矢車通り~オリジナル小説~

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離れない(仮)14

     14

 純子を連れて、実家の玄関に入った。正面に腕組みをして仁王立ちした親父がいる。おふくろが隠れるように、親父の後ろで控えていた。
「この、大馬鹿もんが」
 開口一番、怒鳴りつけてきた。僕は首を縮めて、目をつぶった。純子が僕の後ろに張りつくのを感じる。
「いやいやいや、俺が怒ってるのは、うちの馬鹿息子で、あんたじゃないんだ。そんなにおびえることは」
 片目をそっと開けると、親父はオールバックの白髪頭をぼりぼりかきながら、純子のほうを困ったような顔で見ていた。
「母さん。なんとかしてくれ」
「そうですね」
 おふくろはあわてずさわがず静かに答えた。
「とりあえず、親子でじゃれ合うのはあとにして、お嬢さんに上がっていただいてはどうでしょう?」
「じゃれるとはなんだ。じゃれるとは。俺は、この馬鹿息子に男の道を説いてやろうとだな」
「ええ、ですから。男同士の話は二人だけのときにしていただいて、とにかく、入って落ち着いていただきましょう。身重のところを三時間も電車に揺られて帰ってきたんですから」
「う、うーん。上げる前に言ってやりたかったんだが。母さんがそこまで言うならしょうがない。おい、上がれ」
「ただいま」
「お邪魔します」
 僕たちはようやく家の中に案内された。中に入ると廊下がまっすぐ続いている。突き当たりが二階に続く階段で、左側の障子の向こうが台所と食堂、右側の障子の向こうが掘ごたつのある居間だ。夏は開け放してあるが、今は真冬だからどちらもしっかりしまっている。案内されて右側の部屋に入ると、室内はストーブで暖められていた。外気で冷えた耳にじんじんと暖かさがしみてくる。こたつの真ん中にはみかんが積み上げてある。僕たちが座るとおふくろが熱いお茶を出してくれた。四人で卓を囲むように座る。
「まあ、なんだ」
 上座に陣取った親父が切り出した。
「こっちで職場を探してやるから、大学卒業したら戻ってこい。こっちはそれでいいが、向こうの親御さんはなんて言ってるんだ?」
「あ、父から手紙を預かってきました」
 純子が両手で手紙を捧げ持ち、親父の前に差し出した。
 親父は柄にもなくちょっと赤くなりながら受け取った。おしいただくように額に当ててから開く。中身を一読して唸った。
「こういっちゃなんだが、冷てえ親だな。純子さんが二十歳越えるまで仕送りする。ほかのことはこっちで好きにやってくれだってさ」
 親父は手紙を台の上に放り出した。
「それならそれでいいじゃないですか。こっちの好きにできて、楽ちんですよ」
 おふくろが鼻で笑った。
 気に入らないとなると、とことんけなしていく親父たちの態度も、大人としちゃどうかと思うが、純子の親よりは情も責任感もあるのは確かだ。怒鳴り声の絶えないうちだが、愛情表現が過激なだけだと最近は思えるようになった。子どものころは笑い声の絶えないうちというのに憧れたが、もうあきらめた。誰でも自分が持っているものと折り合っていくしかない。それに純子の母親のひどさを知ってから、自分の親がものすごくまともに見えてくるようになった。対照物があって初めて、わかることもある。
「入るねえ」
 玄関のほうでガヤガヤと音がしだした。声から察するに嫁いでいった一番上の姉とその赤ん坊だ。音の多さからするに、就職して独立した二番目の姉も一緒だ。
 騒がしくなるぞ。
 僕は立ち上がると純子の手を引いて立ち上がらせ、おふくろの隣に座りなおさせた。三人で固まって座る。
 そのとき、障子が開いて、三人が入ってきた。
「わあ。かっわいい」
 ろくなあいさつもせず、上の姉が純子を見て叫んだのが皮切りになった。
「何、教え子に手をつけてんだよ。セクハラ男」
 下の姉がわざわざ僕のそばまでやってきて頭をはたいていく。
「それで、もう、子どもが出来て結婚ですって? いかにも早いよねえ。そうだ。どこに住むの? 東京?」
