矢車通り~オリジナル小説~

はてなダイアリーから移行させました。

あなたを見つめて(2)20枚

 由莉葉は高校を出たら就職するつもりでいる。父親の遺族年金が出るのは由莉葉が18歳になるまでで、さ来年からは出ない。家計は一気に苦しくなるはずだ。母親は進学しても良いと言っているが、特に勉強を続けたいことがあるわけでもない。ここでアピールして就職出来れば幸運だし、そこまで行かなくともコネクションになるかも知れない。問題はそこまで強い動機のない、和子が受けてくれるかどうかだ。
「期間は二ヶ月、場所はマルトモの支店めぐり。四つのお店を二回づつって感じかな。家にも近いし日程さえ合えば、毎週仕事を取りに来るより楽だと思うわよ。カードとレポートを郵送してくれれば、お給料は銀行振込にできるしね」
 社員はカードの束を出した。四枚複写の一枚目、二枚目は販売員が持ち歩き、タイムカード代わりに使う。三枚目はメーカー提出用で、四枚目は元締め会社の控えとなる。土日で一枚、二人分だから、16枚の束だ。由莉葉はカードを受け取って、北浜田店が二回入っているのを確かめた。和子を見ると震えている。新しいことが始まるときは、いつも極度に緊張するのだ。
「私はやりたいのですが、一人では心細いので決めかねます。和子、どうする?」
「私はメーカーさんに期待していただけるような事をした覚えがないので、とまどっています。どんなことをすればいいんでしょうか?」
 社員は由莉葉と和子に待つように合図をすると、社員席の奥へ行った。由莉葉は和子の耳元に口を寄せた。
「クレームだったら、土曜日の件かなって見当がつくんだけどね」
「あれは知らないようね」
「和子の正直は美徳だと思うけど、今は黙っててね。就職の足がかりになるかもしれないんだから」
「あ、わかった。了解」
 社員は「主任」というプレートをつけた男性を連れてきた。由莉葉は(目上の人だ)と判断し、立ち上がった。和子も続いた。
「なるほどねぇ、いまどきねぇ」主任はつぶやきながら、二人に座るように合図した。
「今日の昼間、イケスーの担当さんが北浜田店に行ってね。売り場担当の、えっと、木島さん? その人が君たちを絶賛したらしい。高校生はむしろ突っ立ってるだけの子が多くて、不可にしようかと思ってたぐらいなんだそうで。この子たちなら絶対大丈夫、みたいに言うんだって。キャンペーンの予定は前からあったんだけど、人は決まってなくてさ。どう? やらない?」
「お仕事はしたいのですが、ご期待に添えるかどうか、とても自信がありません」和子が答えた。
「礼儀正しくて、根性あって、注意はよく聞くし、我慢強いし、明るくて積極的なんだと、木島さんは言ったらしいよ。昨日、おとといの君たちを見てそう思われたんだから、いつでもどこでも昨日、おとといみたいにやればいいってことだよ」由莉葉は『おととい』という言葉が出るたびに、手の平に汗がにじんできたがなんとか黙り通した。
「気軽にやってよ。たぶんメーカーさんは君たちが思うほどは期待してないって。長期に移行してそのまま就職って例もあるにはあるけど、そっちの方が例外だから」
由莉葉は少しがっかりしたが、木島の店に堂々と行けるのだから、よしにしようと思った。

 由莉葉は最初の頃、デモンストレーターの束縛の無さが好きだった。嫌なことがあっても二日我慢すれば、おしまい。嫌な店なら近寄らなければいいのだ。でも土日の度に家の近くでとなれば、狭い世界だ。他に仕事が無ければ、行きたくなくとも行くしかない。人間関係も思ったほど自由でもない。「マネキン」さんとは嫌でも顔なじみになるが、店に行ってみるまで誰が来ているかわからない。なまじ苦手な人がいると、行くまでわからないだけに「しまったー」と思う。
 町沢頼子は平日でも近所の薬局や、スーパーで見かけることがある。住んでいるところも近いらしいと思っていた。キャンペーンの初日、いきなり会った。由莉葉は覚悟を決めるため、頼子に日程を尋ねた。ぴったり同じだ。
マルトモさんが、店頭販売に力を入れてるのよ。でなきゃここまで重なるわけがない」頼子は豪快に笑った。
「今後ともよろしくお願いします。おばさん」由莉葉は先手を打つつもりで、あいさつした。頼子はたちまち目を吊り上げた。
「あんたたち、まだそんなことも知らなかったの! 困った子ねぇ。この業界じゃ、60だろうが、17だろうが、みんな『おねえさん』って呼ぶんだよ。覚えときな。それから、二人で来てるんだから、休憩は別々に取りな。遠足に来てるんじゃないだろう!」
頼子はどすどすと自分の売り場に行ってしまった。由莉葉は息を吐いて、はじめて自分が息を止めていたことに気がついた。これからずっと同じ店だと思うとうんざりした。

