矢車通り~オリジナル小説~

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離れない(仮)8

     8

 生徒の愚痴を聞くときのように、心をまっさらにする。批判めいたことを言う必要はない。言いたいことを言い切ってしまえば、問題点をどう解決すればいいのかは相手の心の中から出てくる。
 僕は純子の手のひらに自分の手のひらを重ねた。指を一本ずつ相手の指の間に入れて、しっかりと握りしめる。
「純子が感じたことを感じたい。そこを話して」
 純子が手をしっかりと握り返してきた。決心がついたようだ。
「小学校に上がったばかりのころ、ここらへんに越してきたの。そしたらパパとぜんぜん会わなくなった。今なら、通勤時間が長くなったから、あたしが起きてるときに家に居ることがなかったんだってわかるけど、あたし、パパっ子だったから急に見捨てられたような気がして心細かった。ママはそのころからどんどん太りだして、具合が悪いとか頭が痛いとか言ってよく横になってた。寂しかったけど、あたしにはまだ学校があったから。学校で友達が出来て、うちに呼んだりしたの。そしたら、ママが。友達が帰ったあとで『今日は頭が痛かったのに、なんで友達なんか連れてくるのよ。うるさくて頭が割れそうだった』って言い出して」
 純子の手のひらが汗ばんできている。
「だって、友達が居る間は、ママはやさしかったんだよ。ニコニコ笑顔でおやつを出したりしてたのに。頭が痛いなら痛いって言えば、あたし、外で遊んだのに。友達の家に行ったってよかったのに。ごめん、先生。そういえば、ママ、先生にひどいことしたよね。ああいう人なの。自分であれこれ指図したり、相手が誤解するようなことしておいて、都合が悪くなると、相手が悪いみたいに言うの」
「いや、おかげで覚悟みたいなもんができたし、最初に難題にぶつかったおかげで、そのあとも続けられたんだと思ってる」
「先生」
 純子が大事なものを丁寧に扱うように僕を呼ぶ。
「言いたいこと、全部、言ってみて」
 促すと純子が小さな子どもみたいに、こくんとうなずいた。
「今なら、いつものママの責任のなすりつけが始まったと思うところなんだけど、そのときのあたしは混乱して、友達を呼べなくなっちゃったの。それで一方的にこちらから行くばっかりで、向こうを呼ばなくなったら、だんだん家を行き来するような友達とは遊ばなくなって。放課後は近所の公園にいることが多くなったの。砂場とブランコと滑り台だけのちっちゃな公園だけど、山道に入る口がついてて、その手前には公衆トイレもあった。公園ではいつも誰かが遊んでた。学年も名前も知らない近所の子どもたちが、おままごとをしたり剣道みたいなことしてたり、いろいろ適当なことをしてた。側にくっついてると自然と仲間に入れてくれるから居心地よくて。それで、夏になったころ」
 純子の手がぬるっと滑る。いつの間にか、純子はひどい汗をかいていたようだ。核心に入ろうとしているのだろう。僕は純子に体を寄せて応援する気持ちを伝える。
「その日も、ママは頭痛がするとか言って眠ってた。あたしは邪魔しないように公園に行ったんだけど、いつもと違って女の子が二人しかいなくて、おままごとをはじめたんだけど、なんだかすぐつまらなくなっちゃって。そしたら、公園に男の人が入ってきたの。あたしたちと一緒に遊ぶって言って、鬼ごっこしたり、かくれんぼしたり、手を持って振り回してくれたり。そのうち五時のサイレンが鳴って、ほかの二人は帰ったんだけど、あたしは、久しぶりにパパに遊んでもらってるみたいで楽しくて。帰ってもどうせママが眠ってるだけだし。五時のサイレンが鳴ったら帰ってくるようにママには言われてたんだけどぐずぐずしてたの。そしたら、帰らないんなら森を散歩しようかって、男の人が言い出して」
 僕の頭に人気の無いところに連れ出され、死体で戻ってきた女の子たちのニュースが浮かんだ。幼い純子の後ろ姿が勝手に脳裏に浮かんでくる。ダメだ。行っちゃダメだ。手を精一杯伸ばす。
「痛い」
 気がつくと、純子の手をねじあげていた。
「ごめん」
 あわてて手を戻す。
「あの、やっぱり聞きたくないんじゃ」
「いや、話して。今やっちゃったことはあとで説明するから」
