矢車通り~オリジナル小説~

はてなダイアリーから移行させました。

思い出を聴かせてください(1)24枚

     一

 門の前に立った木之下文絵は深呼吸をして、『PUSH』と刻印された横長の黒いボタンを押した。背中は日差しを受けてほんのりとぬくもり、頭の上から桜の花びらが舞い落ちる。
 インターフォンの丸いくぼみから受話器をはずす軽い音がした。
「いらない!」
 よく通るしわがれた声が聞こえてきた。一言で用は足りるとばかりに沈黙があとに続く。
 インターフォンの上部にはまった黒いプラスチックの向こうに、防犯カメラとおぼしき魚眼がかすかに見える。文絵は顔を近づけてとっておきの営業スマイルで微笑んだ。
 これでショート・ボブでちょっと寄り目の四十女の角張った顔が、向こうからはっきり確認出来るはずだ。子供に言って聞かせる要領で、言葉をそっと置きながら話しかけた。
「あの、乾絹子さんはご在宅でしょうか? メモリーインタビューサービスの木之下文絵です」
「買わない!」
 声の主のにべもない返事に、文絵はムッとして唇を結んだ。今、応対しているのがたぶん『気難しいお姑さん』と昨日電話で聞いた絹子だろう。予想以上の頑なさにあたって文絵は唇を舐めた。絞り合わせた両手の中で、ヒクヒクと動く血管の感触が指先に伝わってくる。分厚い手のひらがじっとりと湿ってきた。
 咳払いが左のほうから聞こえてきた。あごを引いて音がしたほうをうかがった。
 エプロンをつけた白髪頭の女性が文絵の後ろを通っていく。目で追うとパンパンに膨らんだ半透明のビニールのゴミ袋を両手に下げた女性は、通りすぎたあとも文絵のほうをちらちらと振り返った。
 視線を向けた先からランドセルを背負った子供たちが一列に並んで歩いてきた。最後尾にPTAと書かれた黄色い腕章をつけた女性が続き、文絵をじろじろと見ている。
 不審人物としてご近所の評判になる前にこんな状態から抜け出したい。
 文絵は素早くインターフォンに向き直った。
「あの、お電話をいただいて来たんですが」
「知らない!」
 三度目の拒絶を聞いて文絵は天を仰いで宙をにらんだ。話が通じていないのではない。昨日、電話で依頼主の嫁・乾はるみと打ち合わせをしてあるのに、この家の人間であるはずの応対している声の主が今日の予定を知らないわけがない。どういうわけかは知らないが、声の主は文絵を追い立てるつもりなのだ。
 インタビューを始める前に追い返されては仕事にならない。文絵は声を張り上げた。
「あの、乾はるみさまからご用命いただいておりまして!」
「そいつなら――死んだよ」
 声がこころもち高くなり、笑いが含まれた感じがした。
「え?」
 過激な言葉にとまどった文絵が視線をさまよわせていると、玄関の扉がいきおいよく開いた。背筋をピンと伸ばした割烹着姿の女性が、ノブに右手をかけたまま真剣な顔で文絵をまっすぐに見た。
「どうぞ、お入りください。私がはるみです」
 はるみが細い体を扉に寄せて家の中に続く通り道を作ったのを見て、文絵は門扉を押し開けた。桜の木の脇を抜けて石畳を玄関先まで走った。転びそうになりながら玄関に飛び込んで顔を上げた。
 ショッキングピンクがあった。
 外と変わらない明るい日差しの中に、どぎついピンクのとさかを生やした年配の女性がいた。黒い皮のジャンパーとパンツを身につけて、腰に手を当ててふんぞりかえっている。乾絹子は八十二歳と聞いていたが、とてもそんな歳とは思えない。まだ五十代でも通用しそうだ。が、胸や脇に細いチェーンが飾られた上着から出る首筋や手首には、骨張ったすじか浮き上がっていた。
 年配の女性は紫のアイシャドウをつけた大きな目を半ばまで閉じて文絵を見くだしている。真っ赤に塗られた薄い唇の真ん中が持ち上げられて、唇の下に梅干し模様が出来ていた。
「あたしゃ承知してないよ。とっととお帰り」
