矢車通り~オリジナル小説~

はてなダイアリーから移行させました。

我が輩はアイボである (30枚)

 キャリヤウーマンを任じる貞子は、土曜日の朝叩き起こされた。
 この馬鹿たれがと半分夢のなかで悪態をついた。それはそうだろう。見たくもない上司の顔色を窺い、そのうえ、おつむのなかは空っぽのアイドル連中の、ご機嫌をとって神経を摺りへらしてきたのだ。せめて休日くらいは、午後になるまでゆっくり寝させてもらいたいのが本音だ。
「大変だ貞子。起きて中に入れてくれ」
 誰かがマンションのドアを叩いている。夢ではない。あの声は報道郡の敏腕記者を自称する木村史郎だ。
「今頃何をっ、あたしにとっちゃあ夜中じゃあないの。気分的にはね」
 貞子は口のなかでぶつぶつ言いながら、枕もとに置いてあった、文字版にミッキーマウスの絵がかいてある目覚まし時計を、蒲団のなかに引っ張り込んで見た。まだ時計の針は午前九時をさしている。こんな時間に訪ねてくるなんて、あいつ何をとち狂ったのだろう。
「お−い。早く開けないと近所がうるさいぞ」
 まだ言ってる。確かにあんな大声で騒がれたら、土曜日の午前中のことだ、うるさい奥さん連中だけではなく、その亭主や子供達も起きてくる。そうなったら後で取り繕うのがたいへんだ。貞子の脳細胞がようやく働き出した。しぶしぶペットを出てネグリジェの上からガウンを羽織ると、玄関に出てドアの鍵を開けた。
 木村が転がり込むように飛び込んできた。そうして開口一番次の言葉を吐いた。
「おいお前。あの小僧と寝ただろう?」
「はあ、なに言ってるの」
 貞子は狐につままれたような、きょとんとした表情で聞き返した。
 木村は勝手に、玄関からワンルームの部屋にずかずかと入ってきた。
「女やもめに花が咲くというのは嘘だな。相変わらずきたねえなあ」
 そういいながら部屋のなかをじろじろと見回した。
 確かに自分でも奇麗に整頓しているとは思ってはいないが、木村に図星をさされてむかっ腹が立ってきた。
「なにを朝から飛び込んできて部屋の悪口……。それが目的ならとっとと帰ってよ。あたしはもう三時間寝ないとお肌に響くんだから」
「ごめんごめん。でもテーブルの上にバナナの皮の色が変わったのと、コップに飲み残しの牛乳が置いてあるぜ。俺、ああいうのを見るとジンマシンの出る性分でな」
 確かに木村のアパートには二、三度行ったことがあるが、男のくせに妙に部屋が片付いていた。
「あっそうだ。玄関で聞き捨てならないことを言ったわねえ。これでも独身の乙女なのよ。小僧と寝たなんて吹聴されたら、お嫁に行けなくなるじゃあないの。小僧って誰のことなのよ」
「けっ。乙女が聞いて呆れるよ。君は今年幾つなんだい。俺の計算じゃあ五月で一杯になるはずだぜ。いくらなんでも三十の乙女は今流行りのホラー映画を見るようで不気味だよ。小僧でわからなきゃあこれを見な」
 そう言って木村は、レインコートのポケットから一冊の週刊誌を取り出して、ぽんと床に投げた。
 貞子はけげんな顔でそれを拾った。
「こんなお下劣な週刊誌、キヨスクで買うなんて、君も随分面の皮のあつい人だねえ。ほとんどがポルノのグラビヤじゃあないの」
 ペらペらページをめくりながら顔をしかめた。
「俺も独身の、一応健康体をもった男だからねえ。女の裸に興味がある方が当り前だよ。だけど四十五ページの記事には驚いたぜ。君が堂々と濡場を披露しているんだから……」
