矢車通り~オリジナル小説~

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離れない(仮)10

     10

 次の日曜日、僕は就職活動のために用意したスーツを着て、純子の家を訪ねた。父親との面会の約束は承諾が取れている。あとは、うまく話を進めて、純子とのことを認めてもらえばいい。
 二年ぶりにインターフォンを押した。純子が応対に出てきた。ドアが開くのを待つ。
 純子の嬉しそうな顔がまず目に飛び込んできた。次にきれいに片づいた玄関が視界に入る。
「どうしたの?」
 びっくりして訊いてしまった。
「パパがその元先生は何しに来るんだって訊くから、交際を認めてもらうためのあいさつに来るんだって言ったら、じゃあ、それなりのもてなしをしないといけないとか言い出したの。昨日は一日中、三人で掃除。で、パパはガチガチに緊張しているし、ママはとっても機嫌が悪いの」
「わかった。ありがとう。大丈夫だよ」
 純子を安心させるように、微笑みかける。純子の先導でリビングに入ると、一人掛けのソファに、夫婦が一人ずつ座っていた。初めて見る純子の父親は、鋭い目をした細身の男だった。確か銀行員だったはずだ。きちんとしたあいさつのほうが好まれるだろう。入り口で腰を九十度に折り頭を下げた。
「初めまして。後藤正伸といいます。ごあいさつがあとになってすみません。お嬢さんと交際させていただいている者です。本日は折入ってお話させていただきたいことがあって参上しました」
 僕のあいさつを聞いて、父親は急いで立ち上がった。僕と目線が同じだ。
「こちらこそ、前からお世話になっているのに、ごあいさつもせず、すみません。父親の豊です。どうぞ、お掛けになってください」 指し示された二人掛けのソファの奥に座ると、純子が隣に腰を下ろした。
「じゃ、私はお茶を」
 母親が入れ替わるように立ち上がり、ダイニングキッチンのほうへ行ってしまった。
 話を始めてしまったほうがいいのか、母親を待ったほうがいいのか迷う。
「先生は娘が中三のときに家庭教師にいらしてたんですよね。交際はそのときから?」
 父親のほうから話しかけてきた。
「いえ、高校にお入りになってからです。受け持ち中では職業倫理に反しますから」
 父親がかすかに微笑んだ。
「あら、私、交際してるなんてちっとも知らなかったわ。純子は何も言わないし。先生、純子とつきあうなら、ひと言言ってくれてもよかったんじゃないの。知らない仲じゃないのに」
 母親がお茶を載せたお盆を運んできながら文句を言う。
「申し訳ありません。せめて就職して、先の目処がついてから、と、思っていたものですから」
「そういえば、今、大学四年とうかがってますが、どうですか? 決まりそうですか?」
「そのことなのですが、私は将来、純子さんと結婚したいと考えています。いえ、もちろん、七、八年先のことなのですが、結婚するときには出来るだけ、二人で一緒にいられるような生活をしたいと考えているのです。アルバイト先の上司に相談したところ、塾を開いてはどうかとアドバイスされまして。勉強につまづいている子どもたちを相手に、やる気を出させるようなのんびりした塾をやりたいと考えています。最初は自分が住んでいるアパートを解放するようなやり方で、初期費用を抑えて、成功するようなら徐々に大きな部屋に移っていこうと計画しているんです」
「ほう、でも、教室を開くのに資金が要りますよね? それはどうするんですか?」
「今から貯めます。幸いにして、アルバイト先の協力が得られそうなんです。本気で塾の講師を目指すのなら、長時間雇ってもいいと言ってくれてます。生徒さえ途切れなければ、六年後には三百万ほど資金が出来ているはずですから、それを元でに開業しようと考えています」
「なぜ、六年なのですか?」
「そこをお話する前に、確かめさせていただきたいのですが、純子さんを大学に進学させるつもりはお有りですか?」
「当たり前でしょう。今どき、大学も出てないでは、いい就職口は見つかりませんよ。なあ?」
 父親は母親に顔を向け同意を求めた。
「もちろんよ」
「あ、そうなんですか。それで、その、六年というのは、純子さんが大学を卒業するまでということです。純子さんには教職を取ってもらって、塾を手伝ってもらおうと考えています」
 父親が身を引いた。ソファの背もたれに体を預ける。
「純子は私の娘ですよ」
