「おい健坊。お前そろそろ禅を締めろよ。妙な物が俺の首ったまへ当ってくすぐったいよ。何だか今日は特別に固いなあ。町で変なものを見てきたんじゃあねえか」
 権太郎はそう言ったが、俺は別に町で変なものを見た覚えはない。だが股間に突き出した物体が、熱
くて固くなっている理由は分かっている。おさよのせいだ。帯の結び方がだらしがないので、胸ははだけ大きな白い乳房は出て、裾は乱れて赤い腰巻きがちらちらのぞいて見える。それを見ていると妙な気分なってくるから不思議だ。権太郎も気が付いたらしく、さっさと俺を肩車したまんまおさよから離れた。
「さて、どこへ行くかな。もうすぐ盆だし肝試しでもやろうか」
 権太郎は、独り言のように言った。そしてもうすぐ暮れようとする田んぼの畔を、口笛を吹きながら歩いて行く。
 西の空は雲が血のように染まって、ねぐらへ帰る烏が群れをつくって飛んで行く。

                   ☆

 これはあとになってから問いた話ではあるが、騒ぎが起ったのはその晩であった。
 午後八時頃権太郎の清二郎親方が、家を訪ねてきて俺の親父にこう言った。
「権太郎が戻ってこんが心当たりはないかね」
 親父はそれを問いて嫌な予感がしたと言っていた。
「夕方内の坊主を肩車して、新田のほうへぶらぶらと歩いて行くのを見たがまだ戻っとらんのか。てっきり親方のところで飯でもよばれていると思って居たんだが、そりゃあ偉いこった」
 親父はそういうと、風呂に入りかけていが慌てて家を飛び出した。そして親方と一緒に村の子供のいる家を巡り、何か心当りはないかと尋ねて歩いた。しかし有力な手掛かりは聞けなかった。
 村長をはじめ在郷軍人曹長で、三度の運び屋をやっている重吉や、消防団長までおっとり刀で、清二郎親方のところへ飛んできた。
「親方。弟子にどんな仕付けをしているんだ。全く人騒がせも甚だしい」
気の短い村長が頭ごなしに怒鳴りつけた。
「まあまあ、弟子の仕付けは後回し。今は無事かどうか探すほうが先ではないのか」
 重吉は、現役の頃に伸ばした八の字髭を稔りながら村長をなだめた。
「確かにそれが肝心だ。権太郎はもう十五になる。そこらの野壷にはまって溺れ死ぬ何てことはねえとは思うが、万一てえことがある。駐在に捜査願いを出して消防団を招集しよう。やれやれ今夜は徹夜になりそうだ」
 消防団長はそう言うと、石頭の村長では頼りにならぬと判断して飛び出していった。
 残された連中は気まずい思いで睨みあっていたが、先ず口を開いたのは重吉であった。
「おい。権太郎の出奔に思い当る何かねえのか」
 親父はまるで自分が悪いことでもしたようにおずおずと言った。
「心当たりという程のことじゃあねえけど、内の坊主に声を掛けるまえに大きな怒鳴り声を上げていたな。おさよのアマに悪さをした奴がいて、それを押っ払っていたらしい」
「じゃあそいつらが逆憎みをして、どっかで待ち伏せしていたのかも知れねえぞ。全く近頃の餓鬼は何をしでかすか知れたもんじゃあねえ」
 清二郎親方はそれを問いて青い顔になった。権太郎は大工としてはまだ一人前ではなかったが、その生一本な性分が気に入っていた。
 それから三十分後、消防団の若い衆や村の男連中を半鐘を叩いて集め、総出に近い数で捜索を始めた。山狩や川筋はもちろん、寺やお宮の縁の下までしらみつぶしに探したが、権太郎と俺の姿は杏として見付けることが出来ず夜明けを迎えた。
 皆の疲労は極限に達し空腹でもあったので、女連中が炊き出しをやり暫く休憩をとることにした。その中の雑談で奇妙な話が出た。
 それを言い出したのは重吉であった。
「親方、今度の騒ぎはあのおさよのアマと、二百三高地の爺が噛んでいると思うよ」
「重吉さん。そりゃあ一体どう言うことだい」
 親方は握り飯を頬張りながら、不思議そうな顔で聞いた。
「あの二人が出来ているという噂は耳に入っているだろう」
 重吉も二つ目の握り飯と沢庫を一切れつまみながら言った。
「そりゃあまあ、狭い村のことだから耳に入っちゃあいるが、どっちも独りもんだから御用便になって、赤いベベを看ることはあるめえ。それと権太郎と健坊が神隠しに会ったのと、どう言う因縁があるんでえ」
 親方はむっとして聞き返した。
「まあまあそう気色ばみなさんな。これはあくまでも小宮の当て推量だがな。おさよのアマの所へ時々通う若い衆から、変な話を問いたんだが、タベの捜索で念のために、土手の下のおさよの家に行って見たんだとさ。おさよは居なかったらしい。それだけなら別に不思議はねえが、いろりに火がおこっていて、何か焼いたらしいきな臭い匂が立ちこめていたから、用心が悪いと桶に水をくんでぶっかけて戻ったそうだ。それから焼いたのはどうも着物の切れ端みたいだったというぜ」
 重吉は沢席を奥歯でがりがり噛みながら言った。
「まだ判じ物見てえで分からねえなあ」
 親方はもう一つ握り飯をつまみながら首をかしげた。
「つまりおさよは、いろりの燠の始末もしねえで消えたって分けよ。いくら頭のネジが緩んでいると言っても、これまでそんなことはなかったぜ。それにもう一つ妙なことがあるんだ。土間にこれが落ちていたそうだ」
 重吉はそういうと、懐から小さな物を取り出して親方に見せた。
「あれえ。こりゃあ二百三高地の爺が、いつも自慢そうにぶら下げていた勲章じゃあねえか。どう言うことになるんだ」