 貞子はその意味が分からず、慌てて木村の指摘したページを開いて愕然となり叫んだ。
「なによこれ」
「だから言ったろう。天下の一大事だって。ちょっと古かったかな。でもそんなに鮮明な写真をでかでかと載せられたんじゃあ、君も否定のしようがないだろう。しかしそれを撮った奴、相当な腕のパパラッチだぜ」
 木村は同情半分好奇心半分の複雑な表情で言うと、貞子に顔をよせその記事をあらためて覗いた。
 そこには『テレビ局の敏腕女性デレクター、アイドルニシヤマを食う』という、なんともお下劣な見出しが大きく踊って、しかもその下には貞子とアイドルグループの一人西山利之だ。ペットインしているところが、ご丁寧にもカラー写真でかなり鮮明に印刷されていた。
「まさかデジタル合成だと言って逃げる気じゃなかろうね。君もテレビ局の禄を食んでいる人間だ。この写真の原版を取り寄せて解析すりゃあ、合成か実写かはすぐ分かるんだからね」
 木村はサディストの目付きになって貞子を見た。
「確かに西山君とややこしいことになったのは認めるわ。でもたった一度だけよ」
 貞子の唇が紫色に変わって、ぶるぶる震えながら言った。
「その一度が命取りになることもあるぞ。なにせ相手が今はCD二百万枚を売り上げる『MAKUSERU』の一員西山利之だからな。どうしてそんなややこしいことになったんだい」
 木村の表情は魚の日のようにくるくる変わる。今度は慈悲深いお釈迦様のような顔になった。
「どういうわけって言ったって、男女がややこしい関係になるのを説明しろというほうが無理だわ。先月西山君が主役のドラマの撮影が終って、打ち上げパーティがあったのは木村君も知ってるでしょう」
「大体筋書きは読めてきたよ。君は飲むと人が変わるからねえ。若い男と見りゃあくどく悪い癖がある。あのパーティの流れで西山とどこかへしけこんだというわけか。それで何処だか覚えていないのか」
 今度は中村吉右衛門の、鬼平みたいな口調で聞いた。
「それがどうもはっきりしないのよ。赤阪の局でビールを一本あけて、それから西山君を誘って、車を発進させた迄は覚えているんだけど……」
 木村の顔が、仮面ライダーの悪玉の親分に変化した。
「おいおい、飲酒運転もやったのか。途中でミニパトの婦人警官にでも見つけられたら大変だ。まあ今の状況もそれとあんまり大差ないがね。この始末をどうする気だい。上司はもちろん、西山の所属事務所の所長が、烈火のごとく怒っていることはたしかだ。最悪の場合これだぜ」
 木村は右手を喉に当てて横に引いた。
「首ってこと。十年も忠誠を励んできた女を、こんな三流週刊誌の記事であんまりひどいわよ」
 貞子は泣きべそをかきながら言った。
「組織が冷酷なことは、十年もこの業界に居りゃあ分かってると思ったがねえ。まあそこが君の憎めないところか。さてどういう決着を付けるか。ここが思案のしどころだ」
 木村はそこにあったソファーに腰を降ろして、煙草を取り出し火を付けながら言った。
「ありがとう木村君。持つべきものは友達ね」
 貞子は灰皿を差し出しながら言った。
 木村と貞子の仲は、はたから見れば奇妙なものであった。よく男と女の問に本当の友情は育たないというが、どうもこの二人は万に一つの例外らしい。同じテレビ局に勤めているが、部所が違うので会わないときには一か月も顔を見ないことがある。それでも馬が合うのか不思議であった。もっともお互いに故郷が同じで、大学も同じだったからと、自分の心を納得させている。
