矢車通り~オリジナル小説~

はてなダイアリーから移行させました。

Experiment−実験−(改稿版)11枚

 ギリィはエアロックの前に立った。十五年の間使われたことのない内扉は、ゆっくり開こうとしている。ギリィは左後ろにいる人型ロボット、マームを振り返った。レンズの目。集音機仕様の耳。スピーカー型の口。玩具のような顔にはどこか愛嬌がある。
「ギリィのお父さんとお母さんが待ってらっしゃいます」マームは一週間前から何度も口にしているセリフを言った。
「わかっているよ。ぼくの精子卵子の提供者だろう? 男性は宇宙物理学の専門家で毅。女性は生物の専門家でミランダ」
 ギリィはすっと視線をそらした。それでいて背中をマームのわき腹にくっつけている。マームの外皮には人体と同じ弾力がある。ギリィは感触を確かめるようにぶつかっていく。マームはギリィの肩をそっと抱いた。
 ギリィは産まれる前から宇宙船で暮らしている。無社会状態が人間に及ぼす影響を調べるための被験体だ。西暦二千百××年。人類は恒星間旅行に乗り出すための準備を開始した。宇宙空間での生物実験が始まった。ギリィの船は実験期間が終了。火星近くの宇宙ステーションに回収されるところだ。船とステーションのドッキングは無事に終わった。船に未知の脅威がないことが確認されれば、ステーション側の外扉も開く。ギリィは初めて自分以外の人間に会うことになる。
 船側の内扉が開いた。ギリィが中に入ると内扉が閉まる。事故に備えるため内外両方は同時に開かないように設計されている。外扉が開き始める。扉の向こうには長いブリッジが見える。薄暗いオレンジの光が漏れている。向こうの様子がはっきりしてきた。三十メートル向こうで扉が開きかけているのが見える。扉の向こうに二人の人影が浮かび上がった。
「マーム、映像と違うような気がする」ギリィの声は少し震えている。
「立体と平面の違いです。毅とミランダの見分けはつきますか?」
「わかるよ。……よし、行こう」
 ギリィはあごを引いてしゃきっと立った。外扉も開いた。何度も練習した行進歩調で進む。向こうの二人も動きだした。ひょろっと背の高い毅は、ほおのこけた細長い顔をしている。頭ひとつ小さいミランダは長い髪を後ろでひとつに結び、四角張った顔に作りの小さな目鼻立ちだ。ギリィと同じ調子で歩いてくる。二人は互いの間隔を一メートルほど空けていた。真ん中あたりで二人は止まった。ギリィはそのまま進んだ。右手を振り上げて毅の右肩を叩こうとした。手は空を切りギリィはしりもちをついた。毅がよけたのだ。ギリィはなにか言おうとした。そのままギリィは気を失った。

 毅はあわてた。背こそ毅より低いが横幅は二倍もありそうなギリィが、いきなり暴力を振るおうとした。何の前触れもなく失神した。毅はギリィの顔をのぞきこんだ。目と口は自分に似ている。鼻と輪郭はミランダに似ている。毅は実験の総責任者で、ミランダは副責任者である。実験のために自分たちの細胞を提供しただけだ。毅とミランダは共同研究者というだけで、特に親しくもない。
「マーム。彼がギリィなんでしょ? どうして毅を叩こうとしたの?」ミランダは聞いた。
「ギリィは肩を叩いてあいさつをしようとしたのです」
「それにしちゃ、スピードがあったぞ。まともに当たったらあざが出来るくらいだった」
「私にあざは出来ません」マームの答えを聞いて毅は肩をすくめた。
「ギリィはどうして失神したの?」
「原因は不明です。いきなり倒れたことは一度もありません」
「どうする? ミランダ。 ステーションに運び込むか?」
「その前に生物の扱いに関して注意をしないといけないようだし……。今までの環境で問題が無かったのなら、とりあえず元に戻して様子を見たほうがいいと思うわ。生物学者の立場から言えば」
「その意見を支持する」
 二人はマームにギリィを連れて船に戻るように指図した。
 二時間後、船の内部とブリッジで異なっていた条件が割り出された。
「香りが原因でした」マームは分析結果を通信機のモニター越しに、毅とミランダに報告した。
「四十万以上もある匂い物質を、鼻は千程度の受容体で嗅ぎ分けています。匂いは複数の受容体によって感知され、その組み合わせで『何』の匂いなのかが判断されます。脳はそれまでに経験した履歴をもとに、匂いの種類を分類します。船の生活では人体の匂いを経験する機会はありませんでした。ギリィ自身の匂い以外は。お二人の匂いに初めて接して嗅覚が混乱し、逃れるために意識を遮断したのです」
「そんなに臭いか?」毅は苦笑した。無菌に近いステーション内では悪臭に悩むことは無いに等しい。
「嗅覚訓練のプログラムに人体が無かったのです。ギリィは自分の体臭は意識していません。毅あるいはミランダの個体としての臭気とは関連性がありません。未知の領域であったことが問題の本質です」
「それならマスクをしてもらえばすむわね?」
心理的なダメージがギリィにとっては大きいようです。ギリィは他者と遭遇したと同時に意識を失ったことに対して不審感を持っています。その、故意に気絶させられたのではないかと」
「不測の事態だったのよ」
「ギリィは予期出来ない事にぶつかったことはありません。十五年間ギリィ自身が引き起こす要素を除いて、刺激と反応は定型に保たれていました。Aのボタンを押せば、Aの動作が起こる状態です。Bの動作やCの動作が起きてくることはありませんでした。ギリィ自身のことはギリィ本人には予測できます」
「実験のデータは十分に集まっている。ギリィが船から出てこないなら廃棄処分を検討しよう」毅はミランダを見た。
「廃棄? 何を?」
「ギリィを」
「マーム、通信を切るわ」
 急いで操作を終えて、ミランダは毅をにらみつけた。
「ギリィも聞いているのよ!」
「問題をはっきりさせたほうがいいだろう?」