 四店目が北浜田店だった。前回のことを覚えていてもらえたのか、声をかけてくれるお客さんも多い。
「どう調子?」木島が通りかかった。
「おかげさまで上々です」由莉葉は全身がアンテナになったように、木島の声に敏感に反応した。「ご推薦いただいて、ありがとうございます。おかげさまで当分仕事に困りません」
「僕も君たちに会いたかったんだよ。引き受けてもらえて助かった。よろしく頼むよ」
 由莉葉は顔がほてってくるのを感じた。木島の方から「会いたい」と言ってくるとは思いもしなかった。(外交辞令よ)とわかりつつも、一度上った血はなかなか下がりそうにない。
「由莉葉、11時になったよ。今のうちにお昼に行ってきたら?」和子が助け舟を出す。
「さ、三番行かせていただきます」由莉葉は声を絞り出して、売り場をあとにした。
「あれ? 一緒に行かないの? え、そんなこと言われたの? へぇーそれで……」木島が和子と話している声がだんだん遠ざかる。木島が感心しているのが、声の調子から読み取れる。木島に認められている。由莉葉ははにかんで笑った。

 由莉葉は自分が木島のことを考える時間が、次第に増えていると意識した。由莉葉は和子といつも一緒に帰宅する。帰りの電車が北浜田に止まると、マルトモのビルを見上げる。国語のノートを取っているのに、手が「木島さん」と勝手に書いていることがある。由莉葉は今まで男性と付き合ったことがない。同級生の男の子はけんかばかりしてしまう。仕事を始める前は、休日に繁華街の下袋に出たりしていたが、声をかけられても付いて行ったことはない。素性のわからない人は困る。羽目をはずしたあとで、近所の人だったりしたら恥ずかしい。かといって知っている人はそもそも羽目をはずせないので、どうしても表面的なつきあいになる。
 由莉葉は中学に入ってから家事を分担していた。食事のしたくも、洗濯物の取り込みも、買い物も、ひとつひとつは30分から一時間で済むことだが、毎日やるとなると時間を取られる。学校に行ってアルバイトを始めたら、他のことをする時間はほとんどない。
 由莉葉は和子がうらやましいと思った。会社員の父親と専業主婦の母親と3歳違いの姉がいる四人家族。家のことなどする必要もない。和子はおどおどした外見とはうらはらに、芯に自信を秘めている。他人の顔色を読まないのは、それで困ったことが無いからだろう。「親の目が届かない子は何をするかわからない」とか、「やはり父親がいないと規範意識が薄い」とか、聞こえよがしに言われたり、言葉の意味がわからない同級生に無邪気に聞かれたり……。そういうことがないとあんなふうに育つのだろうか。由莉葉は自分でも武装しているかのように、回りを警戒していることは意識している。木島は由莉葉の自分を守ろうとする気持ちをゆるめてくれる。叩き潰すためではなく、わかろうとして近づいてくれる。由莉葉に対してだけではないけれど。
 数学の時間に腕のすきまから見えた、和子のノートの裏表紙が脳裏から離れない。木島の名前が細かい字で、いっぱい書いてあった。ことさら聞く必要もない。木島から見たら、二人とも「子供」なのだ。わかっているけど口には出さないこと。由莉葉と和子の間では「木島への好意」はそういうものになりつつあった。
 
