矢車通り~オリジナル小説~

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ひとときだけは……

 私がそのニュースを聞いたのは、会社の昼休みに女子社員で集まってお弁当を食べているときだった。
「長期ドラマのロケ地がこの町に選ばれたんですって、聞いた? 水原さん」
「柳勇馬主演の近代ものってうわさよね、伏見さん」私はとっさに話を合わせるため、自分の好きな俳優を持ち出した。
「いいえ、時代ものよ。ちょい役は現地の人に出てもらいたいって、役所に話しがあったんですって。町内会は大騒ぎよ」
「どこに連絡すれば、出られるかな」私は伏見さんの首を締めんばかりに迫った。おっとりタイプと思われている私の反応に、まわりが引いていく気配が感じられる。一重まぶたで卵型、平安の時代なら美人で通る私の顔は、薄い唇が強くしばられ、への字に曲がっていることだろう。
「町役場に行けば、連絡先が書いてありますよ。そんなにドラマがお好きでしたっけ?」
「柳勇馬が好きなのよ」
 今度は5人しかいない同僚たちの驚愕の顔を見る羽目になった。私は今までこのことだけは、他人に洩らしたことがない。いくら独身でも40過ぎて、30歳の男優にのぼせ上がっているなんて恥ずかしい。でも、今は情報のほうが大事だ。
「会えるといいですね」伏見さんはやっとというように、話をつなげた。
「共演するわ」口に出してみたら、とても良いアイデアのような気がしてきた。
「会社を辞めて、役者を目指すの。今日辞表を出すわ」
 そのあとはどうしても辞めるとわめく私を、社長がなだめてくれるという運びになった。高校卒業以来、27年勤めた会社だ。
「翔子ちゃんのことは、くれぐれもと親御さんから頼まれている」と言われては、私もわがままを通すわけにもいかない。もし出演することが決まれば、撮影の日は有給で休ませる。役者の稽古をするなら、その間は定時の5時に帰らせるとまで言われては、辞表は引っ込めるしかなかった。
 翌日は午前中に町役場に行った。地元の協力が欲しいがための出演なのだから大歓迎だが、それなりの役をもらうにはやはり演技力が無いと難しいと言われた。
 次の日から演劇教室に通い始めた。今度のドラマのための臨時教室が出来たのだ。抜け目のない人は、人口3万人の地方都市にもいる。内容は「登場人物に身も心もなりきること」で、心の中で思うことまで、役になりきれというものだ。比較的大きな役として、柳扮する主人公を助け、家にかくまって病を癒す後家があった。私は柳だと思うと手が震え、おでこに手を当てようとするだけで胸が高鳴った。乱暴に扱ったら夢から醒めるのではないかと心配で、相手役をそおっとそおっと扱った。その「演技」が認められて、無事にその役をもらうことが出来た。
 私の出番がある撮影の日、柳勇馬がやってきた。あわただしい撮影現場で私は柳勇馬を探した。撮影が終わればすぐに帰ってしまう。この日までに何度も来ているが、一度も会えたことすらなかった。忙しいスケジュールをこなしているのだ。プライベートに近づこうとすれば、今しかない。ロケ現場になる古い民家の隣に、控え室として借り受けている現代住宅がある。柳勇馬専用と知っていて、私はこっそり足を踏み入れた。
 玄関が広い。右手に人の気配を感じて、のぞいてみる。柳勇馬がテレビを見ながらくつろいでいた。先週見たドラマの光景に似ていて、体の芯がしびれるように感じた。大きな目、かぎ型の鼻、分厚い唇、がっしりとした体格、目の前で見るとさらにピントが合ってくるように、私の脳裏に姿形が焼き付いた。横になって手で頭を支えるさまは、私の父親とどこも違わないけれど。
「だれ?」ふいに声を掛けられて、うろたえた。なんと答えれば私とわかってもらるのだろう。
「おようです」とっさに役名を出してみる。柳勇馬は体を起こして、あぐらに座り直した。
「失礼いたした。このたびはお世話になり申す。聞けばこちらの方とのこと、ご協力ありがたく存じます」
「こちらこそ、このような田舎に来ていただきまして、ありがとうございます。あこがれの柳さまと同じ舞台に立てて、存外の幸せに存じます」
「あなたが水原翔子さんだね? よかったー。素人だって言うから、大根だったらどうしようと思ってたんだ。あなたなら安心」柳は私ににっこりと微笑みかけた。
「舞台度胸も満点だし、こりゃいい人に当たったな」
「ありがとうございます。どうかよろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
 私はどう話をつなげば良いのかわからず、黙ってにこにこと座っていた。
「もういいんだよ」柳は言った。
「共演者にあいさつに来たんでしょ。もういいよ。十分してもらったよ。ぼく休憩出来る時間、あんまり無いんだ。あと30分もしたらスタンバイしないと」
「どうぞ、おくつろぎください。私は構いませんから」
 柳は困ったように腕組みした。私はいつも勇馬の代役にするように、そおっと見守り続けた。
「ぼくは他人がいるとこではくつろげないよ。いつもカメラに狙われる身なんだから。今だってなんで君がここに入ってきてるんだろうと思ってるんだよ。頼むから向こうに行ってよ」私はどうもわからない。私が行ってしまったら、ご用事は誰がするのだ。
「私、代役の方ですけど、ずーと勇馬さまのお世話をしてきたような……」
「行ってって言ってるのがわからない? これ以上邪魔するとほかの人におようを頼むよ」
「あ、いえ、それだけは。失礼します」私はそそくさと立ち上がって、急いでその場を離れた。やはり現実の勇馬と恋仲になどなれないのだ。今まで逢瀬を重ねてきたような気でいただけに、落胆は大きかった。
 撮影が始まった。山にきのこ狩りに行って、傷ついた勇馬を発見する。村人を呼び、家に運んでもらう。「後家が男を引っ張り込んだ」と陰口をたたかれながらも、献身的な看病を続け、勇馬は回復する。勇馬は追っ手からの隠れ蓑として、私を妻と呼ぶ。私は日々剣術の稽古を怠らない勇馬を見て、勇馬に主君のもとに戻ることをすすめる。勇馬は去って行く。
 私の出番は3日で終わった。

 そのあとは今まで通りに生活している。あのとき短気を起こして会社を辞めなくてよかったとつくづく思う。時々同僚のひたいに手を当てて、熱を測ってみたり、会社へのお客様を見送るときにぼーっと立ち尽くしたりする。ありがたいことに同僚は「余韻症候群」と名づけてほおっておいてくれる。私はたった一度の思い出でも、この先ずっと楽しめそうな気がする。