「いや、帰ってくる」
 僕が答えると、姉たちが歓声を上げた。
「これで足ができたわね。あんた、車の運転忘れてないでしょうね」
 上の姉がさっそく僕をこき使う計画を立ててくる。
「ああ」
 返事をしないと、するまで粘られるので、とっととご機嫌をとっておく。
「ちゃんと筋肉もついた? 買い物袋、三つくらいはいっぺんに運べるようになったんでしょうね」
 下の姉は買い物魔だ。何時間も店を回った挙句、結局最初に見た商品を買いに戻るなんてことがしょちゅうあるのだ。運ぶだけならたいして手間じゃないが、ついて歩くのはごめんだった。
「運べないよ」
「あー、ずるいー、差別したー。おおねえちゃんには素直に返事したくせに、なんであたしの言うことはきけないってのよ」
 下の姉が僕にからんでいる間に、上の姉は純子にちょっかいを出し始めた。横目で気にしていると、純子の腕の中に自分の赤ん坊を無理やり入れた。まだ六カ月だから、動きはするがふにゃふにゃだ。純子の腕の中でニマーっと笑う。純子はカチカチに固まっている。まるで、自分が動いたら、赤ん坊に危害が加えられるといった真剣さで、じっと動かないよう努力している。
 僕は見かねて、赤ん坊を抱き上げた。腕に抱いて、ちょっと揺すってやるとキャッキャッと喜ぶ。
「こら、まだ、あたしの話は終ってないよ」
 下の姉が僕の首を後ろに倒して、自分の顔を見させようとする。
「勘弁してよー。ちいねえちゃんの買い物なんか、つきあいきれないって」
「言ったわねー。成敗してくれる」
「わあ、待った待った。こいつ下ろすから。おおねえちゃん、受け取ってよ」
「いや、俺が」
 さっさと親父がひったくった。見るからにやに下がっている。子どもより孫のほうが可愛いというが、どうやら本当のことらしい。僕には厳しい父だったが、孫にはメロメロだ。親父がやけに簡単に許してくれたと思っていたが、こんなわけだったのかと納得した。純子のおかげで孫が増えると喜んでいるのだろう。
 僕は下の姉にヘッドロックされた。いや、いくら三つ年上の姉でも、腕力には男女差がある。僕が本気で逆らえばはずせるのかも知れないが、逃げて姉のプライドを傷つけるのも可哀相だ。あえてはずさないでおく。
「まいったまいった。つきあうよ」
 僕が降参して、ようやく放してもらえた。純子のほうへ向き直る。
 異変が起きていた。
 純子の顔から表情が消えている。純子の母親がなごやかな席をぶち壊したときと、まったく同じ顔をしている。
「純子?」
「仲が良いんですね」
 低い声だった。恨み言でも言っているかのような。
「そうね。そして、今日からは純子ちゃんも家族だからね」
 おふくろが純子の肩を抱こうとした。純子は身をよじって逃げる。
「家族にはなれません。お腹の子の父親、先生じゃないんです」
「え? 先生って何?」
 下の姉が必死で誤魔化す。
「家庭教師をやってたから、純子ちゃんは今でもこの馬鹿のことを先生って呼ぶのよ」
 上の姉も協力する。
「純子ちゃん、父親が違うってどういうこと?」
 おふくろは聞き逃さなかった。そして、あとでほかの人のいないところで事情を聞こうとか、こんなきつい話題には突っ込まないでおこうとか、そういう逃げをしないのが、おふくろだった。
「文字通りです。先生じゃないんです」
「何かやむを得ない事情があってのこと?」
「いいえ。先生が忙しかったときに、寂しくて、ついフラフラしちゃっただけです」
「父親は誰なの?」
「わかりません。いきずりですから」
「正伸の可能性はないの?」
「ゼロです。先生はあたしを抱いたことがありません」
 まるで、前からこうしようと考えていたかのように、純子がよどみなく質問に答えていく。
 純子は新しい家族を迎えるための楽しい儀式を、ぶち壊してしまったことを意識しているのだろうか。今、この場さえ、赤ん坊の父親のことを黙っていれば、僕と二人、平穏で暖かい家庭を作れるとわかっているはずだ。その場にあえてややこしい問題を持ち込む純子が理解できない。