「はい」
「純子の将来については、私なりの夢がある。こういっちゃなんだが、そんな現実味のない計画に参加させるわけにはいきませんね。例えば、あなたが今から必死になって就職活動して、まあ、一部上場とまでは言わないが、それなりに堅実な会社に就職して、最低でも三年は苦労して、それから、やはり塾をやりたいとか、そういうことなら考えてもいいですが。今の計画は、あれでしょ? 就職戦線が厳しいから、離脱して夢でも語ろうといったものでしょ? 純子はまだ高校二年なんですよ。この先、もっと将来性のある男と知り合うかも知れないし、自分の才能を伸ばすかも知れない。まあ、年頃といえば年頃ですから、交際自体は反対しませんが、将来も含めた話など、あなたとはとてもできませんね」
「あら、私はいいと思うわよ。大学出たらなんて言わずに、高校出たら、すぐ結婚すればいいじゃない。結婚するんなら大学行かなくたって世間体は整うし。別に結婚したらしっぱなしじゃなきゃいけないわけじゃないんだし、飽きたら離婚すればいいし。うん。結婚、いいわ。賛成」
「あ、あの、お母さん。賛成してくださるのは嬉しいんですけど、二年じゃ資金が」
 口を挟むと、むくれながら返事をしてきた。
「塾なんてどうでもいいでしょ。とっとと結婚しちゃってって言ってるの。家庭教師の収入だって食べていけるでしょ。純子が片づけば、私、楽になるもの。とっとと出てって欲しいのよ。世間には体裁よくね」
 父親が深いため息をついて、母親をたしなめる。
「純子はまだ子どもじゃないか。まだまだ嫁に行くのは早いだろう。一人娘なんだし、大学くらい出してやらないと」
 母親がなぜか高笑いをした。純子をきつい目で睨みつける。薄笑いを浮かべたまま、父親のほうへ視線を移した。
「あなたって、ホント、娘に夢を持ってるのね。もう純子は子どもじゃないわよ。男だって知ってるもの。最初は、七歳のときだっけ。ねえ、公園で。そう言ってたわよね」
 僕も、純子も、父親も、息を呑んだ。黙っているように純子に指示していたのは母親のはずだ。なぜ、娘の恋人がいるところで、父親が微笑ましい夢を語っているところで、こんなことを言い出すのか理解に苦しむ。お嫁に行けなくなる、といっていた本人が、いざ、お嫁さんにしようという話を始めたらしゃべる。
 妨害か?
 純子を嫁に出したくないのか?
 わからない。
 それぞれにわからないと思っているのか、誰も口をきかない。
「そのあとだって、何度か男と寝たでしょ。誤魔化してもダメよ。ネタは上がってるんだから。私は純子にこづかいやってないのに、純子の部屋にはときどき高価な物があるわよね。不思議に思って、机の中を見たら、一万円札が無造作に転がってた。男にもらったんでしょ? それ以外、小学生があんな大金持ってるなんてあり得ないものね。中学のときもあったかな」
「あ、あたしの机、勝手に見たの?」
「当たり前じゃない。親なんだから監督責任があるでしょ。しっかり見てなきゃ」
「じゃあ、なんで、そのとき言わないんだ」
 僕はもう怒りを隠すことができなかった。純子の身に起こったことは不幸な出来事だが、そのとき、母親が純子のために親身になっていれば純子の心がここまで孤独になることはなかった。
「えー? あんた男と寝てきたの? どうだった? なんて聞いてどうするの?」
 ぶん殴ってやる。立ち上がりかけた。純子の手が僕の腕を掴んだ。
「先生、いつも、ママはこういうこと言うの。こういう言い方するの。あたしは慣れてるから。先生、気にしないで」
「ああ、嫌だ。まだ十七歳なのに男慣れしちゃって。汚い汚い。ね、わかったでしょ。あなた。こんな子、とっとと先生にもらってもらいましょ。それでせいせいするわ」
 よほどショックだったのか、父親は青くなったまま押し黙っている。
「ね。あなたの夢を壊した純子なんか、もう嫌いよね。追い出していいでしょ。ねえ。なんとか言ってよ。あなた」
 父親がようやく息をした。
「その、前に。確認したいことがある。純子のこづかいがないってどういうことだ?」
「どういうって」
「ローンは低めに抑えたから、生活費は潤沢にあるはずだろう? 家計簿は?」
「そんなものつけたことないわよ」
「つけろって言ったろ。で、貯金はいくらある?」
「ない」
「教育資金は?」
「ない」
「あれだけの金額、何に使った」
「何って、生活費よ。洋服買ったり、装飾品買ったり、食事に行ったり」
「どのくらいの頻度で買うんだ?」