 親方はそれを見て、沢俺を危うく喉に詰めそうになりながら言った。
「少なくともあの爺さんが、おさよの家に入った証拠にはなるな。そのあとのことは何があったか想像するだけだけど」
 重吉は帝国軍人にあるまじき下卑た笑いを浮かべて言った。
「するとおさよとあの爺が、変な相撲を取ったというのかい。世の中何が起るか分からねえなあ」
 親方は腰にさした煙草入れを抜いて、かますから刻み煙草の萩を一つまみ取りだし、雁首に詰めながら言った。
「この道ばかりは、天皇陛下から御薦さんまで、どうにもならねえらしいなあ。二人とも寡だから何をやっても良いようなもんだが、ゆんべあの家で何があったのか、権太郎と健坊の神隠しの一件と、関係があるのかないのか、それが気になってな」
 重吉はマッチをすって、親方の煙管の雁首に炎を近付けながら言った。
 その時消防団の若い衆の一人が、泡をくらって飛び込んできて叫んだ。
「大変だ。権太郎と健坊が拝み婆あのところで見付かった」
 それを聞いて、そこに集まった人々は色めき立った。

                   ☆

 話は昨日の夕方親父と別れてからのことに遡る。大人たちがそんな騒ぎをしているともつゆ知らず、俺と権太郎は時を忘れて遊んでいた。
 俺は権太郎の肩に乗って、六尺豊かな大男の視線を味わいながら、たんぼの畔を伝って、五年前の洪水でできた川原の方へ行った。そこには親父が石を拾って馬屋肥えを運び、苦労して造った五畝ばかりの畑があって、親父が丹精込めて作った、甘藷や西瓜が青々茂っていた。
「おい、健坊。何処のどいつか知れねえが、ずいぶんひでえことをやってるぜ。あそこはお前のうちが作っている西瓜だろう。みんな割られて旗本退屈男みてえだ」
 そういう権太郎のさす指先をみて驚いた。今年は出来がいいと親父が喜んでいた大きな西瓜が、無惨にもばっくりと口を開け、葉の間から赤い傷口をさらして居た。
「烏がやったんじゃあねえよな」
 俺は泣きべそをかいた。親父が盆がきたら御馳走してやると言っていたのに、これではだいなしだったからだ。
「馬鹿野郎。あの傷口を見ろ。どう見たって棒で叩いてできたものだ。烏が柳生流を使うかよ」
 権太郎は腹立たしそうに言った。きっと心当たりがあるに違いない。あの悪童連中と見当を付けているのだ。
「じゃあ敵を討っておくれよ」
 俺は半分冗談のつもりで言った。
「ようし。やってやるが後のことだ。今夜は怖い目をしなきゃあならねえが、健坊にその覚悟があるかい」
 権太郎は何をする気なのか分からなかったが、俺が途中で逃げたんじゃあ、いかにも臆病者と思われて情けない。内心はびくびくものであったがこっくりとうなずいた。
 俺を肩車したまま土手下のおさよの家の方へ向かった。今から思えばあの当時の土手だから、そう大したものではないのだが、子供の目には一寸した山のように思えた。その山のふもとの荒屋におさよは住んでいた。これも今から思えば不思議な話だが、入婿に身上を食い潰され頭のネジがゆるんだ女が、どうやって食扶持を都合していたのであろう。生活保護とか国民年金等という、結構なものがある時代ではなかった。田舎のことだから女房連中が哀れに思って、自分の家で採れた野菜や芋等を、差し入れてやっていたのだろうが、はたしてそれだけで生活出来るのだろうか、ほかに悪いことでもやっているのではと、幼心に思っていた。
 俺と権太郎がおさよの家の門口ヘ近付いたとき、中から変な声が聞こえてきた。何と表現すればよいだろう。春先野良猫がぎゃあぎゃあ鳴くのに似ているが、あれよりもっと切なそうであった。
「おっ、おさよの奴内職をやってるな。相手は何処の好兵衛だい」
 権太郎は何もかも心得た顔でそう言った。
「内職ってどんなこと……」
 俺が無邪気にそう聞いたので、権太郎は一寸困った表情したが、すぐににやにや笑ってこう言った。
「一寸早いとは思うが、まあどうせ一度は通らなきゃあいけねえ道だ。健坊びっくりこいても声だけは出すんじゃあねえぞ」
 俺を肩から降ろして尻からげをすると、手拭で盗人被りをして這いつくばり、そろそろとおさよの家の入り口ヘ近寄った。俺も権太郎の真似をして後ろから付いていった。はたから見れば野良猫の親子が、秋刀魚を狙って居るように見えたであろう。権太郎は人差し指を唾で滞らして、入り口の赤茶けた障子紙に突っ込んでぐるぐると回した。直径一寸程の穴を開けるとそこから家の中を覗いた。
 そこには実に不気味な光景が繰広げられていた。権太郎も男女の交わりを見るのは初めてではない。だから俺にも見せてやろうという、妙な親分気質をはっきして、ここまで連れてきたのだと思う。だがそこに繰広げられていたのは、尋常の男女の交わりでわなかった。
「げえっ、健坊折角だがお前には見せられねえ。早いこと退散しよう」
 権太郎はそういうと俺を小脇に抱えて、一目散におさよの家から離れようと走り出した。しかし中に居た得体の知れぬ者が気が付いたと見え、入り口の腰障子を乱暴に開ける音がして、ひたひたと俺達を追ってくる。
「ねえ。権太郎兄貴。一体何があったんだよ」
 俺は帯をつかまれて居るので苦しかったが、それより好奇心が先に立って、上目つかいに権太郎の顔を見ながら聞いた。
「今はそれどころじゃあねえ。逃げるのが先だ」
