矢車通り~オリジナル小説~

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雨に降られて(18枚)

 トラックの後輪が目前に迫った。入江敦は自転車のハンドルを左に振り、サドルから腰を浮かせる。左側では小学生が集団登校をしている。敦は自転車をトラックと小学生の間に入れようとした。男の子が一人、列からはみ出してくる。とっさに自転車を左に倒した。飛び降りようとした敦の右足は、フレームに引っかかり、敦は自転車ごとひっくり返った。
 敦は馴染み深い診察室で目を覚ました。二年前に他界した祖母、トメと一緒によく来たところだ。トメは共働きの両親に代わって、敦と敦の四歳違いの姉を育てた親同然の存在だった。細面の顔立ちと細い体型が三人ともよく似ていたので、実の親子と間違えられることもよくあった。
「ばあちゃんは魔法使いだから、若く見えるのさ」とトメもまんざら悪い気はしないようだった。トメは「大事な預りものだから、万一のことがあったら、あんたたちの親に顔向けできない」と敦たちをよく病院へ連れて行った。姉が赤ん坊のときなど「顔が赤い」と医師をたずね「おばあちゃん、赤ん坊は赤いから、赤ちゃんと呼ばれるんです」と諭されたこともあるんだとトメは楽しそうにしゃべった。 総合病院の小児科だと思い出して、敦は困惑した。身長1m70㎝、体重54kgと、中学二年生にしては大きい方だ。制服を着ていた。髪は七三分けとおとなしいが、小学生と間違えられるはずはない。第一、事故で怪我をしたのなら、外科ではないだろうか。
 敦のいる簡易ベットから、机に向かう医師の横顔が見えた。いつもはニコニコしている丸い顔が、引き締まっている。医師の隣に相良多恵の横顔を見つけて、敦はあわてた。長い髪を三つ編みにして、切れ長の目を閉じている。厚めの唇は小刻みに動いて、一心になにかを祈っているようだ。ぽっちゃりとした体は震えている。夏も間近な6月の終わりだ。寒いわけではないだろう。敦はそおっと視線を戻した。置時計が目に留まる。11時35分。事故から3時間経っている。右足に激痛が走った。敦は思わずうめいた。
 医師が振り向いた。多恵が敦の側に来る。
「敦君、わかるかい? 私が見えるか?」敦はようやくうなずいた。歯をくいしばって痛みに耐える。「君は右足を複雑骨折したんだ。ただ折れるのを単純骨折、君のは細かく割れているから複雑骨折。全治3ヶ月の怪我だ。今痛いのは麻酔が切れたからで、良い事なんだ。経過を見る必要があって、診察室に連れてきた。君の所は看病してくれる人はいないだろう? 入院出来るから2週間は安静にしてなさい。お父さんがすぐ来るようなことを言っていたよ。3時間ほど前にはね」
 父親の壮は徒歩20分の県立高校で教師をしている。今日は4時間目が空いているはずだ。今ごろから来て、昼休みが終わるまでに戻るつもりなのだろうと見当がついた。壮はちょっとした用事はいつもそうして片付ける。
 ほどなく壮は敦の足元の向こうにあるドアから、くぐるように入って来た。多恵を認めて、無遠慮に眺める。
「おまえもすみに置けないな。紹介してくれよ」壮は呑気に言う。敦が痛みで口も開けられないことなど、気づきもしない。

 壮は男ばかりの4人兄弟の末っ子だ。結婚当初は共働きで子供はいない予定だった。予定が無くとも子供は出来る。子供の預け先に困った夫婦はトメを呼び寄せることにした。トメは夫を亡くして長子と同居していたが、専業主婦の嫁とうまくいっていなかった。まだ、55歳だったトメは現役の主婦でいたかったようだ。「全て任せます」との誘いに喜んでやって来たらしい。敦に多少なりとも理解力がついた頃には、トメを主婦とした生活が出来上がっていた。子供の頃からトメを手伝っていた壮も、土日が休みの母親、雅奈も協力はした。しかし、基本的に家事はトメの仕事だった。確か4歳くらいの頃、敦はトメに聞いたことがある。