 船の内部ではギリィに対しての放送しか行われない。スピーカーは船内のいたるところに設置されており、全てがいきていた。ギリィには通信を聞かないという選択は出来ない。休憩室のベットの中でギリィは今の情報を分析した。実験は終了している。ステーションで暮らす決心をしなければ捨てられる。きわめて論理的だ。ここでこうしている間にも、この船で行われるはずの次の実験は遅れている。出て行かなくては……。ギリィにもそれは理解できる。だが、また急に目の前が暗くなったらと思うと気がすすまない。ギリィは考えていた。ブリッジにいたはずなのに、気がついたらベットの中にいた。今度は真空の海の中かも知れない。役目が終わった実験動物はどうなるのだろう。
「ギリィ?」マームが来た。
「解決方法がわかりました。マスクをしてここを出ましょう」
「出て……、どうすんの? 他の実験に差し出されるの? 廃棄されるの?」
「私はギリィのことは何でも知ってます。ステーションのことも知識があります。大丈夫です。ギリィはステーションでやっていけますよ。私が保証します。私が間違ったことがありますか?」
「間違える可能性のあることは言わないんじゃないか」
「ですから百パーセントの保証です」
 いつもならここで苦笑して、ギリィは次の段階に踏み出すことが出来る。しかし、今度ばかりはマームの言葉が信じられない。
「では、あの二人ともう一度話してみましょう」マームはギリィをうながして通信室に行った。
 マームはマイクのスイッチを入れた。モニターに二人の顔が映し出される。
「ギリィ、マームの二の腕をつかんで」ミランダが指図した。ギリィはミランダの言葉に従った。ミランダの言葉がまっすぐギリィに向かってくるような気がしたのだ。
「少しづつ力を入れてみて。そう、外皮がへこんだらストップ。いい? ギリィ? 人体を扱うときはそれ以上力を加えてはいけないの。痛いから。わかるわよね?」
「ぼくも痛い思いをすることはありますから。……理解できます」
「いいわよ。ギリィ」ミランダの顔に笑みがひろがった。
「あなたは毅を痛い目にあわせようとしたわけではないのに、毅に危害を加えそうになった。これはわかるわね? 私たちはあなたに危害を加えようとしたわけではないのに、私たちの香りがあなたを気絶させた。これもわかるわね? お互いに悪意はなかった。解決法もわかった。もう一度、出会いをやり直しましょう。いいでしょう?」
 ギリィはミランダを見た。そこに行けたら……。気まずい沈黙が過ぎていく。耳の奥から心臓の鼓動が響いてくる。鼓動は規則正しくリズムを刻み、やがて潮騒に変わった。何のイメージだったか。ギリィは懸命に思い出そうとした。地球の? 海? いや、人工子宮の中の羊水だ。鼻孔の奥に残るかすかな生臭さ。潮の香り。そこはギリィが帰れる場所だ。ギリィは声を絞り出した。
「はあ。あの……。実験が終わったから、ぼくは廃棄処分なんじゃないんですか?」今度は毅が笑いだした。
「ステーション自体が実験施設のようなものなんだ。おれもミランダも被験体でもあるんだよ。そう簡単には捨てられたくないな」
 ギリィは二人の顔をじっと見つめた。懐かしい顔のような気がしてきた。
「じゃあ、ブリッジで待っていてください。行きます」
 通信を切ってマームを振り返った。
「潮の香りはふるさとを連想させる演出?」
「私は何もしていません。そういう情報を与えたこともありません」
 ギリィはしばらく考えた。そして歩き出した。