 権太郎は汗みずくになって懸命に走りながら言った。もうその頃はとっぶりと日が暮れ、しかもまだ月が上っていなかったので周りは暗かった。何処をどう走ったのか記憶は定かでない。追ってくる者は執拗であった。権太郎も普段なら日頃の足自慢をはっきして、とっくに振り切っているところであろうが、何せ重たい俺という荷物を抱えているのだ。段々疲れてきて後ろの足音が距離をちじめて来る。怖いので振り返る勇気もなく、ただ闇雲に走った。俺も権太郎の恐怖心が乗り移って、心臓が喉から飛び出すようにどきどきと脈を打っていた。
 随分長く走った様な気がしたが、それほどでも無かったかも知れない。恐怖にかられていたので実際より長く感じたのであろう。権太郎と俺は気が付いてみると、隣の村との境にある低い山の頂上に居た。火事場の馬鹿力とはよく言ったものだ。俺を抱えて、いくら低いとは言っても山を駆け登ってきたのだから、権太郎は桶の水を頭から浴びたように、汗をぽたぽたとしたたらせ、はあはあと肩で荒い息をついていた。
「どうやら巻いたようだが油断はならねえ。何せ相手は化け物だからな」
 権太郎はそう言って、山の頂上のころあいの岩に腰を掛けた。
「化け物って本当に居るの」
 俺は漸く地面に降ろされ、食い込んでいた帯を結び直しながら聞いた。
「俺も化け物は講談本や活動写真の中に出てくるだけだと思っていたが、おさよの家から追い掛けてきたのは、化け物というより他にねえなあ。何せ二百三高地の爺をむしゃむしゃ食っていたもんなあ」
 権太郎は手拭で顔をこすりながら、さも恐ろしそうに言った。
 俺はそれを聞いて泣き出してしまった。
「おいおい、泣くなよ。見付かったら俺達も、あの爺さんみたいに食われてしまうかも知れねえ。飛んでもねえ肝試しになっちまったなあ」
 権太郎は俺をなだめながら、実際には自分も泣きたい気分だったのであろう。普段より声を落してそう言った。
 しばらくそうしていると、東の空がぼんやり明るくなって、十日の月がのっと出た。辺りが明るくなって気分が落ち着いた。だがこれからどうしようと、考えると憂鬱であった。もと来た道を引き返せばあの化け物と出会うかもしれない。かと言って山を下り、隣の村へ助けを求める気にもならない。どう言うわけか昔からあの村と俺達の村は仲が悪いのだ。きっと丁髷を結っていた時分から、水争いなんかをやってそうなのだろう。
「さてこれからどうしたもんかな。明るくなるまでここに居るか」
 権太郎は笠のかかった月を見上げながらつぶやいた。
「嫌だよ。もしそのお化けがここまで追っかけて釆きたらどうするの」
 俺の言い分は尤もだったらしい。権太郎も慌てて岩から腰を上げた。そうして周りを警戒するようにきょろきょろ見回すと、また俺を抱き上げて意を決したように、隣村へ降りる山道を歩き始めた。
「いくら仲が悪いと言っても人間の方がいいや。隣村の連中だってまさか俺達を取って食おうとはいわねえもんな」
 権太郎はそう言って、狭い道に両側からはみ出した熊笹を、がさがさと掻き分けながら下って行く。
 そのとき下のほうから誰か上って来る気配を感じて、ぎくりと足を止めた。
「冗談じゃあねえぞ。今夜は化け物の寄り合いでもあるのかなあ。挟み撃ちにあっちゃったよ」
 権太郎は情けなそうな声を上げた。進退ここに谷まれり、と活動写真の弁士がのたまって居たが、こんな時のことを言うのであろう。
 だが上って釆たのは化け物ではなかった。うちの村の住人で元蔵という男であった。なんでも浅草で、ちょっとうるさがられた兄貴だったそうだが、シマで何かしくじって江戸を売り、諸国を放浪していたが、十年ほどまえ村へ流れてきたと親父が話していた。
 今は博労の手伝いをやっている。でも昔の悪い癖は抜けないと見えて、隣村の田舎親分が開いている賭場に通い、いつもすってんてんに剥かれていた。今夜も元蔵は下帯び一本で、調子の外れた浪花節を唸りながら上ってきたが、二人を見ると大声で怒鳴った。
「この野郎。狐か狸か知らねえが、おれっちを騙したって、これこのとおり何にもありゃあしねえぞ。さっさと消えっちまいな」
「俺達は狐や狸じゃあねえぞ。権太郎と健坊だよ」
 そういいながら権太郎は元蔵に近付いた。
「うんにゃ。化けているかも知れねえ。後ろを見せろ。もし尻尾が生えていたら只じゃあ置かねえからな」
 博打の好きなくせに、案外肝っ玉の小さい男だと俺は思った。そして権太郎と一緒にくるりと一回転して見せた。
「これで気がすんだかい」
「確かに尻尾は生えていねえようだ。だがこんな夜中にどう言うわけで、おめえらこんなところに居るんだ。子供の来るところじゃあねえぞ」
 元蔵はまだ半信半疑と言った様子で問いた。
「実は本当の化け物に追い掛けられて、仕方なくこんなところまで逃げて来ちまったんだよ」
 権太郎は、今迄の成り行きをかいつまんで元蔵に話した。
「まてまて、どうもその話はもう一つ飲み込めねえ。あの二百三高地がおさよのアマに通っているのは、村中が知っていることだ。おめえ等が見たという化け物は、どんな格好をしていたんだい。人間を食うからには地獄絵に出てくる鬼みてえなもんかよ」
 さすがに元蔵は年の功を重ねているので、子供の言うことは信じられないと見え、その事情を念入りに聞いた。
「うんにゃ、ありゃあ鬼じゃあねえ。ちょっと後ろを振り向いてみたが、頭を結って居たし着物も着ていたから、女にゃあちげえねえ」