 吹き抜けになった玄関に鋭い声が響いた。
「ちゃんと、お話、したじゃ、ありませんか。お義母さん(おかあさん)」
 一語一語区切られた低い声を聞いて振り返ると、扉を閉めたはるみが小刻みに震えながら立っていた。
 沸き上がる怒りを押さえるのに必死なのだろう。薄い下唇を噛みしめた上唇からは白い歯が少し覗き、小さいが高い鼻は荒い呼吸につれてひくひくと動いていた。細い眉はひそめられ、大きな目はさらに見開かれて絹子を見つめていた。
 文絵は二、三歩下がって二人が同時に見えるところに立った。二人の顔を交互にながめながら、すうっと息を吸い込んだ。
「私が」
 文絵が声を出すとはるみは我に返ったように口を手で押さえ、絹子は文絵をジロリと睨みつけた。
「承りましたところによりますと、絹子さんの『自分史』を、絹子さんの誕生日にプレゼントしたいと」
 文絵はいったん言葉を切った。プレゼントをしようとしている人のことを、絹子自身に思い出してもらいたい。タイミングを図るために絹子としばらく見つめ合った。絹子がちょっと目を逸らしたのを機に、文絵は声を張り上げた。
「お孫さんたちが」
 絹子の眉毛が片方上がった。口元がほんの少し緩んだ。
「おっしゃったそうなんですが」
 戻ってきた絹子の視線をまっすぐに受け止めたまま言葉を待つ。絹子が孫を可愛いと少しでも思っていたら譲ってくれるかも知れない。
 絹子は腰に当てた手をはずしてあごを引き、咳払いをして口を開いた。
「六十年前に結婚して、ずっと専業主婦だ。おわり」
「何か面白いことがありませんでしたか?」
 文絵は紺のスーツの胸ポケットをちょっとつまみICレコーダーのスイッチを入れた。
 鮮明な音声が録れることは期待できないが、あとで原稿をまとめるときに記憶を引っ張り出す手がかりになってくれさえすればいい。本来は先方の許可を取って使うものだが、文絵ひとりで聞くぶんには黙って録っても問題ない。
「今やってることが一番面白い。過ぎたことなんかどうでもいい」
「何をなさっているんですか?」
「疾風怒濤紅蓮組合って知ってるか?」
「歌手でしたっけ?」
「あたしがあんたぐらいの歳だった頃デビューしたダンスユニットだ。三年前に再結成したんだ」
 とすると四十年前という計算になる。その頃、十代だったとしても今は六十歳に近いはずだ。文絵はおぼろげにしか覚えていなかった。見てみたいような、見たくないような妙な気持ちになったが、顔は笑みを絶やさずしれっと質問を続けた。
「そうなんですかあ。で、その組合の?」
「ファンクラブに入っててな。今夜も会合があるんだ」
「何時にお出かけなんですか?」
「五時に近所の友だちが迎えに来る」
「では、その時間まで居てもいいですか?」
「三時から昼寝の予定だ」
「では、三時までということで」
 文絵は右手を持ち上げた。ワイシャツの袖口をちょっとつまんで腕時計の文字盤を確かめる。今からなら七時間取れる。プロフィールなどははるみから聞けるはずだし、絹子がぽつりぽつりとでも話をしてくれれば、依頼された枚数の自分史は作れるだろう。文絵は自分にうなずいた。
 絹子はのろのろと肩をすくめた。
「じゃあ、出よう」
 絹子は男物のこげ茶のサンダルを突っかけて、白っぽい敷石の三和土に降りた。はるみが入れ代わるように上がり框に寄った。
 絹子は造りつけられた背の高い下駄箱の扉を開き、黒い皮のブーツを取り出した。
「どこに行くんですか?」
「そうだな。カラオケボックスでもいいし、どこぞの公園でもいい。声高にしゃべってても誰にも聞かれないところだ。――うちじゃ耳をそばだてる奴がいるからな」
 はるみの顔がみるみる青ざめた。何か言いたげに口を開いたが、すぐに閉じてしまった。絹子から視線をはずして文絵に移した。
 文絵はとっさにはるみにかける言葉がみつからず、代わりに深々と頭を下げた。