「正伸」
 おふくろが背筋を伸ばして、ピンと張りつめた声で僕を呼ぶ。
「はい」
 僕は一瞬で正座をして、おふくろに対した。
「血のつながらない子の親になる道は厳しいよ。今回は子どもはあきらめたら?」
 おふくろは冷静だ。何が来ようとドンと受け止めて最善を尽くそうとする。頼もしくもあり、うっとうしくもある。僕はおふくろみたいに、いつもいつも泰然とはしていられない。だが、今回ばかりは負けるわけにはいかない。純子を守るのだ。僕は首を横に振る。
「純子さんは? どうしても産みたいの?」
「いえ、それは許されないと思ってます」
「許されるなら産みたいのね。わかった。ごめん。今日のところは帰って、あんたたち」
 おふくろは二人の姉に合図した。
「まだ、じっくり話し合わないといけないことがあるようだ。今からとくと話し合うから」
「いや、純子さんには帰ってもらえ」
 親父が決断を下した。
「あなた」
「お父さん」
「父ちゃん」
「親父」
 家族から一斉に抗議の声が上がった。いくらなんでも、さっき聞いたばかりのことに、この決定は早過ぎる。
「そんなに孫じゃなかったのが気に入らない?」
 僕は親父に楯突いた。断じて、純子は責めさせない。
「子どものことはいい。俺にはよくわからん。どの道、男は仕込むだけで自分の腹を痛めるわけじゃない。父親だなんて言われたって、実感が湧くのは、娘に『パパ』なんて言われるようになってからだ。正直、誰のタネだってかまやしない。こうやって手の中に入れてぬくもりを感じてれば自然と情は湧いてくる。だがな。純子さんはみんなが和気あいあいと騒いでいる雰囲気をぶち壊した。こういう人は、どこで何をやっても、同じ失敗をする。他人が楽しんでることに水を差すんだ。楽しいことを否定する人は、他人にはじかれ、ひとりぼっちになっていく。何人もそういう奴を見てきた。中でも、自分への祝福を否定する奴なんてのは、たちが悪い。その性分を直さない限り、この先もずっとつまづきまくるぞ。幸せがやってきたら、どついちゃうんだからよ」
 親父が腕の中の赤ん坊をあやしながら、穏やかに言葉を紡ぐ。僕は反論できなかった。感情的に怒鳴られるんなら負けないのに。
「純子さんの落ち込んでるところは深過ぎる。お前じゃ無理だ。純子さんを幸せに出来るだけの器はない。この人に今必要なのは、恋人や赤ん坊じゃなくて、これからの生き方について適切なアドバイスをくれる奴だ。もっと経験があって、度胸がある奴だ。とてもお前の手には負えやしない」
 純子本人を目の前にして、よくもここまで厳しいことが言えるもんだ。親父をねめつけた。
「やってみなくちゃわからないだろ」
「わかる。それが経験を積むということだ」
 親父は揺るぎなく、確信を持って言い放った。
「じゃあ。仕事は……」
「紹介してやれねえ。俺だって大事なお得意さんを紹介するんだ。ちゃんと引き受けたことを責任をもってやり遂げられる奴でなければ紹介なんざできねえ。お前はともかく、純子さんと一緒では無理だ」
 これ以上粘っても、純子を傷つけるだけだ。僕と純子は明るいうちに実家を出た。実家は頼れなかったけれど、東京なら仕事は多い。ぜいたくを言わなければなんとかなるだろう。
 住宅街をしばらく歩くと、純子がぽつんと「ごめんね」と言ってきた。
「何がさ」
「先生が、お姉さんとくっついてるのを見て、あたし、ものすごく嫌だった。お父さんやお母さんやお姉さんたちのほうが、すごく先生に近いって感じて。とってもとっても嫌だった。それで、つい、ぶち壊しちゃったんだと思う」
「やきもちやいたのか?」
「うん。たぶん」
「それ、ちょっと嬉しいかも。もう、いいから。元々、頼る気なかったんだしさ」
「あたしがほかの男に走るとき、先生をどう苦しめるのか、やっとわかった。こんな風に苦しいんだね」
「純子がそこのところわかってくれたんなら収穫だったかも」
 理解していれば、ブレーキだってかかりやすくなるだろう。僕は将来の計画が頓挫したばかりだというのに、楽しい気分で帰途についた。