「うん。あの、でも、あとはあんまり話すことないの。二人で手をつないで森の道を歩いてたら、だんだん暗くなってきて。男の人がはぐれるといけないから肩車しようって、あたしを肩に乗せて。しばらく歩いてたら、今度は重いって、あたしの股に手を当てて出前持ちみたいにあたしを持ったの。男の指が股のところで動くたびに、なんだか変な感じになって。頭がボーッとしてきて、気がついたら公園に戻ってて、トイレの個室に入っててて、男の人があたしを抱いて、いつの間にかパンツが脱げてて、体の中に何か挟まったの。あたし、男の人の首をしっかりつかんでた。久しぶりに抱っこしてもらって嬉しかったの。しばらくしたらパンツをはかされて、男の人がもう帰らなくちゃって言い出して、それで手を振りながら別れたの。それで、帰ってからママにその話をしたら、ママに頬をぶたれて、そんな話は誰にもするなって、その男にも二度と会うなって、ママの言う通りにしなかったら、ご飯を食べさせないって。あたし、ご飯を食べられなくなったら大変だと思って、その公園には二度と行かなかったし、もう、外でも遊ばなくなったの。先生?」
 僕は泣いていた。純子の人差し指が涙をすくう。
「やっぱり、嫌だった? こんな話しちゃいけなかった? 純子のこと嫌いになった?」
「いや、僕が泣いてるのは、嫌だったからじゃない。純子が生きて帰ってきてよかったって思ったから」
「うそ」
「うそじゃない。そういう事件はたくさんあったし、今でもあるじゃないか。ある日、女の子が連れ去られて帰って来ない事件。純子のケースだって、そのうちの一つになってもおかしくなかったんだよ。さっき、そのこと思い出してて、純子が連れ去られるところを想像しちゃって、純子の手をねじっちゃったんだ。ごめん」
「そのとき、先生に出会えればよかったのに」
 どこか寂しげに純子がつぶやいた。
 そのころ、僕は小学六年生で、五百キロも離れた場所にいて、ゲームにはまってた。もし、本当に出会ってたとしても、今のような関係にはならなかっただろう。わかっているだろうに、求める純子が可哀相だった。
「それから?」
 流れる涙にはかまわず続きを促した。
「それだけ。それから、あたしは、一人で居るのに耐えられなくなると、男が来そうなところに行って、抱きしめてくれそうな男を見分けて誘うの」
「純子。途中で、まだ何か、胸につかえてることがあるだろ? さっき、純子は男と会うとママがご飯を作ってくれなくなるって言った。ママがご飯を作ってくれなくなってもかまわないと思うような、何かショックなことがあったんだろう?」
 純子が僕の手を振り払った。うつむいて拳を握っている。いきなりの動作に驚いていると、スクッと立ち上がった。
「ごめん、先生。わかってる。実感ないんだけどわかってる。本当はあたし、あのとき、あの男の人がしたこと、嫌がらなくちゃいけなかったんでしょ」
「本当って何? 純子が嫌でなかったんならいいじゃないか」
「だって、マンガだってドラマだって、男の人に何かされそうになったら嫌がるんでしょう? みんなそうだもの。嫌がらないのは普通じゃないんでしょ?」
「普通じゃないといけないか?」
「だって、あたし、処女とかいう言葉を知ったときは、もう処女じゃなかった。ほかの女の子たちは、嬉しそうにどんな初体験ができるんだろうって話してるのに、あたしにはそんな話題関係なかった。でも、普通の女の子のふりしてないと、ママが怒るし、ママが言う通り、他人に知られたらお嫁に行けなくなるんだって思った。だから一生懸命みんなの話に合わせてたんだけど。ダメなの。妬ましいの。みんなには幸せになる権利があるのに、あたしにはないんだ。あの男に奪われたんだと思った。憎んだ。殺してやろうと思った。ずっと、そんなことを考えてたら、いつの間にか友達がいなくなってた。小学校も中学校も、あたしには友達なんかいなかった。いじめられたりはしなかったんだけど、それはあたしが黙ってたからで、この話をしたら、きっといじめられたんだと思う。いじめられてもしょうがないくらい、しょうがないことをあたしはしちゃったんだと思った。何もかもかったるかった。どうでもよかった。学校から帰ると着替えて、すぐ、二駅離れたところにあるゲームセンターに行ったの。うろうろしてても怒られなかったし。そしたら、男の人に声かけられるようになって、最初はちょっとお尻を触らせてとか、胸の写真を撮らせてとか、簡単なことで。けっこう大金もらって。そのうち、ホテルに行くようになったの。今度は、あたしにも、相手の目的がなんなのかわかってたけど、それでも、抱きしめて欲しかった。なんでもするから抱きしめて欲しいって思うほど、あたし、ひとりぼっちだったの。そのころ、先生に会ったの。先生って頭がいいのにひょうきんで丁寧であたしのこと大事にしてくれて。