 同じ調子でお辞儀を返してきたはるみは、絹子にも軽く頭を下げると広い玄関ホールに上がって奥のドアに入っていった。
 上がり框に座った絹子はブーツに足を詰め込み始めた。
「あんたは依頼人の秘密を守る義務があるんだろ?」
「はい。ですが、秘密の話をうかがいたいわけではないので、書けないことはなるべく言わないでくださるとありがたいんですが」
「うっかり言ってしまったらどうするんだ?」
「そういうときは『今のはオフレコだ』って言ってくださればわかります」
「オ? オフ、レコ?」
「オフ・ザ・レコーディングの略で記録しないという意味です」
 絹子はブーツを履く手を止めて、皮のジャンパーのポケットから小さなメモ用紙を取り出し何事か書きつけた。
「なんですか?」
 はしたないと思いつつ、文絵は上から覗き込んだ。
「知らない言葉を聞いたらメモしておくんだ。テレビやラジオを聞いてて意味がわからないとイライラするから、知らない言葉は少ないほうがいい」
「はあ。勉強家なんですね」
「もの覚えが悪いだけだ。あ、今のメモの話はオフレコだ」
「はい、わかりました」
「よしよし、これで好きなだけ言いたいことが言えるな」
 だから――書けないことは言わないで欲しい、と言おうと絹子を見ると口を手で押さえて、いたずらっぽく笑っていた。わざと文絵が嫌がる言い方を選んでいるらしい。
 今日は一日お愛想笑いをしていなくてはならないだろう、と内心ため息をつきながら絹子に笑い返した。
 底意地が悪くてもお客はお客だ。仕事でのインタビューは個人的な好悪とは関係ない。お客を選ぶ余裕など事務所にも文絵にもない。
『無批判で相手の話を聞く』
 先輩に伝授されたインタビューの心得を思い出して気持ちを引き締めた。

     二

 絹子が右を見たまま道の途中で足を止めた。文絵の頭越しに向けられた視線をたどると、こじんまりした駐車場の奥に、ランドセルを背負った子供が何人かと黄色い腕章をつけた白髪頭の老婆がいた。
 文絵の住む地域では通学班という制度は無くなってしまったが、ここではまだやっているらしい。班の子供が揃わなくて待っているのだろう。
 子供たちはぽつんと一台ある乗用車によじ登ったり、顔を見合わせて言葉を交わしながら、敷かれた砂利の石を拾って交代で投げている。どうやら投げる距離を競っているらしく、一番背の高い子が投げた石は道にまで転がってきた。
 もし、ここにいるのが子供たちと文絵だけなら一言注意するところだが、今は仕事中だし子供たちには保護者がついている。保護者が何も言わないのなら黙って通りすぎておくのが処世術というもの。文絵は絹子のほうへ視線を戻そうとしたとき、石が絹子の足元に転がっていった。
「やめろ! くそガキ!」
 突然の大声に文絵の鼓膜がジーンと震えて耳が痛くなる。耳を押さえてうずくまる文絵の脇を抜けて、駐車場を囲む金網のフェンスの切れ目から絹子は中に入っていった。手を頭上に掲げて大きく交差させバッテン印を作っている。
 子供たちの動きがピタっと止まった。
「なんだい!」
 灰色がかった緑のカーディガンを羽織った老婆が絹子を睨みつけた。しわだらけの丸い顔の頬を紅潮させ、直角に曲がった腰を伸ばして頭をできるだけ反らそうとしていた。
「うちの駐車場で、うちのひ孫が遊んでて何が悪いんだ」
「あんたんとこの車じゃないだろ。これは」
「当たり前だ。車に傷をつけたら修理が大変じゃないか。うちので遊ばせるかい」
「よそんちのならいいのか!」
「修理費を出すのがうちじゃなきゃどうでもいい」
「ああ、思い出したよ。あんたは八重かぶりってあだ名だったな。面の皮が八枚あるんだ」
「八重子の八重は八重桜だ。それに厚顔無恥なのはあんたのほうだろ。少しは歳相応な格好をしたらどうなんだ。なんだよ、その、どぎついピンクの頭は。まったく、あんたが同級生だなんて情けない!」
