矢車通り~オリジナル小説~

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思い出を聴かせてください(2)26枚

     四

「木之下さん」
 電話帳を呼び出していると後ろから声がかかった。
 振り向くとはるみが両手に紙袋をぶら下げて歩いてきていた。さきほどの怒っていたときの声とはずいぶん違う、高く澄んだ声だった。
 後ろにひとつでまとめていた長い髪は下ろされ、ファンデーションと口紅だけの簡単な化粧をしている。焦げ茶色のざっくり編み込んだセーターと同系色の長いタイトスカートを着て茶色のスニーカーを履いて歩いてくる。肩が大きく上下していた。
 割烹着を脱いでちょっと身支度しただけで文絵たちを追いかけてきたのだろう。こんな格好でこんな大荷物を持って、あの木製の階段を登るのはたいへんだったに違いない。
 何をしに来たんだろう。文絵の中で持ち前の好奇心が頭をもたげてきた。
 もし『耳をそばだてる奴がいる』なんて当てこすりを姑に言われたら、文絵は自分のほうから姑に近寄ったりはしない。
 はるみは文絵に目礼しながらベンチの向こう側に回り込んだ。紙袋から毛布を出して絹子に着せ掛ける。絹子は深い眠りに入ってしまったのかピクリともしない。はるみは文絵にうなずきかけて隣のベンチへ向かった。ベンチの端に腰かけて、広く空いているほうの脇に紙袋を置いた。
 文絵は絹子を起こさないようにそっとベンチから立ち上がり、はるみの隣に紙袋を挟んで腰かけた。
「お手間を取らせて申し訳ありません」
 小声で謝りながら、はるみは絹子のほうへちらっと視線を走らせた。
「いえ、私は構いませんけど、あの、どうしてここが?」
「お義母さんのお気に入りの場所ですから」
「どうして毛布を?」
「お義母さんはもうあまり長く起きてらっしゃらないんです。何時間か起きているとお昼寝をして、また起きてというようなリズムでして。今朝は四時に起きてらしたようなので、そろそろおやすみになるころだと思いました。きっとインタビューが楽しみで起きてしまったんでしょう」
 楽しみ? はるみの言葉に文絵は素直にはうなずけなかった。門前払いを食いそうになったのだ。
『ひとの心はブラックボックス。こちらから与えた刺激がどんな反応になって返ってくるかはひとそれぞれ。刺激に対する反応を見て相手を知るんだ。全員違うひとなんだから取材に行くたびにスタートラインに立ったと思って、相手の言葉を素直に聞くんだよ』
 自動的に先輩の言葉が浮かんでくる。お客さんに対して批判的になったときには思い出す。しょっちゅう思い出してるなと心の中で苦笑した。
 その点、はるみは立派だ。絹子が四時に起きたことを知っているということは、やはり、はるみも起きていたはずだ。様子を気にかけた結果が『耳をそばだてる』では浮かばれないだろうに、まるで公務をしているみたいにはるみは絹子に尽くすのを止めない。ご苦労さまと言いたくなって文絵ははるみに笑いかけた。
「昼間はだいたい三十分くらいで起きてらっしゃいますので、お待ちいただけますでしょうか?」
「あ、私のことでしたらお構いなく。自分史の代筆のご注文は年配のかたからいただくことが多いので、年配のかたのペースに合わせるのは慣れてます。今日一日、のんびりおつきあいさせていただきます」
 にっこり笑って文絵は請け合った。はるみがしている苦労を思えば、一日だけのつきあいなんてたかが知れている。この先絹子が何をしようと落ち着いて対応しようと心に決めた。
「よろしくお願いします。あの、それで」
「なんですか?」
 はるみが言いにくそうに言葉を切ったのを見て、文絵ははるみに出来るだけ近寄って小さな声で聞いた。
「お義母さんがこんな格好を始めた訳を聞き出してもらえませんでしょうか? 私がうかがっても『あたしの勝手だ』としかおっしゃらないんです。あの、もし、そんな話になりましたらついでに」
「いつからするようになられたんですか?」
「いつ?」
「疾風怒濤紅蓮組合のファンになってからじゃないんですか? 確かあのグループはこんな格好してたと思うんですが」
「いえ、ファンになったのは再結成した三年くらい前です。こんな格好をなさるようになったのは、私が嫁いできて、あ、思い出しました。二年目の結婚記念日にお義母さんが外出から戻ってきて見せびらかしたんです。ええ、ええ、あのときは驚いてしまって」
ショッキングピンクのとさかに?」
 はるみは一瞬うなずきかけて深く息を吸った。
「いいえ、どんな格好をなさろうとお義母さんにはお義母さんのセンスがお有りなんですから、とやかく思いはしません。ただ、それまでが上品な着物を普段からお召しになるような方だったので、その、その違いに驚いたんです」
「そうですか」
 絹子を批判するまいと一所懸命。そんなふうに文絵には思えた。口にするかどうかはともかく、思うことまで自分に禁じてしまっては窮屈でしかたないだろうに。
 はるみは文絵よりも一回り以上年上と聞いているが、ダメな母親を受け入れようとするけなげな子供の図が頭に浮かんで文絵は微笑んだ。
「三十年も前のことですので、もうお義母さん自身覚えてらっしゃらないかも知れませんが」
「そんなに前なんですか? じゃあ、染めてくれる美容院もなかったんじゃありませんか?」
「ええ、都内まで出てやってらっしゃったようです。今はこの町にも染めてくれる美容院が出来ましたけれど」
「もし無理なくうかがえるようでしたら、お聞きしますね」
「ええ。お願いします。あ、それからお義母さんからお話を聞くときに手がかりになるかも知れないと思って、子供たちが作ったものを持ってきました。幼稚園のときに描いたお義母さんの絵とか、小学生のときに作ったお義母さんへのプレゼントとか。孫の話をたくさん盛り込んでいただけると、あの、プレゼントした子供たちも喜ぶと思うんです。子供と言っても、うちのはもう二人とも三十越えてますけど」
「お子さんは男の子さんですか?」
「ええ、二人とも」
「私も二人居まして、高校二年の女の子と中学三年の男の子なんです。もう母親なんていらないだろうと思っているとべたべたしてきたりして。いつになったら手が離れるかと思っているんですけど」
「うちのは二人とも社会人になったとたんに一人暮らしを始めて、親なんか見向きもしませんよ。そうなると手をかけさせて欲しいような気がします」
 はるみには見向きもしないのに、絹子にはプレゼント? ちょっと引っ掛かるものを感じたが『お子さんたちははるみさんより絹子さんが好きなんですか?』などと言ってしまったら、温和なはるみだって怒るだろう。聞き返したい気持ちをぐっとこらえた。
「ああ、そうなんですか。じゃあ、今のうちに楽しんだほうがいいんですね」
「ええ。そうですよ」
 文絵とはるみは顔を見合わせて笑った。