「4人も育てたら、赤ちゃんが赤いのくらい知ってるでしょう? おばあちゃん」トメは頭に針をこすりつけながら、ズボンを繕う手を止めて考え込んだ。
「自分の子供が小さい時は、なにもかも精一杯で、じっくり何かを見る時間は無かったよ。あんたのお姉ちゃんのとき知ったこともたくさんあるよ。おばあちゃんはここに来て、本当に良かったと思ってるよ」
 敦にはよく飲み込めなかったが、トメが敦の側にいたいのだということはわかった。トメのひざに頭を押し付けてぐいぐい押した。
「これ、針が危ないよ。敦ったらおやめよ」トメは敦の頭を左手で受け止めた。

 壮は敦に対して、厳しくしようとした。騒げば殴り、邪魔をすれば蹴飛ばした。敦はトメの陰にかくれ、トメは決してどかなかった。母の威厳だったろう。
 雅奈は「任せると言ったからには、口出しはしない」を貫いた。もともと、食事の後に書類仕事をしようとして、書類にソースやしょうゆの染みを付けるような、細かい事が目に入らない性格なのだ。 入江の家はトメという母親と歳の離れた四人兄弟のようだった。
 敦は両親を「生活費を稼いでくる人」と割り切っていた。壮に殴られても、なんの感情も持たないように自分を訓練していた。
 嫌いな人間に痛めつけられれば、反発する。好きな人に泣きながら叩かれれば、反省する。そんなものと敦は思っている。敦は壮が好きかどうかは考えないようにしていた。敦のために働いている両親が嫌いだったら、自分の居場所を失ってしまう。
 壮は舌打ちをはじめた。敦の返事を待ちかねているのだろう。敦は足の痛みを確かめた。もうだいぶ慣れてきたようだ。口許を緩めてみる。
「クラス代表だよ。学級委員なんだ」
「授業中にか?」壮はからかうように笑った。多恵は頬を紅潮させ、壮をにらみつけた。
「とても心配でしたから」その言葉には(あなたは心配じゃなかったの?)と非難するような雰囲気があった。
 その時、ストレッチャーが運ばれて来た。壮と看護婦で敦を移す。
「小児科から運び出されるのは照れくさいな」敦は顔馴染の看護婦に気安く声をかけた。
「あっちゃん。中学生までは小児科よ」と看護婦は笑った。

 入院生活は、検温、食事、検査、とすることは多い。大部屋は人の出入りが激しい。隣の患者が話しかけてくる。足はあまり痛くないが、発熱していてだるい。家族はたまに顔を出したが、すぐに帰る。相良多恵は毎日来た。
「入江君がいないと、静かだよ、うちのクラス。先生がボケてみせても、突っ込む人がいないから」「二年C組ともめちゃって困ってるよ。仲裁役の入江君がいないと止まんない」などと報告してくる。 敦はパジャマ姿で寝ているところに、女の子が来るというのが恥ずかしい。5日目に多恵が来たとき、ついに切り出した。
「相良にはさ、男兄弟いる?」
「弟がいるよ。今、小三だけど」
「俺さ、姉ちゃんいて、文句言いつつ世話してくれるから、分かるんだけどさ。相良がただの好意で見舞いに来てくれてるって。でも、変だろ? 男の子のところに毎日女の子が来るのって。ほら、付き合ってるみたいじゃん。違うだろ。俺ら」
「あたしは、だって、入江君っていつも一人でいるから、戻って来ずらいかなと思って……」
「俺にも友達はいて、毎日ノート届けてくれるんだ。ま、そいつが書いたノートじゃないけど」敦はそおっと言葉を置くように話した。多恵は意味を理解するのに少し時間がかかった。
「そんな人たちがいたの? 入江君って誰とでも仲良くなるけど、特別に友達って人はいないんだと思ってた」
「C組なんだよ、たまたまクラスが分かれただけ。クラスの仲が悪くなると『どっちの味方だ』みたいな、面倒な話になるからもめないように気にかけてるんだ。男子なら誰でも知ってることだよ」