 6回目のキャンペーンが終わったころ、和子が今日は一緒に帰れないと言ってきた。あと一週間で夏休みになる。和子の家では毎年おぼんに父方の実家に帰省するので、みやげものや洋服を調えるのだ。由莉葉は他に一緒に帰ってくれる人はいないかと探してみたが、普段決まっている人がいると急には見つからない。由莉葉はあきらめて下り電車に乗った。
 北浜田で降りてしまった。
 由莉葉は自分は女らしいところがないと思っていた。感情を上手にコントロールし、理性でものを言う。スケジュールどおりに事を進めるのを好み、何の話をしているのかはっきりさせる。最近はやりのストーカーの話を聞けば「相手にされていないのに、まとわりつくなんて愚か」と思っていた。今、自分がまさしく「愚か」にも、木島に一目会おうとしている。理性はやめようと言っているのに、足は勝手に動く。
 今日が定休日であることを思い出したのは、閉まったシャッターを見てからだった。でも、木島はいるかも知れない。店が休みでも用事があって出勤してくることはある。由莉葉は社員口に回ってみた。どの店でも目立たない裏手に社員用の入り口がある。北浜田店の場合は商品を積んだトラックが乗り入れる大きな搬入口の横に、アルミのドアがある。中に入って右手に社員用のタイムカードが置いてあったはずだ。赤が手前なら休み、青なら出勤だ。忘れ物をしたとかなんとか言って、そこにだけ入ればいるかどうかくらいはわかる。ここまで来たら確かめずに帰るものかと、由莉葉はドアのノブに手をかけた。何もしないのにノブが回った。あわてて近くのフォークリフトの陰に隠れた。
 木島が和子を伴って出てきた。由莉葉は突然足元に何も無くなったような気がした。立っていられずにへたりこんだ。目はコンクリートの地面を見ているし、体はちゃんとここにある。なのに、自分の存在が感じられない。和子が自分にうそをついて、木島に会いに来ているのが理解できない。正直の上に馬鹿がつく和子が、自分に何も言ってくれていないことが打撃だ。由莉葉は自分が和子を理解していると思っていたのは錯覚なのかと思い始めた。木島とは前からつきあっているのだろうか。由莉葉の気持ちは知らないのだろうか。わかりあっていると思っていたのはひとりよがりだったのだろうか。
「どこに行こうか?」木島が和子に微笑みかける。
「人目につきたくないので、ここでお願いします。由莉葉にうそついて来たんです。木島さんに交際を申し込まれたこと、由莉葉に知られたくないんです」
「どうして?」
「申し訳ないんですけど、私は木島さんより由莉葉のほうが大事なんです。詳しくは言いませんけど、こんなこと由莉葉に知られたら、絶交されちゃうかも知れません。どうか秘密にして下さい」木島は爆笑した。
「失礼、あんまりらしいもんだから、つい、いや、馬鹿にしてるわけじゃないんだけど、秘密って無理でしょう。由莉葉ちゃんが僕に好意を持ってくれてるのは知ってる……」
「知ってて呼び出したんですか。私、ものすごく悩んだんですよ。木島さんが私を呼び出したというだけで、由莉葉はきっと傷つくだろうと思って。どうしようか考えて。私たちの仲をかき回して面白いですか?」
「じゃあ、僕は君を好きになる権利は無いの? 由莉葉ちゃんが僕のことを好きだから? それは違うんじゃない? 僕は君が好きだよ。自分の気持ちに正直になってはいけないか?」
 和子は目を細めた。思い切ったことを言おうとしているのだ。手をしきりにスカートになすりつけている。この間会社で(クレームのことは黙っていて)と由莉葉が頼んだときに、しきりにした仕草だ。本心を隠して、和子はなにか言おうとしている。
「私は木島さんの気持ちより、由莉葉の気持ちのほうがずーっと大切です」
 由莉葉は家に帰ってから、母が帰るまでの一人の時間。この世のなにもかもが夢のような気がすることがあった。針で指の先を突く。血が出る。痛い。安心した。指が痛い間は、由莉葉は確かに存在している。今も自分の思うとおりにならなかったがために、和子と木島がそこにいることを強く意識した。和子は木島を断るつもりで来ている。それは由莉葉にとっては楽だ。木島が自分以外の人と仲良くしているところなんて見たくもない。木島の彼女と親友づきあいなんて出来ない。
 ふと気がついた。和子は由莉葉を同等と思っていないのだ。下に見ている。傷ついたら可哀想だから、かばってあげなくちゃというのが、和子の発想だ。ここで黙っていることは、由莉葉には出来ない。本当の馬鹿は自分のほうかもしれない、と意識しつつ、由莉葉は立ち上がった。プライドを頼りに。
 由莉葉を見て、和子はうろたえた。由莉葉の体が小刻みに揺れる。木島は由莉葉の目を見て、ゆっくりと話した。
「聞いてた? ショックだったんだね? まあ落ち着いて……」
由莉葉のゆれが止まると、和子は二歩下がって耳をふさいだ。
「ショックー? 頭来てんのよ、こっちは! 馬鹿にすんのもたいがいにしてよ。私には内緒だぁ! 子供じゃないんだから、失恋くらい自分で始末するわよ。私はもう知っちゃったんだから、もう、なぁんにも遠慮することないでしょ!」
 由莉葉はきびすを返して遠ざかろうとした。和子が付いて来た。振り向きざま由莉葉は和子を平手打ちした。
「うそつき!」木島は急いで和子をかばった。
「今日うそをついたのは……」
「そのことじゃないの。もう、わけもわかんないくせに、しゃしゃり出ないでよ。和子の数学のノートの話よ」
 和子の顔はみるみる赤くなった。
「木島さんの名前がね。表紙の裏にびっしり書いてあるのよ」
 ちょっと時間を置いて、木島は由莉葉が言わんとしていることを理解した。
 他人の口から告白なんて嫌だろうけど、このくらいの意地悪はかまいやしない。由莉葉はそっとその場を離れた。もう、和子も追っては来なかった。