 文絵は耳に自信があるが、今の言葉だけは聞き損なったかと思った。黒い皮のジャンパーとパンツなどという絹子の格好は特別なのだとわかってはいるが、並んでいるところを見ると八重子が二十歳くらい老けている。とても同世代とは思えない。
 思いがけない展開にどきどきしながら、少しでも鮮明な音声を拾おうと文絵は絹子のそばに寄った。
 文絵が見守っていると八重子と絹子は子供たちを挟んでにらみ合った。
「車によじ登ったら車はどうなる? 投げた石が誰かに当たったらどうなる?」
 びしびしと容赦なく絹子は子供たちに言い放った。子供たちはお互いに手をつなぎ、そそくさと八重子の後ろに集合した。一番背の高い子供だけがひとり残っている。
 何が起きているのかわからないのか、小さい子供が石を拾った。まわりの子供があわてて捨てさせる。
 自分が怒られているわけはない文絵ですら、怒りのシャワーを浴びて体ががたがたと震えだした。こんな勢いで質されたら、大人でも泣きだすのではなかろうか。
「傷をつけたら修理が大変なんだとさ。どう思う?」
 ひとり残った子供に絹子はなお詰め寄った。子供は絹子を決して見るまいと心に決めているかのように、違うほうばかりに目をやる。手を後ろにまわして体をふらふらさせ、足元の砂利を運動靴の爪先でこじる。
 絹子の声が聞こえているのかいないのか、その様子からは判別がつかなかった。絹子は子供のほうに歩きだした。
「来たよ」
 八重子が子供に静かに知らせた。子供はパッと顔を上げた。絹子には視線を合わせず絹子の後ろのほうに目を向けた。文絵が首を巡らせてみると、駐車場の入り口に小さな子供の姿が見えた。
「おい!」
 背の高い子が声を掛けると、それを合図に子供たちが一斉に走り出した。
「くそばばあ!」
 子供は絹子の脇を通り抜けながら言葉だけ投げつけて振り向きもせず走って行く。年少の子供たちはそそくさとあとに続いた。
 子供の捨てぜりふには反応せず、絹子は八重子のほうへ体を向けた。
「ちゃんと叱ってやれよ」
 八重子は絹子をちらっと見たが何も言わずに子供たちのあとを追いかけていった。

     三

 空を見上げると半分に切り取られていた。視界を遮っているのは小高い丘のてっぺんの縁で、木製の階段をあと数十段登れば頂上にたどりつける。
 どうやらそこに公園があるらしいが、平日の朝にやってくる人はいないだろう。ベビーカーは入れないし、足腰が弱った人間は行けない。なんのための公園か。声高にしゃべってても誰にも聞かれないところという条件にはぴったりだが。
 前を歩く絹子の左足が持ち上げられて右足と同じ段に着地した。今度は右足を一段上げる。また左足を持ち上げて右足と同じ段にのせる。
 登り始めたころは着実すぎて年寄りくさいと思ったものだが、何段も登って足を持ち上げるのがおっくうになってくると、ペースを崩さない絹子の歩き方は慣れた人間特有の知恵だとわかる。
 額の汗をタオルハンカチでぬぐいながら、文絵は絹子に遅れないように足を動かした。ひざがかくかくして力が入らない。息が乱れてまともに呼吸が出来なかった。
「もうすぐだからな」
 絹子が振り向いて平地を歩いているのと同じ調子で文絵に話しかけてくる。
「は、はい。いや、もう、こんな、階段で、息切れするなんて、私もトシですね」
「なに言ってんだ。あたしの半分だろうが。あんたがトシならあたしはミイラだぞ」
 笑っていいものかどうか、今ひとつ文絵には判断がつかない冗談を交えながら、絹子は快活にしゃべった。
 一段一段足を引きずりながら登り、ようやく最後の段を上がり終えた。
 木製の階段を登りきったところに『駅へ 三キロ』と書かれた矢印形の道標が立っていて文絵を迎えてくれた。