 権太郎は思い出して身震いしながらそう言った。
「おめえの話には少し無理があるぞ。女が二百三高地をどうやって食うんだい。まさか腸を食い破っていた、なんって言うんじゃああるめえなあ。それじゃあ鍋島の化け猫だよ」
 元蔵は寒さしのぎに引っ掛けてきた焼酎が切れたと見え、くしゃみをしながらそう言った。
「実のところ俺も、本当に二百三高地の爺を食っていたかは分からねえんだよ。でも女の口の周りに血がべっとり付いて、その顔でにたにたと笑ったから、怖くて怖くて健坊を抱えて一生懸命逃げて来たんだ」
 権太郎は身振りを交えて訴えた。
「それで二百三高地はどうして居たんだい。そこに居たのか」
 元蔵は、自分の天敵である巡査のような口調で聞いた。
「確か女の向こうに人間が居たように思ったけど、自信がねえなあ」
 権太郎は声を弱々しく落して言った。
「やれやれ、それじゃあ椋椙等が鬼に見えたたぐいの話じゃあねえか。やっぱりたちの悪い狐に騙されてるぜ。眉毛に唾をすりこんで三べん回ってワンと言ってみな」
 元蔵は面白がってからかった。
「そうかなあ。でも追い掛けてくる化け物の気配ははっきり感じたなあ。そうだろう健坊」
 権太郎は自信がなくなったらしく、俺にまで同意を求めた。俺は抱えられて目をつぶって居たので周りは見ていないが、後ろからひたひたと追い掛けてくる足音を確かに聞いたので、こっくりとうなずいた。
「うむ、そうするとまんざら権太郎のたわごととも思えねえ。その口の周りを血で染めていたという女は、おさよじゃあなかったのか」
 元蔵親分のお調べは、まるで銭形平次もかくやと思われるほど冴え渡っていた。これでなぜ采の目が読めず、すってんてんにされるのか不思議なくらいであった。
「障子の穴から見ただけだからはっきりとは言えねえが、追い掛けてきた女は、夕方悪餓鬼連中に右をぶつけられていた時のおさよに似ていた気もするなあ」
 権太郎は頭を抱えてそう言った。
「おさよだとすると話が面倒になるなあ。あのアマ、入婿に身代かぎりをさせられて頭がおかしくなったんだ。男にゃあ随分憎みがあるだろうよ。鐘に憎みは数々ござるは道成寺だが、こっちは色恋じゃあねえ。本当の金だからなあ」
 元蔵がそれをいうと妙に説得力があった。金の憎みは元蔵の方が本家であろう。
「でもねえ。いくら金に憎みがあったって、どうして二百三高地の爺さんを食い殺さなきゃあならねえんだい。あの爺さんはお国から出る雀の涙程の恩給で、つましく暮しているんだ。それほど銭を持っているとは思えねえがなあ」
 権太郎は首を捻ってそう言った。
「そんなこたあ俺にだって分からねえや。そんなに言うならこれから化け物をとっつかまえて聞いて見ようじゃあねえか。でえてえこんなところで夜明しする気だったのか。健坊の家の者を始めとして、今頃村は大騒動をやっている」
 元蔵は若い頃浅草で鳴らしたことがある度胸は残っているので、その姿に似合わぬ威勢の良い啖呵を切った。言われてみればこんな山の中で夜明しするのは御免だ。かと言って元蔵の言うように、化け物をとっつかまえるなんて怖い。権太郎はこれが平重盛の心境だなと、大袈裟なことを思った。
「健坊。どうしよう」
 と、俺に問いてきた。八つの俺にそんなことが判断できるわけがない。だが置かれた状況が、にっちもさっちも行かぬことぐらいは分かった。それに日頃親父が何かと難癖を付けている元蔵であったが、大人の知り合いに出会ったのが心強かった。それで俺はこう言った。
「じゃあ元蔵おじさんに付いて化け物をとっつかまえようよ。お盆の塩サバの代りにぶら下げて帰ったら皆がびっくりするよ」
「おほっ。健坊の方がずっと肝っ玉が太いじゃあねえか。化け物は塩サバの代りにゃあならねえけどな。じゃあ俺についてこい」
 元蔵は我が意を得たりと鼻をこすり上げ、どんどん山を下って行く。俺と権太郎はその後から、おっかなびっくり付いて行った。
 何時の問にか月は中天に掛かって、まだ十日といってもさえざえと辺りを照らしている。何処か高い木の枝に梟が止まって、気持の良くない声で鳴いていた。山を下って行くと、そこは畑と水田が混在したこの辺りではかなり広い平野となった。その中を通っている細い農道を、妙な取り合せの三人組がとぼとぽと歩いて行く。それをあざ笑うかのように、水田の蛙がげろげろ鳴いていた。
 と、その時権太郎が絶叫した。
「出たあっ」
 農道の前方に黒い人影が、こっちへ向かってやって来る。
 元蔵は道端に落ちていた棒切れを拾って身構えた。下帯び一本のあまり格好の宜しくない姿ではあったが、さすがに元喧嘩出入りをなりわいにし
ていた男だけあって、その構えは透きがなかった。
「大丈夫かな」
 俺は権太郎に囁いた。権太郎も心配そうに成り行きを見ている。
「相手が人間だったら任せておけ。これでも北辰一刀流の目録取りだ。しかし化け物だったら保証しねえぞ」
 元蔵は正眼に構え、近付く相手を見定めながらそう言った。
 黒い影は段々大きくなって、その形がはっきりしてきた。やっぱり女である。結っている髷はがっく りと崩れ今にも解けそうになっていた。着物もよく見ると単衣ではなく赤い長襦袢であった。水色のしごきを巻いているが、それもうっかりすると解けそうにしどけない。手には何の呪いか五徳と三本の蝋燭を持っていた。