 翌日から由莉葉は和子と別行動を取った。誰が悪いわけでもない。気持ちの整理がつかなかった。仕事も別々に出勤した。由莉葉はとにかく和子と会う時間を減らしたかった。今までまるで同じ屋根の下で暮らしているかのように近かっただけに、ちょっと距離を置いただけでずいぶんと離れたような気がした。
 夏休みに入った。約束しなければ、由莉葉は和子と顔を合わせることもない。今までは長期の休みにはどちらかの家に行く習慣があったので、急にどこへも行かなくなったような気がした。仕事の予定は北浜田店がキャンペーンの最終日だ。これが終わったらもう北浜田店の仕事だけは取りたくない。
 昼休みは和子が先に取った。入れ替わりに食堂へ行くと、帰り際の木島とすれ違った。今まで二人でいたのだと思うと胸が詰まった。とても一人で食事など出来ない。戻ろうとして、頼子が視界に入った。手招きしている。由莉葉は一人でなくなるなら、相手は誰でもいいと思った。頼子の前に座った。
「レモンのはちみつ漬けはどう? ビタミンCと糖分で疲労回復に効くよ。あ、こりゃ、イケスーの専属さんには余計なことだったかね」
「いえ、専属って言っても今日までなんです。次にはつながりませんでした」
「まーだ、若いんだからしょげなさんな。もっと経験を積んでからだよ」
「もう十分です」
「和子ちゃんと木島ちゃんのこと?」
由莉葉は驚いて頼子を見た。その名前が出るとは思っていなかった。
「なんでご存知なんですか?」
「木島ちゃんは度を越えて和子ちゃんにやさしいし、あんたは和子ちゃんとおしゃべりしないし、ちょっと前まで木島ちゃんばかり見ていたあんたは、木島ちゃんを見ようともしないし。ちょっとつきあいがあれば、図式は見当つくわよ」
「私、二人を見てるの、つらいです」
「うんうん、つらいね」
「ひとりになってしまって、さみしいんです」
「そうだね」
由莉葉はいつもとうってかわって穏やかな頼子の顔を見ているうちに、涙があふれてきた。
「ひとりは嫌。でも和子の顔を見ると、木島さんのことを思い出してつらい」
 由莉葉は一時間の休憩時間中のほとんどを泣き通した。我に帰って頼子に頭を下げた。
「すみません。これじゃ、おねえさんに泣かされてるみたいですね」
「誰にどう言われようと構わないよ。あたしは昔から評判悪いしね」
「ご存知なんですか?」言ってしまってから、あわてて由莉葉は口を押さえた。
「いいよ。くどくど説明しなくったって、あたしのことをわかってくれる人もいるからね。あんたにだっているだろう? そういう人は」頼子は笑った。由莉葉はうなづいた。
「さて、行こうか」
頼子に促されて、由莉葉は立ち上がった。
 売り場に戻ると和子がいた。由莉葉はまっすぐ和子の目を見て近づいて行った。目をそらさない由莉葉を見て、和子は笑顔をひろげていった。
「三番終わりましたー。午後もがんがん行こうね」
前のように声をかけると、和子は由莉葉を抱きしめた。