矢車通り~オリジナル小説~

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義父母

 山本詩保は軽い足取りで2階に上がった。廊下の突き当たりが義父母の寝室だ。10畳の部屋にベットが二つ並んでいる。入って右手はクローゼット、左手に義母・知佳子の鏡台がある。義母は今、詩保の息子で、生後6ヶ月の一義をお風呂に入れている。洗顔クリームを取って来て欲しいと頼まれたのだ。普通洗顔クリームは洗面所にあるはずだ。義母は自分のものは自分の場所にしまうくせがあり、「不便でしょう?」と聞いてみても改めない。夫婦二人の暮らしなのだから、便利がいいようにすればいいのにと詩保は思っているが、盆、暮れ程度しか会いはしない。詩保には関係ないことだ。
 鏡台に近寄ってみると、鏡が開かれてテーブルになっており日記帳が乗っていた。文字が目に入る。
「だしひとつ取れない」「簡単な子供の洋服も作れない」「いつもぶすっとしている」「子供にこづかいをやると自分も欲しがる。欲が深い」「怒鳴り声で話す」……詩保の悪口でいっぱいだ。わざと私に見せるように置いているのだろうか。詩保は怒りのあまり、顔に血が上るのを感じた。鏡を閉じる。卵型の顔の半分もあるような、大きな目は吊り上り、我ながら怖い。顔は真っ赤だ。ぶあつい唇がわなわなと震えている。気持ちを落ち着けて、もう一度鏡を開ける。やはりある。
「見つからないの?」急に声を掛けられて、体全体が反応した。知佳子だ。樽が歩いているようだ。
「一義はどうしたんですか」
「義彦が連れてったよ。昼寝させるんだと。やっとあの子もパパらしくなったよ」知佳子は巻いたバスタオルを左手で押さえて、鏡台に近寄った。はっとする。
「あたしの日記を見たの?」
「私が来たときは、この状態だったんです」
「でも普通は日記ってわかれば、読まないでしょう? きちんと育ってれば」
 詩保の脳裏にさっき見た文面が、浮かび上がってきた。なにか言い返したいがここで口を利いては何を言い出すかわからない。黙って出て行こうとしたら、知佳子が呼び止めた。
「ごめんなさいは?」詩保のなかでなにかが切れた。
「私はお義母さんがちょっと洗面台に置いとけば、簡単に取れるものを取りにわざわざ2階まで来たんですよ。お義母さんがちゃんとしまっておきさえすれば、見るわけも無い日記を見たからって、なんで謝らなきゃならないんですか」
「おとうさん。ちょっと来てください。おとうさん。詩保さんはここにいるのよ。」義母は下に声を掛けると、洋服を着始めた。
 義父の忠義がむずかしい顔をして、やってきた。そのえらの張った顔に不釣合いに細い目は、いつも詩保を落ち着かない気分にさせた。忠義は一通り説明を聞くと、詩保に向き直った。
「詩保さんだって、悪いことをしたと思っているよなぁ」
「思ってません」
「それはいかんなぁ。間違いは誰にでもある。だが、反省しない人間に進歩は無いぞ」
「お義母さんは私の悪口をたくさん書いてたんですよ。もう信じられません」
「人の秘密をのぞいておいて、中身をあげつらうとは何事だ! おかあさん、日記を持ってらっしゃい」
「でも、恥ずかしいですよ。おとうさん」
「詩保さんのためだ」
 詩保は両手を合わせて、ぐっと握り締めた。今、言わなくては。また言いそびれる。
「そういうのが嫌なんです。偽善的で。自分のためになることなら、自分で探します。押し付けないで下さい。私、もう子供じゃないんです。28にもなる大人の女なんですよ。私の気持ちを考えてくれたこと、あるんですか?」
 義父母はしばらく沈黙した。やがて二人でうなづきあい、忠義が口を開いた。
「詩保さんが自分の気持ちを率直に話したことがあったかね?」
「だって私たちには私たちの生活のしかたがあるのは当然じゃないですか」
「だが、心配するわしらにこれこれこういう生活をすると説明したことは一度も無い。そうだろう?」
「確かにそうですね」詩保はしばらく考えた。
「私は確かに家事が苦手です。でも子供を大事にする気持ちだけは、お義母さんに負けません。手作りの品が少ないとか、ちょっとヒステリックに怒るというだけで、まるで中学生にでも教えるみたいにくどくど言われても聞けません。自分に出来ることはしています」
「よし、わかった。子供扱いはやめよう。おかあさん、日記をここへ」
 知佳子は日記を持って来た。忠義は読み始めた。
「なあ、詩保さん。ここに書いてあることをよく読んだか?」
「ざっとですが」
「今まで、詩保さんに言わなかったことがあったか?」
「え、あの」詩保は改めて考えた。そう言われれば、いつも受けている注意のような気がする。
「な? おかあさんはあんまりくどく文句を云わないように、言ったことは書き留めていたんだよ。それだけのことだ」詩保ははじめの勢いを失ってしまった。
「なら、そうおっしゃればいいじゃありませんか。なんでお義父さんを呼んだりするんですか?」
「そりゃー、こいつが不器用で、自分で説明しようとすればどんどんこじれるに決まってるからだよ。今日をもってこれは終わりにしよう」
 忠義は日記の表紙を詩保に示した。そこには「育児日記、詩保」と書かかれていた。