「丑の刻奉りとは恐れ入ったな。やい、おさよ。誰を呪い殺す気だい。二百三高地の爺を食い殺しておいてまだ足りねえのか」
 元蔵は相手がおさよと分かると急に威勢が良くなって、棒切れを大上段に振りかぶり大声で怒鳴りつけた。
「駄目だよ小父さん。おさよは頭のネジが切れてから、一言もしゃべれなくなったんだ」
 権太郎が横合いから口を挟んだ。
「馬鹿野郎。俺だって村に住み着いてから二十年近くになるんだ。おさよのアマがどう言う事情でこうなったかくらい百も合点してらあ。だがな。本当に頭のネジが切れていたら、五徳や蝋燭を用意するもんかい。芝居かも知れねえ。村の者共の同情を引くためのな」
 元蔵の推量は当たっているかもしれないと俺は思った。だっておっ母が自分の家で作った色んな野菜を持って行けというと、必ず比べて大きいのを持って行く。ネジが切れている者に損得勘定が出来るであろうか。
「こんなところで睨み合っていてもらちがあかねえ。おい権太郎。乱暴なようだがおさよのアマを引っ担いで、村へ戻ろうじゃあねえか」
 元蔵が権太郎に目配せした。だが権太郎は怖いとみえ躊躇してこう言った。
「俺は遠慮しておくよ。喉笛を噛み切られたらてえへんだ」
「だらしがねえ野郎だな。しかし用心に越したこたあねえ。そうだ。こうしよう」
 元蔵は何を思ったか自分の下帯びを解きはじめた。言わずと知れたフリチンになった。解いた下帯びは優に六尺はある。それを絞るようにまとめて一本の太い晒しの綱を造った。どうやら元蔵親分の考えが俺にも読めてきた。
「そいつでおさよを縛るのかい」
 俺が無邪気に問いた。
「やっぱり健坊の方が頭が切れるなあ。末は陸軍大将だぞ」
 元蔵親分は妙な誉め方をしながら、早速仕事に掛かった。女を縛るのは若いとき散々やって慣れているのであろう。訳の分からない唸り声を上げて暴れるおさよを、地べたに組み伏せ後ろ手に縛り上げてしまった。活動写真の悪漢をやらせれば適役だなと俺は思った。
「きりきり歩きやがれ」
 元蔵親分はむりやり縄尻を取っておさよを引き起こすと、棒切れで尻を叩き追い立てた。益々活動の悪徳目明しに見えてきた。だが素っ裸で、そのうえご丁寧にもフリチンときているから、締まらないことおびただしい。
「でもねえ。この格好で村へ帰ったらどういう説明をするんだい。俺達の話を頭から信用してくれるとも思えねえけどなあ。下手をすりゃあ元蔵親分と俺で、おさよを手込めにしたと思われるのが落ちだぜ」
 後から付いて行きながら権太郎は大いにぼやいた。
「それもそうだがな。じゃあこうしよう。この先に拝み婆あの荒屋があったろう。あの婆あのところへ寄って事情を話し、証人として付いて来きてもらおうじゃあねえか」
 さすがに年の功、元蔵親分は旨いことを思い付くものだ。拝み婆あと言うのは村からちょっと離れたところに独り住んでいる、今年何才になるのか分からないイタコのことである。俺もおっ母に連れられて寝小便が止むようにと、拝んでもらいに行ったことがあるが、とても気味が悪くてかえって夜尿が酷くなった。祭壇の真ん中に錆びかけた鏡を飾り、その周りには有りと有らゆる気持の悪いがらくたが並べてあった。例えば猿のしゃれこうべとか、蝦蟇の干物といった類である。それに拝むとき白目を剥いて口から泡を吹き、御幣を振りながら奇声を発するから、たまったものではない。俺は出来ることならあの婆あの所へは二度と行きたくはなかった。だがこんなところに置いてけぼりを食わされては大変なので、仕方なくとぼとぼと付いて行った。
 元蔵とその一行が拝み婆あの荒屋へ看いたのは、もう一番鶏が鳴いてしまってからであった。
「おい婆あ、用があるから早く起きて戸を開けろ。開けねえと蹴破って入るぞ」
 元蔵は壊れ掛かった雨戸を、乱暴にどんどん叩きながら怒鳴った。
 やがて奥のほうからしわがれ声が聞こえた。
「うるさい奴等だ。猿は降ろしてねえから入ってきたけりゃあ勝手に開けて入れ。おさよを連れてきたんだろうが、正気に戻すにゃあ大分拝み代を払ってもらわなきゃあいけねえぞ」
「あれ、おさよを連れてきたのが分かるとは、この婆あ本当に神通力を持っているのかいな」
 元蔵はちょっとたまげたように言うと、それでもおさよを追い立てて拝み婆あの荒屋に上がり込んだ。
「おやおや、親分さん。大変な格好で来なすったねえ。いくら梅干しでもそんなに大きな青大将が、鎌首をのぞかせてたんじゃあ目の毒だ。これでも腰に巻いておきな」
 拝み婆あはそういうと、あまり清潔とは言えないフランネルの腰巻きを放ってよこした。
「うわあっ、自分の古手を寄越しやがった。何だか嫌な匂がするぞ。まあ仕方がねえ借りておくか」
 元蔵はぽやきながら、しぶしぶそれを拾って腰に巻いた。その問に拝み婆あは、縛られてぼんやりとうつろな目で、虚空を見上げているおさよの様子をしげしげと眺めた。
「ううむ、この女の中には物凄い怨念が篭っているぞ。男にたいしてな」
「そりゃあそうだろう。入婿にあれだけ有った家屋敷や田地伝畑を丸裸にされたもんなあ」
 元蔵はそういいながら、あぐらをかくわけにもいかず正座をした。その格好がおかしかったので付いて上がった俺と権太郎は思わず吹き出した。
「うんにゃ、それだけの怨念じゃあねえぞ。もっと深い地獄の底から沸き上って来るような憎しみだ。長年イタコをやって生霊死霊と付き合ってきたが、こんなすざましい怨念に出会ったのは初めてだ」