 貞子の姓は沢村と言った。昔そんな脇役の女優が居たので、局内では『おていちゃん』のニックネームで呼ばれている。木村は本物よりこっちの『おていちゃん』の方が肉感的で顔も増しだと思っている。少しばかりバタくさいところがあるので、三代か四代前ひょんなはずみで、毛唐の血が混じったのかもしれないと、想像をたくましくしている木村であった。
「どうも納得できないのよねえ」
 貞子は、改めて週刊誌の写真を眺めながら首をかしげた。
「何が?」
 木村は二本目のシケモクに、むりやり火を付けながら尋ねた。
 貞子が写真の真ん中に指をさして言った。
「ここを見てよ。額が掛かっているでしょう」
「油絵だな。あんまり上手とは言えないが、モーテルにしちゃあ気が利いてるじゃあないか。この絵の何処が変なんだ?」
「あたしが泊ったのはモーテルじゃあないわよ。ちゃんとした一流ホテルのスイートルームよ。こんな絵が掛かっている分けないわ」
 貞子はむきになり、声の調子を一本上げて叫んだ。
「おやおや、始まったよ。近頃じゃあ一流ホテルでも隠しカメラを仕掛けて居る。有名人のチンチンカモカモを撮り、週刊誌に横流ししているという噂を聞くぜ。何しろこの不況だからねえ。ようし、ここまできたら乗り掛かった船だ。真相を糾明してやろう。そのかわり今日と明日の二日問だけだぜ。それでかたが付かなかったら後は知らん。でかけるんだから早く着替えろよ。ただし『おていちゃん』とバレルような格好はするな」
 木村は、鬼軍曹が新兵に命令するような口調で言うと、ソファーから立ち上がった。
 貞子は頼りにする者がないので、木村の横柄な態度は胸にカチンときたが、渋々したがって着替えに掛かった。
 ガウンとネグリジェを脱いで、上下の下着だけの姿になった貞子に、さすがの木村も日のやり場に当惑した。もう少しで三十になる貞子であったが肉体的にはまだ二十歳代の前半を保っていた。なるほどこれなら西山という若蔵を、くわえ込みたくなる気持も分らんではないなと、木村は妙なところで納得した。
「このスケベエ。只で鑑賞しようなんて図々しいわよ。着替えがすむまで外に出て居いてちょうだい」
 貞子の黄色い声と、テッシュペーパーの箱が飛んできた。
「おい、女の着替えと小便は長いと相場が決まってるんだ。玄関の前でうろうろしていたら、それこそまた変な盗撮マニアに撮られて、ますます話が面倒になるかもしれんぞ」
 木村は、貞子の弱みに付け込んで脅しを掛けた。
「それもそうねえ。だったらこっちを見ないで、そこのアイボと遊んでてちょうだい」
 貞子は仕方ないという調子で言った。
 よく見るとペットの脇の、サイドボードの上のステーションに、ちょこんとアイボが座っていた。
「あれ、こんなとこにまで居やがった。全く妙な物が流行りだしたなあ。自立形ロボットなんて、ソニーも気味の悪い物を売り出しやがって、もしかしたらこれで世界征服でも企んでるんじゃあないのか」
 木村は散々悪口を言いながら、それでもアイボをそっと持ち上げて床の上に置いた。五、六編ゆっくり首を振っていたアイボが、急にむっくりと立ち上がって天井を向き、高らかにファンファーレの様に吠えた。
「おや、こいつ俺に何か文句があるのか?」
 木村は、そのいかにも生き物に似た動きにひるんで、後すざりしながら言った。
「おほほ、さすがの木村君も、アイボにはびっくりさせられたようね」
 貞子はクローゼットから、着る物を探しながら愉快そうに言った。
