矢車通り~オリジナル小説~

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離れない(仮)3

     3

 大学が忙しいところだとは知らなかった。
 今度は絶対に単位を落とせないので、真面目に授業に出席した。課題をこなしレポートを書く。どんなアクシデントで単位を落とすかわからないので、多めに授業を取ったこともあって、ほとんど毎日6時間大学に拘束された。その上で家庭教師の授業と準備がある。三人の子、それぞれに合った教材ややり方を模索しながらとなると、放課後はそれでほとんど時間が無くなった。特に真白木純子が毎日何かしらの質問を送ってきた。たいがいのことは、その場で解けるような簡単なことだったが、計算問題などやり方ひとつで簡単に出来たり出来なかったりする問題には、こちらも慎重に答える必要があり時間がかかった。
 忙しいほうがいい。心を亡くすと書くというが、余計なことを考えないようにするためには、予定がたくさん詰まっていたほうがいい。去年好きだった彼女とは学年が違ってしまったので授業で鉢合わせしたりすることはないが、たまに学食などで遠くから見かけることがある。近づいたらまた怖がるのだろうと思うとあいさつひとつできない。見つからないようにこそこそと逃げ出すだけだ。ときどき、彼女が一方的に怖がっているのに、なんで僕のほうが隠れなくてはならないのだろうと思うこともあるが、そうしなくてはならないほど傷つけてしまったのだとすぐ思い直す。
 今は三人の生徒たちの高校合格が最優先だ。実績を作れば会社からも信頼される。女性を追いかけていて落第では、もうまともな就職口を探すのは難しい。親は職人で会社勤めなどには縁がなく、親のコネクションはあてにできない。アルバイトからでも、何か実績を作って就職活動でアピールできるポイントを稼いでおきたい。
 それに、純子のような美少女に尊敬されているのは、よい気分だった。出来れば、家庭教師に行っている間は、ずっと敬われていたい。そのための努力なら惜しまず出来るような気がする。
 梅雨入りして、もう一週間が経とうとしているころ、放課後になってすぐ、家庭教師の会社からメールが入った。何の用だろう? 嫌な予感がした。今日は木曜日で授業はない。土曜日の状況報告を兼ねた給料の支払いのほかは、会社に行くことはないのだ。教師チェンジ以外は。
 メールを開けてみると、真白木純子の母親から教師チェンジの申し出が入っているので、話し合いたいという内容だった。すぐにうかがいますと返信を入れる。純子の家で待ち合わせようと連絡が入った。そちらに向かう。大学からもアパートからも近いところを仕事先に選んでいるから、自転車で十分とかからない。
 母親から。自転車をこぎながら考えた。純子は自分の意志では何も決めていない。なら、まず母親に取り入らなくてはならなかったのだと今更ながら後悔した。今まで、どんな様子だったか、思い返してみる。インターフォンを鳴らしていたのは二回目までで、あとは面倒だから勝手に上がってくれと言われた。それでも一応、声をかけていたのだが、テレビの邪魔だからそれもいらないと言われ、最近は黙って入って純子に教え黙って帰るという状態だった。母親の機嫌を損ねるようなことをした覚えはない。そもそも顔も合わせていないのだ。
 純子の家に着くとインターフォンの前に事務方の田中さんが来ていた。頭を下げてあいさつする。
「理由はなんですか?」
「いや、君がお母さんとぜんぜん話をしないから気味が悪いとおっしゃるんだよ」
「あの……」
 母親について正直に話していいものかどうか迷う。客の印象が悪くなるようなことを言ったら、生徒チェンジどころか仕事をクビになるかも知れない。だが、説明しないとわかってはもらえない。どうせチェンジの話が出ているのだ。思い切って言おうと決めた。
「生徒の純子さんを通じてですが、応対するのも面倒だから、勝手に入って勝手に帰ってくれって言われてるんですけども」
「あああ、そうかあ。そうだよなあ。君があいさつひとつしないわけないよなあ。うん、わかった。で、最初はどうだった?」
「最初は、インターフォンを鳴らして、むこうが応対して、でも、声だけで、玄関を開けたりもしませんでしたし、最初から自分で扉を開けて中に入っていました」
「ああ、なるほどな。うん。わかったわかった。で、生徒はどう? なついてる?」
「慕ってくれてるはずだと思います。毎日質問メールを送って来ますし、今日だって、ほら、三通来てます」
 僕は証拠にと思って、着信メールの履歴を見せた。
「ふむふむ。ああ、そうかそうか。じゃ、これから入るけど、君は俺の横にいて、何か俺が言うたびに、お母さんの目を見てうなずいてくれ。いいか、君に落ち度はないから不満だろうけど、お母さんはお母さんで、初めて家庭教師を雇ったわけだし、いろいろ不安になってしまっただけだから、何を言われても黙ってうなずくんだよ」
「わかりました」