  拝み婆あはそういうと深い溜息を付いた。
「じゃあおさよに何が取り付いているか、拝んで見てくれねえか」
 元蔵は、あの山で俺と権太郎兄に出会ったのも何かの因縁だ。厄払いにこの一件を片付ければ、少しは目が出るかもしれないと、僅かばかりの希望を抱いて頼んだ。
「親分。商売だから頼まれりゃあ拝みもするがね。その格好でお布施は大丈夫なのかい」
 拝み婆あは抜け目なく念を押した。
「痩せても枯れても雷門の元蔵という、ふたつ名を奉られたこともある男だ。お前の拝み代くらい何としてでも払ってやらあ。さあ早速初めろい」
 元蔵はここで侮られては活券にかかわるとばかり、妙に力んでそう言った。
 拝み婆あはそれならというので、早速おさよを祭壇のまえへ引っ張って行くと横倒しにして、印を結び口のなかでもごもごと分けの分からない呪文を唱え始めた。それを俺達三人は固唾を飲んで見守っている。
 だんだん拝み婆あの体の括れが激しくなり、それに比例するように唱える呪文の声も大きく激しくなって行く。
「怖いよ。あの婆さんの顔が鬼に見えてきた」
 俺は横に座っている権太郎の袖を引っ張って、小さな声で言った。
「俺も怖いけど我慢しているんだ。男なら辛抱しろい」
 そういう権太郎の声も、心なしか震えて聞こえた。
 やがて拝み婆あの呪文が最高潮に達した。
「キェーッ」
 という怪鳥の鳴き声のような気合いと共に、拝み婆あは体を前へ突っ伏した。
「そろそろおさよに取り付いているものの正体が現われるな。二人とも用心しろよ」
 元蔵が横を向いて俺達に注意した。しかしどうやって用心すればいいのか俺達には分からない。
 丸太のように転がっていたおさよがぴくりと動いた。俺達はぎくりとなった。権大郎等は思わず飛び上がったくらいである。
「さあ、鬼が出るか蛇がでるか。危ないと思ったらすぐに逃げ出せるよう身構えておけ」
元蔵親分は、さすが修羅場を潜ってきただけに的確な判断で命じた。俺達は雨戸が開いているのを確かめてから、おさよの方に目を向けた。
 だが、おさよは何事もなく転がっている。そのかわり拝み婆あがバネ仕掛けの人形のように、がばっと跳起きた。白くて薄い髪の毛をおどろに振り乱し、腐った魚のようなどろんとした目を剥いてこちらを睨んでいた。
「きゃあっ、逃げよう」
 俺が思わず悲鳴を上げた。
 それを権太郎は抱き留めて言った。
「まあまて。むやみに逃げても、またさっきのよに追い掛けてこられたらたまったもんじゃあねえ。元蔵親分も居ることだし、もう少し成り行きを見定めようぜ」
「ふむ、今度はいやに落ち着いているな。そうれ拝み婆あが何かしゃべり出した。一体何が乗り移ったのじゃい」
 元蔵はそう言って、拝み婆あの言うことを確かめようと、両手を耳に当てがい半身乗り出した。
 拝み婆あの口から出る言葉は、低く陰気で地材の底から響いてくるようであった。
「ようく聞け。俺はおさよの体に潜り込んだ死霊だ。成仏できずに何十年もこの村の中をさ迷っていた。丁度おさよという心が空っぽに成った女が居たので潜り込んだのだ。おさよの体から出ていってほしければ、俺の言うことをきいて憎みを晴らしてくれ。一人は俺の力で取り殺したがな」
 その取り殺されたというのは、二百三高地の爺であろうと俺は震えながら思った。あの爺、露助を爆裂弾でやっつけたといつも自慢していたが、まさか海を越えて露助の魂魄が追い掛けてきたという分けでもなかろう。
「ようし、この雷門の元蔵が訳をきいてやろうじゃあねえか。それでなるほどと納得がいったら、手前の望みをかなえてやろう。一体何者なんだ」
 元蔵親分は威勢のよい啖呵を切って見せたが、内心びくびくものであった。
「俺の正体か。手前等は知らねえだろうが、あの日露戦争にむりやり引っ張り出された富蔵という、水呑百姓の長男坊よ。露助を殺して勲章をぶら下げ、意気揚々と凱旋してきた、あの法螺吹きと一緒に出征した者よ」
 拝み婆あの口からでる言葉は、益々陰気で凄みを増した。
「手前成仏も出来ずに迷っていると言ったな。おかしいじゃあねえか。戦争で死んだ連中の魂は靖国神社へ行くもんだ。こんな所をうろうろしているのを見ると、ははあ分かった。戦が怖くなって敵前逃亡でもやらかしたか」
 元蔵親分が不用意に言った言葉が死霊を怒らせたと見え、おさよの体がまるで貰の様に青白く光ったかと思うと、その光が体を抜け出して巨大な人魂と成り、頭の上をぐるぐる回り出した。そうして今迄拝み婆あの口を借りて発していた言葉が、その人魂から直接出るようになった。
「敵前逃亡をやらかしたのは、おさよに通っていた梅次だ。しかももっと悪いことをやって、口を拭っているんだからひでえ野郎だ」
 梅次と言うのは二百三高地の本名であった。村の者が梅次という名前を忘れぬほど、二百三高地の武勇伝は有名になっていた。
「悪いこととはどう言うことだ」
 元蔵親分は天井を見上げながら怒鳴った。
「梅次の野郎はな。俺の手柄を横取りして背中から撃ちやがった。だから俺の骨は寒い大連の外れに曝されたまんまだ。まあ魂魄になれば寒さは感じねえけどな。それからおさよの父親と爺にも憎みがあるんだ」
 人魂は上から降りて、放心状態の拝み婆あの横で、めらめらと燃えながら言った。
「梅次にやられたのは分かった、俺だってそんな目に会えば取り殺すが、おさよの親父にどんな憎みがあるんだい」