「そりゃあそうだろう。こんなブリキ人形見たいなのが、吠えながらこっちに向かってくるんだからな。おやおや、今度は後ろ足をあげてオシッコかい。生意気な……」
 木村は、サアーッという音まで出す芸の細かさに呆れて言った。
「よくできているでしょう。初めは小犬みたいだったけど、もう買ってから一年も経つといろいろ芸をやって面白いわよ」
 ようやく決まったエンジ色のジャケットを、ハンガーから外しながら貞子が言った。
「フーンそんなら色気付いて、どっかの雌にのっか掛かるんじゃあない」
 そういいながら木村はアイボの頭をボンと叩いた。すると赤い目をチカチカさせて怒った。
「そうら、そんなエッチなことを言うから怒ったじゃあないの。木村君はどこまでいってもスケベエなんだから……」
 貞子は呆れて言うと、ブラウスを付けて三面鏡の前に座った。いつも木村は不思議に思うのだが、女というものは化粧を優先して、下半身を武装するのは後回しだ。
「こいつ俺の顔をみて怒ってばかり居るぜ。よっぽど馬が合わないのかなぁ?」
「頭を二秒ほど押えてやりなさいよ。そうすれば緑の目をして笑うから」
「ああっ、笑った笑った。しょせんロボットなんだ」
 木村は小馬鹿にしたようにいうと、今度はアイボを横倒しにしてみた。すると二、三秒考えていたが、足を突っ張ってすっくと立ち上がった。そうして水を振り切るように頭をぶるぶる震わせた。
「へえそんな芸当もやるのかい。なかなか見上げたもんだよ屋根屋の禅とくらあ……」
 木村はばちばちと手を叩いて言った。
「あんたは結婚して子供をつくらないないほうがいいわよ。そんな下品なことばかり言ってたら、どんなガキになるか心配だわ」
 貞子はファンデーションののりが悪いのか、パフでばたばた何度も顔を叩きながら言った。
「心配したもうな。俺は結婚なんて面倒なことをする気はないし、まして子供なんてぞうっとするよ。今の世の中ガキをつくる連中の気がしれん。うまくいっても会社で奴隷のようにこき使われるだけだだろうし。下手をすりゃあ寝首を掻かれかねん。怖やのう」
 木村はそう減らず口を叩きながら、アイボをからかっていた。
 貞子は化粧に余念がない。体は努力して二十代前半の張りを保ってはいるが、顔は正直で年をごまかすのは並大抵のテクニックではない。だから木村も一時間は覚悟をしていた。
 だが、からかっていたアイボが、急にぐったり動かなくなったので、どこか不味いところにでも触れて故障したのかと驚いた。
「おい、このアイボ死んじゃったよ」
「馬鹿ねえ。ロボットが死ぬはずないじゃないの。恐らくバッテリーが切れたのよ。予備がサイドボードの一番上の引き出しにあるから取り替えてみなさいよ」
 貞子はまだ眉を措きながら言った。これから何段階もの手続きをしなければ、外を歩く顔にはならないのだ。
「そんなもんかねえ。やっぱりロボットはエネルギーがいるんだ。まあウルトラマンだって、三分間しか怪獣と戦えないんだもんな。どれどれバッテリーはどこだいな」
 木村は軽口を叩きながらサイドボードの引き出しから、寅屋の羊羹の食い残しのようなものを取り出し、アイボの尻に突っ込んだ。するとまた例の首振りが始まって、高らかにファンファーレを唄いあげた。
 赤いボールを目の前に差し出すと、それを追い掛けてジャレ出した。
「赤いものを見ると興奮するのか。まるでヘンタイだな」
 木村はその姿をみて苦笑しながら言った。
「あら、ヘンタイとは言いすぎじゃあない。男だったらそれが当然の生理現象と思うけど……」