「それから、リビングはたぶん足の踏み場もないほど、とっ散らかってる。で、お母さんはそれ気にしているから、部屋に入ったらお母さんの顔だけ見て、部屋の中を見回したりしちゃダメだからね」
「入ったこと、あるんですか?」
 玄関の乱雑さを思い浮かべた。確かに、あの調子ならリビングだって散らかってるだろう。
「なくてもわかる。話し方がとっ散らかってるし、考え方もとっ散らかってる。むしろ、これで部屋が片づいていたら、よほど性格が歪んでるんだろう、と、思うよ。準備はいいね。入るよ」
 田中さんがインターフォンを鳴らした。
「はい」
 受話器を取る音がする。
「家庭教師の田中と後藤です」
「ええ? 後藤さん? 会わなきゃダメ? もう辞めてもらうのに」
「ああ、いえ、そのことでお母さん。ちょっと確認させていただきたいんですよ。こちらの書類上のことでで申し訳ないんですが、お母さんがどういう理由でお替えになったのか、書類に書かなくてはならないんです。十五分くらいで帰りますので、ちょっとお話しを聞かせてください」
「本人に言わないとダメなの?」
「ええ、申し訳ありませんが」
「しょうがないわね。ちょっとだけよ」
「では、お邪魔します」
 田中さんがドアを開けた。中に入るとすぐ上がり込み、どんどん奥へと入っていく。開けっ放しのリビングのドアを抜けると、ソファに大きな鏡餅が座っていた。いや、鏡餅と一瞬見えたものは、顔が丸くて頭が大きく、体も負けないくらい大きな女性だった。一応応接四点セットなのか、ガラスのテーブルを挟んで、一人掛けのソファが二つ対峙している。何やらいろいろ載っていたが、田中さんはちょっとした隙を見つけて座ってしまった。僕もならう。
「五月以来ですね。真白木さん。お元気でしたか? 腰の具合はいかがです?」
「あ、あら?」
 親しげに田中さんから話しかけられた母親は、体を起こして座り直した。
「何カ月か前にちょっと話しただけなのに覚えてたんですか?」
「ええ、出来るだけ長いおつきあいをさせていただきたいですから、覚えるようにしています。椎間板ヘルニアとか?」
「いえ、それはもうすっかりいいんですけど。急に動くとグキッといきそうで。こわごわ動いてるんですよ」
「ああ、そうですね。あ、そうだ。それを先に君に言えばよかったな。彼女は腰痛をわずらってて、あまり動けないんだよ」
 田中さんが僕を振り向いたので、僕は必死で笑いながらうなずいた。
「ああ、そうでしたか」
「そう。だから、君のほうから、入って来なくちゃいけなかったんだ」
「ああ、そうでしたか」
 腰痛なんてひと言も、と言い返しそうになるのを、ググッと堪えてにっこり笑ってやった。田中さんは僕に落ち度はないとわかってると言ってくれた。その上でのことなのだから我慢しなくては。
「ああ、いや、すみません。つい、不精したようで、私からもお詫び申し上げます」
「ええ、そうなんです。不精しまして申し訳ありませんでした」
 僕も一緒に頭を下げた。
「え、あの、いえね。声をかけなくていいって言ったの、こっちなんだけど……」
 丁寧に頭を下げられて、さすがにバツが悪くなったのか、もごもごと語りだした。
 田中さんが背中を丸めニコニコしながら、母親の話にうなずいている。
「ああ、そうなんですか。でも、気がお変わりになった?」
「気が変わったっていうか……。昨日ね、近所のお母さんたちとレストランで食事してたらね、家庭教師の話になって……。よそのお宅では、お茶菓子用意したり、時間によっては夕飯作ってあげたりして大変だって話になってね。うちではそんな気遣いしなくていいのよって自慢してたらね。いくらなんでも、勝手に玄関開けて入って授業して、また黙って帰っちゃうなんて、その先生非常識なんじゃないのって言われて。だから、あの」
「ええ、ええ、わかりますとも。非常識です。ええ、今度から、ちゃんとお母さんにあいさつしてから、上がるようにきつく申しつけておきます。それで、どうでしょうか。お母さん。後藤に引き続きやらせてやっていただけませんでしょうか」
「非常識な真似をして申し訳ありませんでした。これからは、ちゃんとお母さんのお顔を見てから授業を始めますので、どうか、お許しください」
「あ、ええ、でも……」
「ただいま。え? 先生、来てるの?」
 純子の声が玄関のほうから聞こえてきた。僕の靴を見たのだろう。靴を脱ぐのももどかしげに上がり框に足を上げるのが見えるようだ。バタバタと廊下を走ってくる音がする。リビングのドアから飛び出した純子の顔は満面の笑みだ。僕は片手を上げてあいさつした。
「今日は授業の日じゃないよね。どうして?」
「だって、来ても顔も見せないから気味悪いでしょ。先生替えてもらおうと思って」
「え?」
 純子が絶句する。顔を見せなくてもいいと伝言したのは純子だ。母親の指示で見せなくてもいいことになっているのだということは理解している。それなのに、それを理由に解雇しようとしているのを見て、純子がどう判断して何をするのか。初めて、母親に逆らうかも知れない。自立への第一歩となる。自分がクビになるかどうかの瀬戸際に不謹慎だけれど、期待を持って純子の次の行動を待った。
