矢車通り~オリジナル小説~

はてなダイアリーから移行させました。

もうひとつの「ハマナスの実、月の夢」(改稿版)11枚

 許可申請の手続きは十五分で終わる。三つある申請窓口は処理の速さゆえにいつも空いている。小田切はそのつもりで今日のスケジュールを組んでいた。午前中に品物を確かめる。午後三時に宇宙輸出局に出向き、提出してあった書類を受け取って帰る。そのあと輸出業者と値段の交渉をして、早ければ今週中には送れる。間に合う。
 ところが午後四時を回った時点で、小田切はまだ申請窓口から離れられずにいた。
ハマナスは果実なんです。日本地方の北海道地区では昔から食べられていました」
「『果実』の月への輸出許可品目の中に『ハマナス』は無いんです。私も規則通りにお断りしているだけです」
 小田切と受付係の女性は同じやりとりを繰り返していた。小田切の認識では『果実』でしかない。どうして通らないのか理解出来ない。
 小田切はカウンター越しに受付係を見た。背中まである長いブロンドの髪を三つ編みに束ね、枠無し眼鏡をかけたキツネ目の女性は、ベージュのスーツに包まれた細い体をまっすぐに伸ばしている。自信ありげな姿勢を崩さない。これ以上粘っても小田切に勝ち目があるとは思えなかった。最後に何か手段は無いだろうか。小田切はアプローチを変えてみた。
ハマナスが『果実』として認められていない理由を教えてください」
 女性は黙って手元のキーボードを叩いた。ディスプレイをのぞきこむ。
「くだものの内部は種子が一番内側になってます。めしべの子房の壁が変化して、内果皮、中果皮、外果皮になります。果皮の部分に栄養がたまったものを果実というのです。ハマナスは子房の回りの果皮の部分はほんの少ししかありません。いわゆる痩果と呼ばれるものです。実のような部分は花托といわれる部分です。子房以外の部分が食べられるようになっているものを偽果というんだそうです。この宇宙輸出局では偽果と果実は別のものです」
 専門用語を並べられて小田切は戸惑った。右手でこめかみを押さえて考え込む。
「では『偽果』ではどうでしょう? ありませんか?」
 女性の唇が少しほころんだ。ようやく答を見つけた生徒を見る先生のようだ。

 その女性、イレーヌもうんざりしていた。オールバックの黒髪を乱し、馬のような顔を振り回して、目を血走らせている男、小田切の顔を見る。体格は中肉中背なのだが、意気消沈しているせいか濃紺のスーツ姿が小さく見える。窓口は五時に閉まる。もう他には誰もいない。すばやく手続きを済ませて帰って欲しい。プライベートタイムには友人と食事の約束がある。だが、ここでイレーヌがリードしたら「職業上知り得た情報を漏らしてはならない」とされている公務員規定にひっかかる。小田切のほうから要請を出してもらわなくてはならない。要求があれば「全ての市民は公務についての情報を得ることが出来る」とされている「情報開示の規定」を当てはめられる。
 月に町が出来て十五年、町はどんどん大きくなり人口が増えている。品物はいつも不足がちで、月への輸出品は時折、爆発的な売れ行きを見せる。かつて地球で「アメリカン・ドリーム」と言われた状況が月で再現されていた。当たる商品を送り込むことが出来れば億万長者だ。
「検索してみます」
 イレーヌは小田切に向かって穏やかに話しかけながらディスプレイを見た。リンゴやイチゴは偽果である。そして登録してありさえすれば、果実か偽果かは問題はではない。ハマナスだって登録してあるはずだ。
 初期のころは無審査で通されていた輸出申請が、五年の月日を要するようになったのには事情がある。「食品」とされていた品物に重大な薬効があり、体の不調を訴える人が大勢出た。全ての品物は生体シュミレーターの一通りの検査を受ける義務が生じた。重力が六分の一など地球上とはまた違うシチュエーションで行われるそれは、膨大な時間を必要とした。たいがいの品物は輸出したいときにすぐに出来るように申請が無くても検査されている。
 無かった。知名度が低いのかもしれない。
「ありませんでした」イレーヌの言葉に小田切は肩を落とした。
「今から検査の申し込みをしたら、どのくらいで通りますでしょうか?」
「認可されるまでに五年かかります」
「それでは間に合わないので……。ありがとうございました」
 小田切は頭を下げて帰って行った。あの様子では明日も来るのは確実だ。また同じやりとりを繰り返すのは気が重い。
 小田切の後ろ姿を見送ってから、ハマナスを輸出したい理由をもう一度読んだ。
ハマナスはビタミンCが豊富で壊血病に効果がある』
 ビタミンの話ならイレーヌも知っている。ゴールド・ラッシュのときのアメリカ地方だ。市民として一通りの知識はある。人が増えるのにろくな食べ物が無かった。特にビタミン不足は深刻で病気が蔓延した。当時はレモンがもてはやされたようだ。ハマナスにはその二十倍のCがはいっている。
 やれやれ、時代錯誤もいいところだ。今は二十三世紀。ビタミンCなど必要なら合成すれば良い。
 月への輸出はやりやすくなったとはいえ、地球上の移動に比べたらまだまだ高い。一キログラムの品物を送るのに一カ月分の給料がとぶ。せめて二割増の値段で売れるものでなければ、赤字を背負い込むだけだ。イレーヌはハマナスの項目を呼び出してみた。データがあるということは検査はされているのだ。あとはどんな項目で申請すれば通るのかが鍵になる。ハマナスの値段を確かめた。月では地球上の二十五倍近い値段になるだろう。客がつくとは思えない。
 イレーヌは理由を最後まで読んだ。月へは商業輸出しか認められていない。申請理由もそれにふさわしいものが並んでいた。だが最後の一行を見て眉をひそめた。小田切の真意をただして、場合によっては申請を取り下げるように働きかけよう。小田切の滞在場所と旅行日程を見た。今夜の予定を変更するために携帯端末からスケジューラーを呼び出した。