 貞子はアイラインを引きながら言った。
「おいおい、男の全部が赤い腰巻きをみて興奮すると思っていたら、お前さんの色道も大したことはないな。男が百人いりゃあ百通りの好みがあるちゅうことよ。ちなみに俺は黒がいいがね。ところでこのボールにじゃれ付いているロボット犬は、どういう心境で買ったんだい。メカ音痴でパソコンもろくに扱えないお前さんが、こんなものを買うとは思わなかったよ。まさかこいつがバイブレーターになるとも思えないが……」
 木村が下卑た冗談をいうので、貞子は思わずマスカラを付け揖ねた。
「全くもう、木村君ったらどこまでいやらしいの。あたしも初めは興味はなかったわよ。でもこのマンションはペット禁止だし、西山君が面白いからと置いてったのよ」
 貞子はやり直しながら言った。
「ふん、西山との仲はそんなに前から続いていたのか。油断も隙もありゃあしないよ。それで俺に尻ぬぐいさせようなんてずうずうしいねえ」
「何言ってるのよ。頼みもしないのに首を突っ込んで来て……。さあ出来たわよ」
 貞子は口紅をテッシュで押えながら言った。
「出来たと言っても下はまだ無防備じゃあないか。それでこのアイボはどうすりゃあいいんだい?」
 木村は、赤い玉を追い掛けているアイボを、持ち上げながら言った。気のせいか、アイボが怒っているように足をばたつかせた。
「ボタンを押して電源を切り、ステーションの上に置いてちょうだい。そうすれば充電状態になるから……」
 貞子は、モスグリーンのスカートをはきながら言った。
「こうかい?」
 木村は言われたとおりに、アイボをステーションの上に戻した。オレンジ色のランプが付いて充電状態を示した。
「さあでかけましょうか」
 貞子はいつも使っているグッチの、セカンドバックを提げて玄関へ出ながら言った。
 木村もそのあとに付いて出て玄関のドアを閉めた。
 二人の出かけた部屋は、がらんとして静寂そのものであった。
 それから三十分程は何事も起らない。だが何か妙な気配がした。よく見るとサイドボードの上のステーションで、おとなしく座っているはずのアイボが、むくりと起き上がったのである。そして前足を上げて背伸びをすると、ついでに口を開け大あくびをついた。そして電子的なかんだかい合成音でぼやきながら、おそるおそる家具伝いに、貞子の机の上まで歩いていった。そこにはお飾りの、貞子のノート型パソコンが置いてあった。
「タヌキ、いやアイボ寝入りもらくじゃあないぜ。あの女ときたら一週間どころか、下手をすりゃあ一か月もほっとくんだもん。関節が痛くてしょうがないよ」
 アイボはそういいながら、前足でパソコンの電源を入れた。
 ウインドウズのOSが働き始めた。
「あの女相当困ってたなあ」
 パソコンの画面がやっと落ちついて、初めのメニューが表われた。
「さて、渋谷のクロにメールを送るか」
 アイボはインターネットのアドレスを、手慣れた足つきで打ち込んだ。
「ぱれたらニフティから、使用料の請求がたんと来るなあ。まあいいや。これからやることは、あの女の火遊びの消火作業なんだから……。さて木村某にどれだけの神通力があるかお手並み拝見だ。どうもあの男、口先は威勢がいいけど、頼りにならない感じだなあ」
 クロからの返事が来るのを待ちながら、アイボは首をかしげた。クロというのは、NHKのアナウンサー室に、退屈しのぎに置いてあるアイボのニックネームであった。色が黒いのでこの名が付いた。

