矢車通り~オリジナル小説~

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決心

 あいつを殺そう。
 六畳一間の部屋を見回す。きれいに片づいている。しなくてはならないことはすべてした。ケータイを出して、恋人に電話をかける。
「ゆうべ」
「え?」
「夜中にふと目を開けたら、ふとんの上にあいつがいたの」
「で、どうしたの?」
「悲鳴を上げたら逃げてった」
「そうか。無事でよかった。それにしてもどこから入ったんだろう」
「暑かったから窓を開けていたの。たぶん、そこから。そこから逃げたし」
「開けっ放しは危ないな」
「だって、ここ五階よ?」
「上から入るとか、隣から入るとか、いくらでも方法はある。油断しちゃダメだよ」
「そうね。それから眠れなかった。怖くて」
「大変だったね」
「思い知ったわ。放っておいちゃ危険だって。だから、あいつを殺すことにしたの」
 沈黙が返ってきた。反対なのだろうか。不安な気持ちのまま待っていると、やがて、声が聞こえてきた。
「気持ちはわかるけど、よく考えてくれ。あいつは君に何かした? 実害はないだろ?」
「ええ」
「じゃあ、何も殺さなくても……」
「何かあってからじゃ、遅いわ」
 言葉は、なかなか返ってこなかった。やがて、恋人はぽつりとつぶやいた。
「もう決めたんだね」
 わかってくれた。ホッと息を吐く。
「ええ。それでしばらくここに来ないで欲しいの。罠を仕掛けるから」
「ああ」
「何もかも終わったら死骸を片づけなくちゃ。それに汚れるでしょうから掃除もしないと」
 そのときに見るものを想像すると、気分が悪くなる。
「何か、手伝おうか?」
「ううん。もう準備は出来てるから」
「じゃあさ」
 恋人の声が急に高くなった。
「これからデートしようか。映画見て食事して。そうさ、楽しんでいる間に何もかも終わってるさ」
 無理やりはしゃいでいるような甲高い声だ。私の気分を引き立ててくれようとしているのだろう。感謝を込めて、つとめて明るく返事をする。
「じゃ、いつものところで」
「ラジャー。三十分で行くよ」
 ケータイを切ってバッグに仕舞った。
 薬剤の入った円筒形の容器をプラスチックの容器に入れた。水に触れた円筒から白い煙が立ち上ってくる。
 これであいつを殺せる。
 我が物顔で部屋をうろつくゴキブリを。