「なーんだ。心配しちゃったよ」
「学級委員として?」敦はまだ、恋愛とかつきあいとか、なにやら面倒なものから離れていたかった。多恵はそう聞かれて、少しためらった。ほんの少し。
「そうよ」弱弱しく笑った。
 翌日から多恵は姿を見せなくなり、敦はほっとした。
 事故のとき、敦はトメのことを考えていた。トラックにぶつかったら、トメに会えるような気がして、危ないと思いつつ近寄ってしまった。
 トメは命を危険にさらした時は怒り狂った。道路に飛び出そうとした時。赤信号を無視した時。トラックの車輪にぶつかりそうになった時も(ばあちゃんに怒られる)ととっさに思った。トメに近寄ろうとして、離れるようなことをしてしまった。体のどこかに埋められない空白がある。そこから、冷たい風が吹く。敦の体の芯から冷やしてしまう。

 敦は順調に回復し、予定通り2週間で退院することになった。
「ギブスは外側に骨があるのと同じだから、日常生活には支障はない。ま、あとは慣れだ」医師は笑って送り出した。
 荷物は昨日のうちに家族が持ち帰った。ギブスをしたまま着られる服は中学のジャージしかない。二本の松葉杖を使って、敦はゆっくりと歩き出した。
 今まで何気なくしてきたことが、出来ない。道路から家のアプローチまでの二段を登るために、5分はかかった。玄関から室内に上がるときは、はいつくばって体を引き上げた。敦の部屋は二階にある。たどり着けるとは思えない。正面の階段を見上げて、敦はため息をついた。右のドアは10畳ほどのLDKに通じている。左奥は洗面所からお風呂への扉がある。左のふすまはトメが使っていた6畳の和室だ。生前のまま、手はつけられていない。敦は使わせてもらおうと、ふすまを開けた。ふとんが敷いてあった。トメのだ。姉がしてくれたのだろう。ありがたく横になった。
 二年前が蘇ってくる。トメが急病で亡くなったあと、誰が家事をするのかという問題が浮上した。「あたしは出来ませんよ」初七日が終わったあと、家族が集まったところで、雅奈はきっぱりと言った。「朝のゴミ出しや、町内会の付き合いぐらいはしてもいいけど、炊事と掃除と洗濯は私の仕事じゃないわ」
「掃除は各自、汚した人間がするということで、いいだろう」壮が落ち着いて発言した。壮は家事が出来る。が、仕事を辞めて主夫になるというタイプでもない。家事は苦もないが、あくまでも手伝いならということだ。
「家計管理はわたしがやるとして、子供達。子供部屋が有る様な家に住めるのは、わたしが仕事をしているからよね。老後の貯えもしておくから、世話にもならないわ。わたしが仕事をしていることで恩恵を受ける、あなたたちが家事をするのは、順当じゃないかしら」
 敦と姉は顔を見合わせた。子供部屋が欲しいと言った覚えは無い。老後の面倒は見ないと宣言した覚えも無い。しかし、雅奈に家事をやらせたら、ろくなことにならないだろうと見当がついた。生ごみに電池をほおり込む奴だ。
「あたしは炊事をやる。台所はまかせて。でも配膳や片付けは手伝ってね」姉はにっこり笑う。得意分野がある奴は強い。雅奈は敦を見た。
「洗濯、やってね」
「嫌だよ、女の下着なんか洗うの!」家族は爆笑した。一週間ぶりの笑い声だった。ひとしきり笑って姉は言った。
「あんたが男だなんて、すっかり忘れてたわ。ごめん。ごめん。大丈夫よ。洗うのは洗濯機。あんたは洗剤とスイッチを入れるだけよ」
 洗濯機が止まったら、洗濯物を取り出して干さなくてはならない。乾いたら取り込んでたたまなくてはならない。物によってはアイロンだってかけなくてはならない。ちっとも大丈夫じゃないじゃないか。そこまで考えて、敦は慌てて洗面所に向かった。洗面台の横に洗濯機がある。洗濯機の上の洗濯籠はいっぱいだ。床にも積み上げてある。二週間、全く手をつけられていなかったようだ。