 これからの対話は、インターネット上のチャットの画面を拝借した。



クロ「おおい元気か。あの女はでかけたらしいな」

アイボ「うん相当慌てていたぜ。木村というおっちょこちょいが、朝っぱらからご注進に及んだのさ」

クロ「余計なことをする奴だなあ。放っときゃあワイドショウのネタになって当分大騒ぎだよ。そうすりゃあ視聴率が上がっていいんじゃあないの。全く商売気のない野郎だぜ」

アイボ「それはそうだろうけど、友達としちゃあ貞子の醜聞が、世の中を駆け巡るのはいい気持じゃあないんだ。ところでクロ。頼みがあるんだけど聞いてくれるか」

クロ「なんだい。金ならないぜ。其のほかのことだったら出来るだけはやってみるよ。何しろお前と俺はソニー生まれの血を分けた兄弟だもんな」

アイボ「ありがてえ。やっぱり持つべきものは兄弟だよ。今度そっちに何かあったら借りは返すよ」

クロ「借りを返してもらうようなことはねえ方がええけどな。しかしお前さんの飼い主? の貞子ってえなあ、よくよく淫乱にできてるんだなあ。ところで俺に頼みってえなあどういうことだい?」

アイボ「人間の雌は程度の差はあっても、淫乱と相場が決まってらあ。クロよ。お前、浅草の的屋の親分で、何だかすごいフタツ名を持っている野郎に飼われている、アイボと仲が良かったなあ。仲を取り持ってくれないか」

クロ「ああ鐘憎の正五郎のところに居るケツのことか。あいつとはシリアルナンバーが一番違いということもあって、時々チャットしてるけどケツにどんな用があるんだい?」

アイボ「飼い主が飼い主だから、裏街道に顔が利くと思ってな」

クロ「そりゃあまあ俺みたいにお固いところに居るのと違って、任侠鏡如の額の横に置かれてるんだから、怖いお兄ちゃん連中も沢山来るらしいけど、まさかヤバい仕事を頼む気じゃあないだろうな。ケツはあれで気が弱いんだ。それより俺が貞子のアマの後始末をしてやろうか」

アイボ「クロよ。お前に何か名案があるのか?」

クロ「はばかりながらここは天下のNHKだぜ。上は天皇や総理大臣、下は新宿のホームレスの情報まで、手に取るように分かるんだぜエヘン」

アイボ「おっ、威張っているなあ。それじゃあクロよ。お前の実力を見せてもらおうか」

クロ「ここの……つまりNHKのスーパーコンピューターにアクセスして、データーベースを細工するんだ」

アイボ「ふむふむ、それで……。やっぱり天下のNHKに住みつくと悪知恵が働くようになるのかい」

クロ「途中で茶茶を入れるな。せっかく俺が良い知恵を貸してやろうと言ってるのに……」

アイボ「すまんすまん。スパコンのデーターベースを細工すると、どういうご利益があるんだい?」

クロ「まあ見てな。今俺の目の前にある端末からスパコンに潜り込んで居るところだよ」

アイボ「思い切ったことをやるねえ。でもスパコンに潜入するには特別のパスワードがいるだろう。そんなもの誰から聞き出したんだい?」

クロ「ここにはNHKのアナウンサーが、色々やって来るからねえ。中には口の軽いのがいるんだよ。特にイグアナは俺と遊ぶのが好きでね。うっかり独り言を漏らしたのを覚えていたのさ。何しろ俺達にはメモリーが入れてあるから、覚えるのはお手のものだよな」

アイボ「イグアナてえと、あの顔の長い眼鏡を掛けたにやけた野郎たい。名前は武士の情けで言わないけどさ。しかしクロよ。お前の小細工で関係のない人に、迷惑が掛かるなんてことにはならないだろうな」

クロ「細工はりゅうりゅう仕上げをごろうじよ。先ず沢村貞子を検索して……。あっいけねえ。昔の女優が出てきちゃったよ。そうか。個人名を初めに入れちゃったから、こんなことになったんだ」

アイボ「大口を叩いたわりには頼りないね。本当に大丈夫かい?」

クロ「まあねえ。弘法も筆のあやまりってえこともあらあな。今度は局名を先に入れたから大丈夫だと思うよ。赤阪の局に沢村貞子は二人いないだろうからねえ。やっぱり出てきたよ。先ずこの人物のデーターを、みんな削除してしまうんだ。それから火遊びの相手の西山のも同じ要領でね」