 元蔵親分はここまでくれば度胸が座ったとみえ、まるで友達に尋ねるような口調になった。
「小作がどんなに惨めなもんか、お前さんだってここに二十年も恨を生やして居りゃあ分かるだろう。おさよの家は俺が出征する頃は羽振りが良くてな。それだけなら良いが、おさよの爺てえのが業突張りの上に、女ったらしと釆ているから始末が悪い。俺の姉におきよという、ちょっと渋皮の剥けたのが居てな」
 人魂がそこまで言うと、元蔵親分が手を振って制したo
「話は皆まで言うな。それじゃあ下手な祭文語りの筋書きじゃあねえか。そのおきよってアマに、おさよの爺が地主を笠に着て手を出したという分けだ。腹が前に競り出してきたので、インチキ中条流で流そうとして、自分の命を三途の川に流しっちまったというお粗末だろう。あんまり有り触れた話なんで、聞いてるほうがあくびが付いてくらあ」
 元蔵親分にぽんぽん捲し立てられ、気のせいか人魂の炎がしょんぼり弱くなったように見えた。
「まあ当たらずとも遠からずというところだな。本当のところ姉は腹が膨れるまえに首を吊って死んじまった」
 人魂は声を弱めてそう言った。俺は何だか哀れな気がした。
「それでおさよの家が没落したのか。親の因果が子に報いというやつか。しかし富蔵さんよ。憎みを晴らすのに随分年月が経ったじゃあねえか。人間体を無くしちまったら、風のようにびゅんと大連からひとっ飛びに戻れるのと違うのか」
 元蔵親分は子供のような質問をした。
「それがそうはいかねえ事情があるから、霊魂の世界も面倒なものよ。俺一人の魂なら親分の言った通り、すぐに戻って梅次とおさよの家に取り付いてやるところだが、日露戦争で命を落した者は俺だけじゃあねえ。もっと言やあ日本が出来るまえから戦いはあったんだ。戌辰の役から西南戦争に、また日清戦争そのほか佐賀の乱や、秩父騒動と数え上げりゃあ無数の魂魄がうようよしているんだ。それに天皇陛下に逆らった、いわゆる逆賊の魂も浮遊しているから、霊界も混雑して寿司詰め状態なのよ。それをかき分けかき分け戻りゃあ、これだけの年月がかかるてえ分けよ」
 人魂の言い訳を俺は初めて聞いた。元蔵親分も半ば呆れて言った。
「よく納得したわけじゃあねえが、一応の事情は読めた。それでお前さん、おさよの体に何時まで取り付いている気だい。何時までもこうしているわけにもいくめえ。まあ、おさよの爺さんや父親の仕打を憎むのは当前じゃが、孫の代まで崇るというのも、男としてしつこ過ぎるんじゃあねえか。おさよは入婿に逃げられてこのざまだ。もう好加減に勘弁して行くところへ行ったらどうだい」
「確かにこんな頭のネジが緩んだ女の体に取り付いていたって、あんまり気持のいいもんじゃあねえ。でも俺は行く所がねえんだよ」
 人魂の言いぐさは寂しそうに聞こえた。
「成程ね、背中から撃たれて大陸の原野に野ざらしじゃあ、坊主の引導渡してもらってねえってことか。しかしお前さん見てえになって、お国のために命を落した人間は、靖国神社に合祀される事に決まっているんだろう。ここから九段まではそれほどの時はかからねえ。早く行ってみなよ。お仲間が首を長くして待ってるぜ」
 元蔵親分は拝み婆あのお株を取って御霊鎮めを試みた。
「馬鹿言っちゃあいけねえ。靖国神社なんか行ったらよってたかって袋叩きにされらあ」
 そう言って富蔵の人魂はぶるぶる震えた。
「そりゃあまたどうしてだい。お前さんの手柄を横取りしたのは梅次だろう。そんなことも分からねえのが靖国神社を仕切っているのかい」
 元蔵親分は腹立たしそうに聞いた。
「梅次が裏切って手柄を横取りしたくらいは、あそこの連中だって分かってらあ。しかしな。連中の親玉は御一新に天皇陛下を担いで、徳川幕府を転覆した薩摩や長州の成上り者が多いからな。俺みたいな馬鹿正直の魂魄とは反りが合ねえのよ。手柄を横取りされた方が悪いと、せせら笑うのがおちだろうよ」
 富蔵の人魂の勢いは益々弱くなって、いまにも消えて無くなりそうだ。
「おいおい、そんなに悲嘆するなよ。お前さんの復讐は一応達成したんだから、俺が行く先を教えてやろう。これからこの拝み婆あの力を借りて、ダイダラボッチを呼び出して、お四国八十八ケ所を回りゃあ極楽往生間違いなしだ。それが良いそれが良い」
 元蔵親分は一人で納得して、こっくりこっくりとうなずいた。
ダイダラボッチとはなんだい」
 人魂は聞き返した。
「あれ、何にも知らん無学な人魂だな。まあ水呑み百姓の枠じゃあ仕方がねえか。弘法大師のことだよ。普通の人間じゃあ見えねえがな。山をまたぐような大入道に変化して、日本西中を経巡って居なさるそうだ。だからよう、お前さん見てえな迷って成他出釆ねえ魂娩を、救いあげてくださるだろうよ」
 それを横で黙って問いていた俺と権太郎は、元蔵親分の宗旨が博徒に似合わぬ真言だと言うことを初めて知った。
「それじゃあそうするか。でもよう、俺は梅次を取り殺したんだ。あの死骸が見付かったらおさよに濡れ衣が掛かる。ビうしたらいいんだろう」
 こいつ人魂のくせに心配性な奴だと、俺はおかしくなった。元蔵親分も同じ思いだと見え、大きな声で怒鳴った。
「馬鹿野郎。二百三高地の梅次を、おさよを使って取り殺したんだろう。お前としちゃあそれで気が済んだんだ。今夜はおさよのアマが丑の刻参りをする気で、五徳と蛸爛を持ってうろうろしていたぜ。今更これ以上誰を呪う気だったんだ」