 視界を遮るものは何もなかった。今、文絵が立っている場所より高いところが無い。文絵は深く息を吸い込んで、じっくりあたりを見回した。
 頂上の円形の広場には雑草が生え始め、土と草のまだら模様を作っている。円の外側に向かって三人掛けの丸太のベンチが置かれ六脚で円形を作っていた。絹子は入り口から一番離れたベンチまで歩いて行きドカッと腰を下ろした。
 絹子のすぐ隣に文絵も滑り込んで腰掛ける。かすかな風が頬をなでて、ほてった肌を冷やしてくれた。町を一望するための公園なんだと納得しながら景色に目をやった。
 絹子の町が眼下に広がっていた。四つの低い山に囲まれた絹子の町は小さな駅を中心にして大きな看板を出した店が連なり、取り囲むようにして住宅街がある。十文字の谷の一方には都心の高層ビル群が見え、そちらのほうから線路が続いて谷を抜けていく。まっすぐ谷を抜けた向こうには山並みが見えていた。線路に直角に交わる谷間の片側には、高い建物が建ち並ぶ町があった。
 絹子の町のいたるところにピンク色の固まりが点在していた。
「桜が多いんですね」
 文絵は話をする手がかりをつかもうと水を向けた。絹子はたいして面白くもなさそうに背もたれに身を預けて、目立ったところのない町を見下ろした。
「ここいらじゃ家を建てたら植える習慣があるからな。つまんない町だ」
 絹子の家はこのあたりでは旧家で親戚が固まって住んでいるはずだ。本当につまらないと思っているのか、身内みたいなものだから謙遜しているのか判断がつかず、文絵はとりあえず無難な反応を選んだ。
「のんびりした、いい感じの町じゃないですか」
「住んでみればそんなにのんきでもないさ。なあ、あっちの町だが」
 絹子は高い建物が並ぶ隣の町を指さした。
「都心からの距離はたいして違わないのに、あの町はあんなに大きく発展して、この町は最近まで駅もなかった。なんでだと思う?」
「さあ、わかりません」
「この町に鉄道が通ることを住民が反対したんだ」
「なぜ?」
「洗濯物が汚れるって言って嫌がったのさ」
「は?」
「陸蒸気は煙を吐くだろう? 農作物にかかるのも心配だったらしい。あたしの母さんから聞いた話だ」
 文絵は眉をひそめながら少し考えた。どこか話がずれている。
「あの、この町に駅が出来たのはいつごろのことですか?」
「五十年くらい前だったかな」
「あ、なるほど、わかりました」
 最近がいつごろなのかの感覚がずれていた。そんなに時間が経っているのなら、こちらとあちらの発展の違いは鉄道の有無だけではないはずだと言おうかと思ったとたん、先輩の言葉が脳裏に蘇った。
『語られた言葉を素直に聞く。で、いっさい批判を加えないで原稿にする。あなたが書くのはお客さんの周辺のひとだけが読む個人的なものなんだから、週刊誌の記事みたいな社会的な批判はいらない。ありのままを見て書くんだよ』
 制作者の主観や思い込みも含めて『自分史』となる。絹子が母親の思い出として語ったのだから、そのまま思い出として書けばいい。事実がどうだったかなんて、絹子にとっても絹子の孫にとっても、どうでもいいことだ。
 絹子の町を眺めながら、谷を走る蒸気機関車を想像してみた。文絵にとっては微笑ましい光景だけれど、鉄道を拒否した住民の気持ちもわかる。文絵だって洗濯物の横でたき火をされたらたまらない。
 汗が引いてくると、肌寒い感じがした。肩や顔に当たる日の温かさに気持ちよさを覚えながら、しばらくぼんやりと景色を眺めた。
 さて、他にはどんな話を聞こうかと絹子のほうへ向き直る。絹子は目を閉じて頭を垂れ背もたれに寄り掛かっていた。規則正しい呼吸音が聞こえてくる。
 眠ってしまった? 文絵は肩をゆすろうと手を伸ばしかけて止めた。
 こんなところで眠っていては風邪をひく。かと言って寝入りばなを起こして不機嫌になられてはやっかいだ。
 はるみの指示を仰ごうとジャケットのポケットから携帯電話を取り出した。