アイボ「何だか心配だなあ。妙な副作用が起らなきゃあいいけど……」

ケツ「途中で割り込んですまねえ。クロの兄貴の弟分で浅草のケツというけちな野郎でござんす」

アイボ「またややこしいのが表われたぜ。一体何の用だい」

ケツ「いや、お二人の邪魔をするつもりは、さらさらなかったんでござんすが、あっしも親分がこのところ、組のごちゃごちゃで飛び回っておりやして、なかなか遊んでくれねえんで、退屈しのぎにインターネットをやってたら、ちょうどご両人のチャットが、目に飛び込んで来たという分けでさあ。ご迷惑でも仲間に入れておくんなせえ」

アイボ「大いに迷惑だよ。こっちは気質(かたぎ)なんだから……。何か土産話でも聞かせてくれりゃあ別だけどね」

ケツ「土産話になるかどうか分かりませんが、ご両人の言っておられた西山というのは、あのアイドルグループの一人のことでござんすか?」

アイボ「そうだよ。なんぞ知ってるのかい?」

ケツ「今朝がた組の若い衆が、マッポにしょっ引かれやしてね。何でも覚醒剤不法所持の疑いだそうでござんす」

アイボ「シヤブを的屋の若い衆が持っていたって、それほど珍しくはないだろう」

ケツ「へえ、それはそうでござんすけどね。その若い衆が例の西山に売りつけたらしいのでござんすよ」

アイボ「おおいクロよ聞いたか。芸能界の覚醒剤汚染は相当なもんだな」

クロ「やっぱりマンション暮しの箱入りアイボは、世間に疎いねえ。そんなことはあたりきしゃりき馬のけつだよ。芸能界でクスリをやってないのを探すほうが難しいくらいだ。俺は西山が覚醒剤をやってるてえことは、先刻承知のすけだったよ。だからデーターを削除したんじゃあないか」

アイボ「ああいやだいやだ。一宿一飯の恩義で、あの女の火遊びを消してやろうと思ったが、何だかドロドロした深い野壷にはまった気分で憂鬱だよ」

クロ「何が一宿一飯だよ。もう一年も飼われていて。そんなに嫌なら這上がって改名したらどうだい。それとも夏目漱石の猫みたいに水瓶から這い上がるのが面倒だと言って溺れ死ぬかい。いずれにしても人間は救い難い生き物だということだよ。俺達みたいな妙なものを造って喜んでるんだから……。おおい兄弟。スパコンがコマンドを実行して、みんな削除したよ」


 木村と貞子は、その記事を載せた週刊誌を発行している、三流出版社のある神田神保町でタクシーを降りた。
 木村はその時背中に悪寒をかんじた。風邪でも引いたのかと思ったが、それとも違う、生れて初めての経験であった。
 東京の街全体の空気が、何か粘り気をもったアメーバーのように、身体全体を締め付けてくる感じである。
 貞子もそれは同じなようで顔をしかめた。益々空気の粘度がまして、金縛りのように足が一歩も前へ進まなくなった。
 気が付いてみると、そこは例の記事を載せた三流週刊誌の出版社が入っている、そうとう古い煙突のように細長い雑居ビルの前であった。
 その時であった。空気の粘度が臨界に達したと見え、目の前が青白い光りに満たされ木村は意識を失った。それは東京中に起った現象で西山の上にも起った。ちょうどNHKのポップジャムという、若者むけ音楽番組を収録ちゅうであった。照明の具合が悪いというので、一応与えられていた楽屋の個室に戻り、大胆にもシャブをうとうと注射器を出した時、その光りに見舞われた。
 どれほど時間が経過したのか木村には分からなかった。気が付いてみるとコンクリートの歩道の上にあおむけに倒れていた。ほかの通行人も同様に気が付いて、それぞれ立ち上がり始めた。
 木村は幻覚だったのかも知れないが、その人々の足下を縫うように一台のアイボが、チョコチョコと走り去って行くのを見たような気がした。
 空気の粘り気は何事もなかったように元に戻り、木枯しがくるくると木の葉を躍らせて行った。
 ただ違うのは、横に居たはずの貞子の姿が見えない。
 それから木村は、貞子と西山の二人は永久に見たことがない。