 純子が僕のほうへ顔を向けた。僕はドキドキしながら見つめ返す。
「そ、そうね。リビングに来なかったのはまずかったね」
 やはり逆らえないのか。当たり前なのだけれど、母親の肩を持つ純子にがっかりした。
 純子に肯定されて、母親は嬉しそうに手を打った。
「ね、そうでしょう。お母さん、普通のこと言ってるよね」
「うん。でも、ちゃんと言ったから大丈夫。これからは先生、お母さんに必ず顔を見せると思うよ。ね? 先生?」
 純子が、僕を必死でかばっている。母親に逆らうことなど考えたこともないと言っていた純子が。声を出したら涙が出そうな気がして、黙って何度もうなずいた。
「そうかなあ」
「それに、あたしの成績、上がってるのよ。見て見て、今日返ってきた小テスト」
 純子がカバンをひっくり返して、中身をぶちまけた。わら半紙を拾って母親に渡す。
 母親が右肩の点数を確かめた。
「ホントだ。先生としては優秀なのね。じゃ、今回はいいわ。これからはちゃんと顔を見せてね」
「はい、わかりました」
「ありがとうございます」
 田中さんと二人で深々と頭を下げた。田中さんがサッと立って出て行く。僕があわててついていくと、うしろから「ちょっと送ってくる」と言って純子がついてきた。
 外に出ると田中さんが肩を抱いてきた。その柔らかい感触に気遣いを感じて、ようやくホッと胸をなでおろした。
「悪かったな。飲みにでも行くか?」
「いえ、こちらこそ、ありがとうございました。続けさせていただけるようにまとめてくださって助かりました。今日は帰って、明日の準備をしたいと思います。純子ちゃんの授業ですし」
「そうか。じゃ、土曜日にでも行くか。それじゃ、またな」
 田中さんが行ってしまうと、純子が僕の腕にくっついてきた。
「はあーよかったあ。後藤先生、辞めさせられちゃうかと思った」
「ありがとう。純子ちゃんが説得してくれたおかげだよ」
「役に立ったんなら良かった」
「うん、とっても助かった」
「先生の役に立てるんだったら、先生のお嫁さんになれるかな」
 ひどく話が飛躍したような気がして、僕は聞き返した。
「お嫁さん?」
「最初に会ったとき、先生、あたしがふすまを開けるの待ってくださったでしょう?」
「ああ、そうだったね」
「お父さんも、お母さんも、あたしが応えなければ勝手に入ってくるから。先生も黙ってたって勝手に入ってくると思ってたの」
 僕は内心青くなった。てっきり、入れようかどうしようかで迷っているものと思っていたのだ。
 純子が弾んだ声で話を続ける。
「ああ、この人は、ナイトみたいに、私がふすまを開けるのを待っているんだって思ったら、お姫様になったような気分になったの」
 相手の領分に踏み込むときに許しを乞うのはごく当たり前のことだろうに。それを、まるで最高の礼を尽くされたように言う純子があわれだ。
「いつも、誰かに、ああしろ、こうしろって指図されてばかりで、あたしがやりたいことしたことないような気がする。なのに、先生は、あたしがしたいことが出来るようにしてくれるって」
「うん。そうだ」
「あのときね、先生のお嫁さんになれたら、どんなに幸せだろうと思ったんだ。あたしの気持ちが固まるのを待ってくれて、あたしがやりたいことを応援してくれる先生が、あたしの旦那さまだったら、どんなにいいだろうって」
 生徒は誰にでも同じ扱いをするし、同じことを言うんだ、とは、言えなかった。それは三カ月前に僕が言われたセリフだ。誰にでも同じように接していても、相手の受け取り方はさまざまなのだと思い知った。ようやく、なぜ、彼女に迷惑がられたのか理解した。
 では、僕は?
 迷惑か?
 純子のまなざしを感じた。尊敬と愛情を持って、僕を見るまっすぐなまなざしを。
 迷惑なわけがない。
 しかし、問題はあった。
 あいさつのことは誤解で済んだが、純子と男女のつきあいを始めたら、間髪入れずにクビになるだろう。十五歳と二十歳の恋愛なんて珍しくもないが、生徒と先生という立場がある。僕が純子をそそのかしたと言われてもしかたのない状況だ。純子の気持ちに応えたいのは山々だが、生活のほうが大事だった。
「今すぐ返事できないんだ。君は僕の生徒だから。落第したって話はしたよね? あれ、好きな人の側にいたくて、ずっとずっといたくて、授業さぼりまくったからなんだ」
 純子は目をくりくりさせて、僕を不安そうに見上げた。
「恋人いるの?」
「いや、片思い。もう、終わった。いや、だから、僕が言いたいのは。僕は落第したこと後悔してるんだよ。ちゃんとやることはやらなきゃいけなかったって。こんな後悔を君にさせたくないんだ。だから、君が高校に合格するまでは関係は今のまま。僕への気持ちは一時停止して、とにかく勉強に専念して。それが僕への愛情の証だ。いいね。毎週授業に来る。メールも受け取る。今はそれだけ。あ、でも、これからは質問じゃないメールも送ってきていいよ。それにはすぐ返信する」
 純子が僕の手を握って破顔した。