「さあて、おさよもまだ性根は残っていると見え、家を食いつぶして出奔した入婿に憎みを残していたのだから、そいつを呪う気じゃあなかったのか」
「やれやれ、人間の憎みほど始末の悪いものはねえな。おい、拝み婆あ。いつまで寝ているんだ。起きてダイダラボッチを呼び出してみろ」
 元蔵親分は、もう付き合って居られない、うんざりだと言った様子で拝み婆あをけとばした。
 拝み婆あはううんと唸って、むくりと体を起こした。そして辺りをきょろきょろ見回した。
「ううん、よく寝た。人が折角若い頃に戻って、良い男に抱かれている夢を見ていたのに、蹴り飛ばしやがって」
 拝み婆あは、憎めしそうに元蔵親分を睨んで言った。
「やれやれ、女の性は灰になるまでとは良く言ったもんだぜ。それよりお前さんが妙な呪文を唱えて、おさよの体から呼び出したのは、
富蔵とかいう明治の頃の水呑み百姓だったよ。お前さんは男の夢をみて居て気が付かないとは商売が下手だな」
 元蔵親分のからかいに、拝み婆あは暫く首を捻っていたが、ぽんと手を打って言った。
「そうだ。富蔵といやあ梅次と一緒に日露戦争へ出征したが、梅次と大違いで鉄砲の弾が怖いと、戦場から逃げ出そうとして、上官に撃ち殺されたと梅次が話ていたっけ」
 それを聞くと人魂は烈火のごとく怒り、めらめらと炎を上げ、いまにも拝み婆あの荒屋を焼き母さんばかりに成った。
「おいおい、お前さんの気持は良く分かるが、また殺生を重ねたらお大師さんの怒りに触れて、地獄へ落されるかも知れねえぞ。ここは冷静に冷静に」
 元蔵親分はそう言って富蔵の魂魄をなだめた。これじゃあどっちがイタコだか分かりゃあしない。
 富蔵の魂晩は、親分のなだめが効いたのか炎が少し小さくなった。
「それでよし。で婆さん。富蔵の魂魄をお大師さんにお任せしようと思うんだが、お前さんに呼び出せるだけの神通力はあるかい」
 元蔵親分は、今の様子をみて心もとなげに問いた。
「これでも、恐山でイタコの修行を積んでいるんだ。死んだ者の霊魂を呼び出すくらいお茶の子さいさいだよ」
 拝み婆あは胸を叩いた。だが俺にはそれが空威張りにみえた。
「頼りねえなあ。お大師さんは死んでねえことになっているんだよ。日本全国を一年かけて巡り、高野山の廟に戻られるんだそうだ。そしてまた新しい衣と草鞋で次の旅に出かけられるという。だから霊魂とは言わねえんじゃあねえか。俺はそっちのほうは藤四郎だから、大きな口はきけねえが、生きている者を呼び出すのと、霊魂を呼び出すのとは自ら方法が違うと思うけどなあ」
 元蔵親分の案じたことは的中した。拝み婆あはそれを聞くとしょぼんとなり、頭の上に手を合わせて謝った。
「親分面目ない。おらの領分は、死んだ者の魂を呼び出して口寄せすること、それ以上のことは有難い坊さんに相談してくれよ」
「それ見ろ。言わねえこっちゃあなかろう。ふうむ、何時までもこんな人魂を村においとく分けにもいかねえが、今も言った通り藤四郎の俺に、霊魂を成仏させるなんて器用な真似は出来ねえ。はてどうしたらよかろうなあ」
 元蔵親分は、歌舞伎役者の真似をして、目を剥き首をふって見栄を切った。その格好があんまりおかしかったので、俺と権太郎は怖いのを忘れてげらげら笑った。
 その時地の底から突き上げるような振動が、拝み婆あの荒屋を襲った。
「何だなんだ。地震か」
 親分を初めそこに居た者は、富蔵の人魂までが慌てて外へ飛び出した。
 だが空には十日の月が煌煌と輝き、相変わらず遠くの森で梟が飽きもせずに鳴いている。
地震にしちゃあ様子が変だ。外はやけに静かだぜ」
 元蔵親分が、フランネルの腹巻きの前を掻きあわせながら言った。
「おさよを放っておいていいのかい」
 権太郎が振り向いて、荒屋のほうを見返りながら言った。
 その時気が付いたのだが、荒屋の藁屋根の破風からちょろちょろと、赤い炎がまるで蛇の舌のように出ていた。
「いけねえ。地震かと思ったら二番目に怖い火事だよ。水水っ」
 権太郎がそう叫んだ時には炎は蛇から龍に変わって、やがて藁屋根全体に広がった。拝み婆は腰が抜けたと見え、地面にへたり込んで合掌しながら、訳の分からないことを口の中でぶつぶつと呟いている。
「やあ、こりゃあもう俺達だけじゃあ手が付けられねえ。今更井戸から水を汲んで掛けたところで焼け石に水てえもんだ。おさよにゃあ気の毒だがどうしようもねえ」
 元蔵親分が悲痛な声で叫んだ。
 奇跡が起こったのはその時であった。ごうごうと音を立てて燃える家の中から、誰かがおさよを抱きかかえてぬっと出てきたのだ。不思議なのは家の中にはおさよより他に誰も残っていないはずである。それにその人間の格好が尋常ではない。頭の天辺から足の爪先まで銀色に輝いていた。恐らく薄物を着ているのであろうが、余りにも体に密着していて、ちょっと目には裸のように見えた。背は五尺三寸ぐらいでそれほど長身とは言えない。顔は着ているものと同じ色の頭巾を被っているのであろう。鼻や口は見えなかった。ただ目だけが異様に大きかった。
 その人間は、おさよをそっと俺達の前の地面に置くと、無言で立ち去って行った。元蔵親分がやっと我に返って声を掛けた。
「おおい、お前さん。何処のどなただい」
 だが返事はなく、やがて来る朝の気配のなかに溶け込むように、その人間は消えてしまった。