矢車通り~オリジナル小説~

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離れない(仮)6

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 公園の木々は新緑に色づいている。
 池にはボートが浮かび、優雅に進んでいる。池の回りには散策するカップルや親子連れがいてにぎわっていた。
 日常的でおだやかな光景を眺めながら、最愛の人と手を組んで歩いていると、僕の心は次第に落ち着いてきた。もう、このままホテルのことは話題に出さずに、もっと楽しめるデートに切り換えてしまおうかと考える。
 純子と対決したくない。
 僕は純子が混じり気のない尊敬と好意を寄せてくれたことで、傷つけられた自尊心を癒すことができた。結果的に自分に自信がつき、今、将来に向かって無理のない計画的な準備を進めることができている。僕にとっては、今の状態は生まれて初めての安定した状態だ。純子のおかげで満ち足りていて幸せなのだ。
 純子にとっても、同じはずだった。だけど、違っていたのだ。
 満ち足りていれば、どんな理由があるにせよ、ほかの男とホテルに行ったりはしない。悪びれたところがないのも気になる。今まで恋に目が眩んで見えていなかっただけで、純子の心には僕からは見えない、何か得体の知れない部分があるのだ。でも、そこさえ見なければ、僕にとっては今までと同じ、幸せで満ち足りたつきあいを続けることができるだろう。逆にそこを見つめようとすれば、純子のそのわからない部分を覗き込むことになる。僕も傷つくだろうし、純子だって傷つくだろう。最後には別れ話になるかも知れない。そんなことになるくらいなら、目をつぶってしまったほうがいい。純子にはなんて言おう? 僕の知らないところで純子が何をしようとかまわないから、僕に知らせないでくれ? 考えてしまってから、そのセリフの冷たさに愕然とした。まるで純子のことなどどうでもいいみたいではないか。
 純子がしていることはまともなことではない。何がそうさせているのか知らないが、おそらく、心の底のどこかで純子は苦しんでいるはずだ。これは僕の思い込みなどではないはずだ。純子はデートの約束をした場所で、デートの約束をした時間に、わざわざほかの男とホテルに行き、僕に会ったとたんに声をかけてきたのだ。駅ひとつずらすだけで、会う可能性はゼロにできるのに、純子はそうはしなかった。なぜだかはわからないが、僕に見つかりたかったに違いない。たまたま決定的瞬間に会ってしまったけれど、そうでなくても、待ち合わせ場所に男と腕を組んで現れたりしたのかも知れない。
 もしかすると、駆け引きなのか?
 二カ月近くほとんど会ってない。僕の気持ちが離れていくような気がして、ほかの男に走るとアピールしてきたのか? それなら、なぜ、いきなり一線を越えているんだ?
 僕は大きくため息をついた。腕の中で純子がびくんと反応する。純子も僕がどういう話をしようとしているのかわからなくて不安なのだろう。なんということもない動作に、おおげさな反応が返ってくる。
 逃げちゃダメだ。この問題から目を逸らしたら、純子の苦しみは終わらない。僕の苦しみも終わらない。表面だけを取り繕うには、僕たちのつきあいは深すぎた。
 ぽつんと離れたベンチを見つけて、僕は純子と並んで腰掛けた。僕の左側は純子の右側としっかりくっついている。
 何か傷つけない聞き方はないかと考えたが、どうしても思い浮かばない。事務方の田中さんを呼んで来たいくらいだが、こんなプライベートなことで呼ぶわけにはいかない。せめて、田中さんを見習って、純子の言うことを否定せず、穏やかに、あくまでも純子が正しいという姿勢で話を聞こうと決めた。
「ありがとう」
 純子の顔を覗き込んで、笑顔を作って、まず、そう言った。
「お、怒ってるんじゃないの?」
 純子がビクビクしながら顔色をうかがってきた。
「怒ってたけど、もう、怒ってない。だって、純子は、僕のためによかれと思ったことをしてくれたんだろう? いつもお金がないって言ってるから」
 純子がイヤイヤをするように何度も首を振った。
「誤解よ。先生、あたし、お金が欲しかったわけじゃない」
 純子の言葉にしばし絶句する。
 ここ二年ほど、僕にとって最大の問題は、お金のことだった。お金がなければ生きていけない。稼ぐのは大変なことだった。
 お金が欲しいのならわかる。短時間で大金になるのだから。でも、お金じゃないとすると、あとは、愛情かテクニックか、何か、とにかく、僕は純子に何か不満を抱かせてるようなことをしてきたことになる。
 手をつなぎあうようなつきあいで、お互いに満足していると思っていたのは、僕の錯覚だったのだろうか?
「じゃあ、何が欲しかったの?」
 この言葉が、純子の暗部に踏み込むことになるとわかっていて、僕は口にした。