「食事会に誘われるたびに、洋服を新調するでしょ。半年にいっぺんくらいは宝石も買って」
「なんで?」
「だって、おかしいじゃない。同じメンバーで出かけるときは、前と違う服着て行かなくちゃ。同じ服なんか着ていったら非常識でしょ。外出着は二度と袖を通すものじゃないわ。ああ、でも、違うメンバーのときは、ちゃんと着回してるわよ。そのくらいは節約してる」
「総額、いくら使った?」
「わかんないわよ。そんなの」
「宝石箱持って来い」
「そ、そんなことどうでもいいじゃない。今は純子の話でしょ。追いだすの? まさか、追い出さないなんて言うんじゃ」
「いいから、持って来い」
 母親がのろのろと廊下に出て行った。
「純子、まだ、どうにも気持ちの整理がつかないが。つらい目に合わせてすまなかった。父さん、母さんが、あんなことになってるなんて気がつかなくて。先生もすまん。変なことに巻き込んで」
「いや、僕は覚悟の上です。さっきは短気起こして、奥さんを殴ろうとしたりしてすみませんでした」
「妻の不祥事は私の不祥事だ。重ねて謝らせてくれ」
「いえ、気にしないでください」
 三人同時にかすかに笑った。僕と純子と父親との間で、母親への反発という連帯感のようなものが生まれていた。
 ガタガタと階段を大きなものが動く音がした。ほどなく、母親が戻ってきた。
「はい」
 大きな黒い箱をテーブルに置く。開けると色とりどりの宝石がたくさん入っていた。グチャグチャに絡まっていて、ペンダントなどチェーンをほどかないと使えそうにない。父親が一つ一つ取り出していく。そのたびに値段を尋ねる。総額は五百万円にものぼっていた。父親は洋服のほうも試算して三百万円と結論づけた。
「越してきて十年、八百万の余裕ということは、年間八十万か。それと俺のこづかいから五万。純子。来月から十二万円、直接、おまえの口座に振り込む。進学の資金にしてもいいし、その先生と塾をやりたいのなら資金にしてもいい。うちを出てその人と暮らしてもいい。好きにしなさい」
 父親は厳かに宣言した。
 いきり立ったのは母親だ。
「何よ。その女の正体、教えてやったじゃない。そんなやつ、もう、どうでもいいじゃない。ひどい。なんで私からお金を取り上げて、そんな女に渡すの」
「女じゃなくて、娘だ。おまえこそ、なんでそんな風に意識してるんだ?」
「だって、あなたが。純子ばっかり可愛がるんじゃないの。純子を産んだとき、慣れない育児でたいへんな思いをしてたのに、あなたってば、純子の面倒ちゃんと見てるかって、そればっかりで、私のことなんかちっともねぎらってくれない。純子ばっかり抱っこして。純子のことばっかり話して。この子、二歳のときなんて言ったと思う? ママなんか大嫌い。どっか行っちゃえって言ったのよ。パパの愛情を一身に集めてるからって図に乗ったのよ。そのとき、もう、こんなのいらないって思った。いらないの。私はもうこんなのいらないの。どっかにやってよ」
 父親が手を上に伸ばして、母親を後ろから抱きしめた。
「お前、二歳児の言ったことに、こんなに傷ついたのか? 十年以上も引きずるほどに。もう、悲しいこと、言うなよ。俺は、君との娘だから、大事にしてたつもりだった」
 母親の目がハッと開いた。ポロッと涙がこぼれてくる。父親の手にいざなわれて、父親のひざに顔を埋めた。大きな声で泣きだした。
 僕はなんだかホッとした。前々から純子が帰るのを嫌がっていたから、何かあるとは思っていたが、まさか、こんなにあからさまにいじめられているとは思わなかった。溜めこんでいたことを吐きだしたのだから、これでもう純子いじめも下火になるだろう。父親が母親の立場になってくれたのも大きい。
 でも、それはまた純子に父親は母親のものだと確信させる行動でもある。純子には、やはり僕しかいない。
 このあとの話し合いの結果、純子と僕は同棲することになった。純子の情緒を安定させるためには、そのほうがいいだろうと父親は納得してくれた。純子の分の生活費は父親が出してくれる。僕にとっては夢みたいな話だった。昔から一人では暮らせなくても、二人なら暮らせるという。たぶん、僕の生活は今より楽になるだろう。
 だが、いずれは独立するのだ。将来は塾をやると決めたのだから、就職活動はやめてアルバイトのほうに力を入れないといけない。年度の途中だから生徒を持つことはできないが、急な代理が必要なときや事務に使ってもらえることになった。