矢車通り~オリジナル小説~

はてなダイアリーから移行させました。

離れない(仮)7

     7

「抱きしめてくれる人が欲しかったの」
 僕は純子の右手に左手を絡ませた。しっかりと握りしめる。
「抱きしめるのは僕だけでいいだろう?」
「先生、忙しいから」
 何か話が噛み合っていなかった。
「確かに、ここのところ、忙しくて会ってなかったね。どうしてた?」
「どうって、いつもと同じ。退屈な授業を受けて、くだらないおしゃべりをして、どうでもいい友達の愚痴につきあったり、クラスやクラブでの人間関係の悩みを聞いたり」
「放課後は?」
「覚えてない」
 その答えに違和感があった。学校に行っている間の具体的な答えとの間に開きがありすぎる。それに、何時間も過ごしたはずなのに、覚えていないという感覚は身に覚えがあった。
「家には帰るの?」
「帰ることは帰るんだけど」
 通学は四十分くらいだ。帰宅部の純子はとりあえず自宅に戻って着替える。それは知ってる。前はそのあと僕のアパートに来ていたのだけれど、最近はどこに居たかが問題だ。
「家で勉強していても、階下のテレビの音がうるさいし、ママが、水を撒いてとか、買い物して来てとか、何かと言いつけてくるし」
 話を聞いているだけでムカムカしてくる。あの母親は食事会とか鑑賞会とか、自分が楽しめることにはいそいそと出かけていくくせに、しんどいことは全部純子にやらせようとするのだ。腰痛とか言っていたが入院していたわけでもない。もちろん無理は禁物だが、むしろ、積極的に動いて筋肉をつけて骨を支えたほうがいいのに、出来るだけ動くまいとして周囲の人間をこき使う。腰痛なんてただの言い訳で、本当は働くのが嫌いなだけかも知れないと僕は疑ってるくらいだ。純子が落ち着けないのも無理はない。
「だから、一応勉強道具を持って出かけるんだけど、図書館とか、ファストフード店とか、ファミリーレストランとか、でも、今度は家と違って、先生の気配が感じられないし」
「気配?」
「うん。家なら、先生が何度も来てくれたから、ここに先生が座ってたなとか、先生が猫のポスターを見て笑ったなとか、先生の思い出がいろいろあって、あんまり寂しくないんだけど」
「だけど?」
 僕は純子を力づけようと手を握る。今、何もかも言わせないと、純子とうまくいかなくなる。そんな気がする。
「あたし、先生と思い出があるの、家とアパートだけだから、ほかの場所に行っても寂しいばかりで。先生が忙しいのわかってるんだけど、先生の大学行って、あちこちうろついてみたり、でも、たまに先生を見かけることができても、ほかの人と楽しそうに話してたりして、かえって寂しくなったりとか。しかたないから、先生のアパート行って合い鍵で入って、でも、先生がいなくて。服の匂いを嗅いでみたり、先生がいつも座ってるところに座ってみたり、流しに置きっぱなしの湯飲みに唇をつけてみたり、先生、ごめんなさい。そういうことされるの気持ち悪いよね。留守中にかき回すなんて、気持ち悪いだろうと思うから、気づかれないようにちゃんと元に戻しておいたのに、今日は、今日は、聞いて欲しくて。でも、ダメだよね」
 僕は純子の肩を強く引き寄せた。
「寂しかったんだ。とっても」
 手の中の純子の肩が固く締まった。
「気持ち悪いよね。そんなの」
「いいや」
「うそ。あたしを傷つけまいとして、うそ言ってるんだ」
「違うよ」
 ズキンっと、胸が痛んだ。もう、二年も経ったのに、あの日の屈辱はまだ忘れられない。毎日のように電話をしていたから、てっきり恋人だと思い込んでいた相手の豹変。しかも、相手が変わったのではなく、僕の認識が間違っていたんだという恥ずかしさ。そのとき、自分が取っていた行動の異常さ。どれも純子には知られたくないものだった。でも、話せば純子が納得するのなら、こんな痛みがなんだろう。
「好きな人がいたって話はしたよね?」
 けげんそうな顔で純子がうなずく。
「僕のほうは恋人のつもりだったんだ。大学入って初めて女の人と親しくなったから、舞い上がってしまってたんだ。相手は僕のことなんかクラスメイトの一人としか思ってなかった。でも、僕は恋人のつもりだったから、毎日電話をかけたし、彼女にどんな手紙が来るのか気になって、こっそりアパートの郵便受けの中を確かめたりした。彼女が夜道を歩くのが心配で、こっそり後を尾けたりもした。毎日、彼女のことを考えると会いたくて会いたくていてもたってもいられなくて、彼女に会える授業以外は全部休んだ。彼女がほかの授業に出ている間に仮眠を取って、夜はずっとアパートの外から窓を見上げていたりした。そんなことばかりしていたから落第したんだ。わかるかな。今の純子と同じだ。いや、もっとひどい。純子は僕の恋人なんだから、僕がいなくて寂しいと思うの、当たり前だけど。僕は彼女の恋人でもなんでもなかった。ただの勘違い野郎だった。それで、彼女のボーイフレンドに、彼女に近づくなって脅されたんだ。ストーカーはやめろって」
「そんな、ひどい。先生は好きだっただけじゃない」
 とっさに飛び出る、僕をかばう言葉に、僕は満たされる。純子にはきっと、僕がどれほど救われているか、伝わっていないのだ。いや、ちゃんと伝えようとしていなかったかも知れない。
「もう、いいんだ。それに、そういうことをしていた僕だから、わかる。純子が留守の間に僕の部屋に入っていたからといって、僕は気持ち悪いなんて思う気にもなれない。わかるよね。僕は、本当に純子の気持ちがわかるんだ」
 純子の嬉しそうな顔を見ていると、次の質問を止めたくなる。先のことはあまり聞きたくない。でも、先を聞かないと、純子の心につかえてる物は見えない。僕も純子みたいにとっさに純子をかばう言葉が言えますようにと、純子に祈りながら続きを促した。
「それから? どう過ごしたの?」
「先生に知られないように、あんまりいじらないように、あちこち見ながら過ごしてると、何もかも錯覚なんじゃないかって思えてくるの」
「何もかも?」
「先生があたしの恋人だとか、先生があたしのこと好きだとか、そんなの、ただのあたしの妄想で、みんな夢で、あたしは今も一人で、誰にもかまわれずに、公園の隅で泣いてるんじゃないかって」
「公園?」
 純子が周囲を見回した。
「他人に聞かれちゃいけない話なの。ママが誰にも話しちゃいけませんって言ったの。お嫁に行けなくなるからダメだって。だから、その話をしたら、先生、きっとあたしのこと嫌いになる。ママなんて、その話をしたときから、あたしのことときどきものすごく汚いものを見るような目で見るの」
 僕は首を回して、あたりに目をやった。相変わらず、のんびりした光景が展開しているだけで、僕たちに注意を払っているひとはどこにもいない。大勢のひとの真ん中にいて、なお、二人だけだった。
「だいたい、見当はついた。僕はその話を聞いても、汚いとは思わないと思う。公園でどうしたのか教えて。ほかには誰も聞いてないから」
 僕は純子の横に座り直した。顔を合わせる形で居るよりも、隣に寄り添ったほうがいい。そう思った。