あたし、生まれて初めて『好き』ってことがわかったの。そしたら、ほかの女の子が妬ましくなくなった。だって、好きな人がいるのあたしくらいだったもの。むしろ、優越感持っちゃったくらい。それに、あの男も許すことができたの。あのときだけでもパパみたいにやさしかったんだもの。きっと、あたしのことが好きだったんだと思うことにしたの。そしたら、何も殺さなくてもいいって思えてきて。殺してやりたいって気持ちとさよならすることができたの。そしたら、不思議なもので、みんな普通にあたしに話しかけてくるようになったの。あとで友達に聞いたら、あたしの話し方、なんだかとげとげしくて嫌だったんだって。楽しそうに話すようになったから、友達になりたくなったんだって。先生を好きになったおかげで、あたしの生活、すごく快適になったの」
 僕は立ち上がって、純子を座らせた。再び、手をしっかりつかまえる。
「でも、僕は君を不安にさせたね?」
 純子はビクッと肩を震わせて、あきらめたようにため息をついた。
「ずっと、先生はいつあたしを抱こうとするんだろうと思ってた。あたしのあそこ変形しているの。子どものときに無理したせいだと思う。色だってきっと違う。何度も使ってるから、やわらかくなってるんじゃないかな。ほかのひとの知らないからわからないけど。だから、そのときは、先生に処女じゃないことがばれると思ってた。今の話も、先生が聞いてくれるなら話そうと思って考えてたの。でも、先生は結婚するまでしないって言ったでしょ」
「言った」
「それって、つまり、あたしが処女だって前提でしょ。処女じゃないなら関係ないもんね。ああ、先生はあたしが処女だって信じて疑ってないんだと思ったら、知られるの怖くなって」
 僕は処女かどうかなんてこだわっていなかったけれど、言葉だけでそう言っても無駄だと感じた。行動と言葉を比べれば行動のほうが説得力がある。僕は確かに結婚するまではしないと言い実行してきた。告白を聞いているこの時点で、こだわっていないと言っても純子は信じないだろう。
「誰にも話してないから、ほかの人から漏れるわけないんだけど、ママはときどきうっかりなんでもしゃべることがあるし、最初の公園はともかく、ゲーセンでのことは、誰か見てたかも知れないし。ひやひやしてたの。そしたら、四月になって急に、先生からの連絡が少なくなって、五月もだんだん少なくなって。あたし、寂しくなって、またゲーセンで男誘っちゃって。誘っちゃってから、また見られたんじゃないかって怖くなって。もう、メチャメチャで。どうしても会いたいって言ったら、先生、デートの約束してくれたけど、今度は二時間遅れにしてくれって言い出すし。もう、頭の中、ぐちゃぐちゃで、つい、男誘っちゃって。でも、先生と会ったら嬉しくて、自分の状況も考えずに手振っちゃったりして。わからないの。なんでか。先生と会えない、先生にフラれる、って思っただけで、目の前が真っ暗になって、誰かにすがりつかないと、電車に飛び込みそうになったりするの」
 僕は深呼吸をした。ここでほかの男と寝るなと言えば、今までの純子の行動を否定することになる。好悪を言えば止めて欲しいが、純子が自分の行動をコントロールしきれていない以上、止めるのは無意味だ。それにこんなに情緒不安定なときに、僕が否定したら自殺しかねない。生きててほかの男と寝る純子と、死んでいる純子とどちらがいいかと聞かれれば、生きてるほうがいい。生きてさえいれば、ほかの男と寝ない純子になってくれる可能性だってある。死んだらおしまいだ。腹をくくるしかなかった。
「わかった。純子はそのままでいい。僕が合わせよう。これから、一緒に買い物に行こう。僕に似たキャラクターの人形を買おう。僕の代わりにずっと純子の側にいてもらう。そして、起きている間は電話を繋ぎっぱなしにしておこう。純子になら何を聞かれてもかまわない。ああ、でも、ほかの人と話していて、返事をしなくても勘弁してくれよ」
「先生、でも、だって、あたし、またほかの男と寝るかも知れないよ?」
「いいよ。僕は気にしないから。僕も純子がいなければ生きていけない。純子が生きていくために必要なことなら、僕は嫌じゃない」
「先生。変だよ。それ」
「じゃあ、変なもの同士でくっついたということで納得してくれないか? 僕は純子がいない生活なんて、もう考えられないんだ」
「やだもう、先生」
 純子が軽く僕の背中を叩くふりをする。いつもの純子に戻っていた。僕の耳に唇を近づけて囁いてくる。
「ずっと一緒よ」
 僕たちは買い物に出かけ、人形とイヤフォンマイクを買って帰った。