 お互いの仕事に口を出さない。手も出さない。と暗黙のルールがあった。怪我で入院してるときくらい、やっておいてくれてもバチは当たらないのに。などと思いつつ、自分の仕事があって安堵した。ここは敦の家なのだ。退院一日目は洗濯で終わった。
 二日目の朝、敦はいつもと同じペースで洗濯をすませてしまった。お昼は姉が弁当を作ってくれた。もう、何もすることがない。トメのふとんに寝転がり、天井を見ていたら、ふと違和感を覚えた。よく見る。トメが生きていた頃は、毎日長時間過ごした部屋だ。隅々まで記憶している。
 東側のすみに仏壇がある。その上のかべに祖父の遺影があったはずだ。確か小学二年生くらいの時だったか、敦はトメに「おじいちゃんがどこにいても見てる」と訴えたことがある。トメは頭を少し前に傾け、唇のはしを少し持ち上げた。
「内緒だよ。おばあちゃんが魔法でおじいちゃんの目を動かしているのさ」と囁いた。敦は今ではそんな風に見えるように撮ったものだと知っている。そのときは心底、トメを尊敬した。それから、トメは神妙な顔で急須にお茶の葉を入れた。ポットからお湯を注ぎ、湯のみにお茶を移す。湯のみが半分埋まったところで、お茶が止まった。
「おばあちゃんが絞るとまだ出るよ」トメは急須に力を込めた。ぽたぽたとお茶が落ちてくる。
 敦は思い出しながら、くすくす笑った。
「子供だましだよなぁ」敦の声だけが響く。今なら、一緒に笑えるのに。トメの笑い声が聞こえることはない。
 敦の声は嗚咽に変わった。
 ひとしきり泣いたら、腹の虫が鳴った。敦は我に帰り、明日は学校へ行こうと思った。昼間、たった一人で家にいるのは耐えられない。敦の家のすぐ近くから中学校の入り口までバスが通っている。普段は使用を禁止されているが、電話で許可をもらった。バスのステップを登るために階段で何度も練習をする。松葉杖で学校に行く準備を着々と進めた。
 勉強道具はリュックに詰めた。バス代はジャージのポケットに入れる。ジャージは胸に学校のマークと苗字が、フェルトで貼ってある。ちょっと恥ずかしいが、仕方ない。時刻表よりも早めに出た。バスの停留所に並んだ。うしろにねずみ色の背広を着た中年がらみの男が並んだ。バスが来た。バスは後から乗って前から降りるタイプだ。乗り込もうとして敦はあせった。階段よりも段差がある。松葉杖を突いても、そのまま力を入れて体を持ち上げることが出来ない。杖を先にバスに乗せ、左の手すりにぶら下がって体を引き上げた。なんとかバスの内部に転げ込み、杖を拾って入り口すぐの優先席に座った
「もたもたするなら、家にいりゃあいいのに。そんなに行きてぇか、学校」男のつぶやきが聞こえてくる。敦はにっこり笑って話かけた。
「なにかおっしゃいましたか?」
「なにも言ってねぇよ」男は平然と入り口向かいの席に座った。
 敦は座席を見回した。ほぼ満席だ。誰もこちらに気をかけない。
 唐突に雨が降ってきた。洗濯物を干してきた敦は外を見た。快晴だ。雨はバスにだけ降っている。車内が騒がしくなった。
(何もあんな言い方しなくてもいいのにね)
(バス中に聞こえる声で言っておいて、なにも言ってないなんてふざけるなよな)
(子供連れだともたもたすること多いから、身につまされるわ)
(学校なんざ、行きたくねぇよ。大人が行けって言うんじゃん)
(降りるときにもなんか言ったら、今度こそかばうのよ)
(孫と同じ歳かね。くさるんじゃないよ)
 敦は辺りを見回した。乗客の表情に変化はない。敦にだけ声が聞こえるのだ。
 雨がやんだ。声もやんだ。バスの後になった雨雲を見ると、トメの顔になった。
「おばあちゃんの魔法なんだよ」そうつぶやいて、ゆっくりと空に溶けていった。