矢車通り~オリジナル小説~

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頼れない夫

「お茶もないのかい?」姑の古橋かなえが口を尖らせた。甲高い姑の声が、笹井しぐれの耳につく。
「いつも言ってるだろう。私の好きなお茶を切らすなって」しぐれはうつむいて、姑から表情が見えなくなるようにした。(一ヶ月に一度来るかく来ないかの客に合わせてお茶っぱなんて買えないわよ)声が洩れないように歯をくいしばる。(普通の家に来る客なんて出されたものに注文つけたりしないわ)
 しぐれはいつも姑の態度にうんざりする。結婚して3年になるが、指図がましい文句は増えるばかりだ。手伝いの一つもしてくれれば感謝のしようもあるが、かなえは口を出すが手は貸さない。こちらは二歳の男の子の世話で一日中走り回っているのに、遊びに来るだけ迷惑だ。たまに来ては、やれだらしないの、散らかってるのと文句を言うくせに「お義母さまが雄人と遊んでいて下さったら、片付けられるんですけど」と切り出すと「なに言ってるんだい、子供がいたって掃除くらいするもんだ」と取り合わない。で、ご本人の住まいはと言えば、しぐれの家より散らかっている。自分だってしないことをなんでしぐれにはうるさく言うのか、まるで理解できない。それでも夫を育ててくれた恩人なら我慢もするが、かなえは乳飲み子の秋人を置いて離婚しているのだ。秋人としぐれの結婚後すぐ舅が亡くなって、秋人が一人になったとたん、母親面して戻って来た。さすがに同居しようとは言ってこないが、今更子供に合わせる顔があること自体が図々しい。
 秋人は黙ってお茶をすすっている。しぐれはこの結婚は間違っていたのではないか、と思い始めていた。明らかに理不尽な姑に抗議ひとつしてくれない夫に、不満が募る。何度も何度も「あなたの口から態度を改めるよう、言ってください」とお願いした。「あなたに対しては遠慮がおありのようだから、きっと聞いてくれるわ」と。夫は「嫌なことは『嫌だ』と言えばいいじゃないか」と答えるばかりで、自分は何もしない。「言えるくらいなら、困らないわ。それじゃ決定的なけんかをして付き合いがなくなっちゃうでしょう? ここはさりげなく、あ・な・たが言ってくれなきゃ」秋人は笑って答えない。(本当に大げんかしてやるわよ)涼しい顔の夫を見ているうちに、しぐれは胸の奥に出来たかたまりを吐き出したくなった。もう出さなくては内側からしぐれを破ってしまいそうだ。しぐれは覚悟を決めた。かなえの前で正座した。しっかりとかなえの目を見る。
「お義母さま。うちは喫茶店じゃありませんから、ご注文の品なんて出てきません。いつもお好みのお茶を用意したりしませんから、どうしても必要なら持って来てください」
 かなえは一瞬、体を引いた。すぐに態勢を持ち直して、しぐれをにらみつけた。
「開き直るつもり? あたしが来るのがわかっててどうして用意しておかないんだ。自分の気のきかなさを棚に上げて、あたしに文句言うの? 最近の嫁はいつからそんなにお偉くなったのかね」
 この言葉を聞いて、しぐれの理性は無くなった。しぐれは『お母さん』を知らずに育った秋人が可哀想だと思っている。中学校に上がるまでは舅の父親が面倒を見ていたらしい。秋人の祖父に当たるその人は、秋人が高校生の時に亡くなった。この女が主婦であることに飽き足らず、飛び出してしまったせいで回りの人間がどれほど迷惑したかと思う。しぐれなら許せない。当事者である秋人が受け入れたから、しかたなく我慢しているだけなのに、言うに事欠いて「嫁」だと? 
「電話ひとつ寄越さないで用意してあるわけないでしょう。お茶っぱなんて一ヶ月もすれば香りもなにもなくなっちゃうんだから、替えなくちゃなんないでしょうが。嫁って、お義母さん、あなたが嫁の勤めを放棄したから、秋人さんはしなくていい苦労をしたんでしょうが」
「お茶っぱを替えとけなんて、誰が言ったのよ。自分の息子がいる家は、自分の家でしょうが! 自分の家に自分の好きなお茶があるのは、当たり前じゃないのよ。途中でなにがあろうと息子は一生息子なのよ。他人のあんたに何がわかるの。秋人、なんで黙ってるのよ。母親が侮辱されてるんだから、なんとか言ってやんなさいよ!」
「あら、秋人、私、あなたが言いたいことを代弁してるわよね? この女に恨み言のひとつも言ってやってよ」
 しぐれは秋人の方を振り返った。かなえも秋人の言葉を待つようだ。空気が凍りついている。秋人は平然とお茶をすすった。しぐれはかなえの方を見た。かなえもこちらを見ている。長い沈黙のあと、しぐれは落ち着いて、秋人にたずねた。
「ねえ、あなたはどっちの味方なの?」秋人は驚いたような目でしぐれを見つめた。
「味方? 俺はなんで争ってるのか、全然わかんないよ。たださ、こう、家の中でさ。女の人の声がするのが嬉しいんだ」しぐれは毒気を抜かれて、神妙に聞いた。「どういうこと?」「ほら、おふくろいないから、うちは親父の命令する声か、怒鳴り声しかしなかったんだよ。たまに、よそんち行くとさ、おばさんがいて高い声で子供の名前を呼んだりするじゃない。『おやつよ』なんて最高だけど、そうじゃなくても、叱られててもさ。なんかこう懐かしくてさ。でもその声は俺のじゃないじゃない。いつか、俺だけの声を手に入れたいって思ってた。もっとしゃべってよ。怒鳴りあいでいいから」
 しぐれは隣の部屋で昼寝をしている雄人のことを思った。私はけっしてこんなことは雄人に言わせまい。かなえはしゃべり出した。今までどんな風に暮らしてきたか。どんなに秋人が恋しかったか。その声はしぐれの声とよく似ていた。