 町は宇宙輸出局を中心に発展していた。放射状の町並みは区画ごとに用途が分類されている。働くところ、住むところ、子供が遊ぶところ、そして大人が遊ぶところ。その場末の酒場で小田切は飲んだくれていた。十坪程度のその店はカウンターと三組の四人席しかない。小田切はカウンターの隅で目立たないように水割りを飲んでいた。まだ二、三日の余裕はある。だがハマナスの許可を取るのは途方もなく難しいことのように思われた。とりあえず、今日はそのことを忘れて眠りたい。そのつもりで酒をあおっているのだが、飲めば飲むほどハマナスのことが心に浮かぶ。
 隣にすとんと女性が腰を下ろした。さっきの受付係だ。小田切は嫌な気分になった。目の前にある壁は事実上彼女なのだ。よくも顔を出せたものだ。
「どうしてここが?」
「旅行者用のガイドブックに『一人でも安心して飲める店』って紹介してあるでしょう? 初めての申請者はたいがいここにいるわ。申請理由の『先祖に捧げる』ってどういう意味?」
 小田切は舌打ちをした。重要な理由なので正直に書いてしまったが、全くその習慣を知らない人間にわからせるのは難しい。
「向こうにな」小田切は話し出した。
「俺の弟の一家がいるんだ。日本地方には『お盆』っていう風習があって、八月の半ばに先祖の霊が戻ってくるって言い伝えがあるんだよ。たき火して食べ物を用意して待つのさ。俺の地方では大切なお供えなんだ。ハマナスが」
「あなたね」イレーヌは一度言葉を切って、小田切の目を見た。まっすぐに。
「地球の風習を月に持ち込むのがいいことだとでも思っているの? まして一地方の。揉め事の種になるだけよ。私の姉も行っているけどクリスマスのミンツパイだって我慢しているわ。二カ月前に月でキリスト教徒とイスラム教徒が争ってから、特に宗教がらみには神経質になっているのを知らないの?」
 小田切はイレーヌの視線を見返した。利益にならないと承知で輸出するからには、それ相応の覚悟がある。
「弟を可愛がってたじいさんが先週亡くなったんで、向こうでお迎えさせてやろうと思ったのさ。弟だって首を長くして待っているんだ。死んだ人間のことを考える習慣は宗教とは違う。死んだ人間だって誰かになにか残せるんだ。生きている人間が忘れなければ!」
「同じ宗旨を持たない他者を排除してしまうでしょう? 月での風習は一から向こうで作ってもらわなくては。こちらから持ち込むのは思想の押しつけ。そして、また争いが起こるのよ」
 小田切もイレーヌも声が大きくなっていた。小田切はトーンを落として言葉を置いた。
「産まれ育った環境で培われたものは、いつまでも自分の中に残るだろう? 月で育つ子供たちには死んだひとを思い出すような人間に育って欲しい。俺はそう考えている。思想や宗教じゃなくて、もっとこう……」小田切は右手でこめかみを押さえた。首を横に振る。
「なんて言えばいいのか、わからない」
 イレーヌは黙った。小田切が言わんとしていることをよく考えた。唇をきゅっと結んだ。やがてため息をついた。
ハマナスはローズ・ルゴサもしくはジャパニーズ・ローズと呼ばれるバラの一種なのは知ってる?」
「いや」
「同じバラ科のドック・ローズの実は、乾燥させて保存しておくの。イギリス地方の習慣なんだけど。私の故郷のね。それをお茶の原料にするの」イレーヌは立ち去った。
 小田切は考えた。どこかに道はあったのだ。
 ホテルに戻って必死で調べた。バラの実が何に使われているのかをつきとめた。
 翌日、小田切は宇宙輸出局に行った。申請窓口にイレーヌが座っていた。小田切を見てイレーヌの顔は夏の太陽のように輝いた。小田切は背筋をのばしてイレーヌに張りのある声を届けた。
「お願いします。『ハーブ』でハマナスを」