     五

「あ。お義母さんが」
 文絵が振り向くと絹子が左手で毛布をつかんで、焦点の合わない目をして座っていた。文絵は絹子の隣に寄り添った。はるみは紙袋を持って絹子の前に立った。
「ご気分はいかがですか?」
 寝起きは機嫌が悪いかもしれない。ゆっくりと穏やかに話しかけた。
「喉が痛い」
 絹子は空咳を繰り返した。
 はるみは紙袋をベンチに置いて中から水筒を取り出した。ふたをはずして中身を注ぎ絹子に差し出した。絹子は鷹揚な動作で飲み干してふたをはるみに返した。ふっと絹子の目の焦点が合った。はるみをまじまじと見た。
「何しにきたんだ。あんたには聞かれたくないって言ったろう」
 なんて言いぐさだ。声をたてそうにになって、あわてて文絵は口を押さえた。毛布にしろ水筒にしろ絹子を案じて持ってきたなんてことは見ればわかるだろうに。
「申し訳ありません」
 はるみは急いで水筒を片づけると絹子に頭を下げた。
 その姿を見て文絵のみぞおちのあたりに熱いものがしこった。はるみが謝らなければならないようなことはかけらもない。絹子さんがはるみさんの気持ちを汲まないのなら私が言う。それでわかる相手かどうかは疑問だけれど、このままでははるみが浮かばれない。
「はるみさんは」
 文絵が声を出すと絹子は文絵をにらみ上げた。
 にっこり笑って文絵は絹子の視線を受け止めた。
「お孫さんの思い出の品を持ってきてくださったんです。何か見せていただけますか?」
 文絵がうながすとはるみは紙の箱を取り出した。腰をかがめて文絵と絹子の前に差し出した。中には手作りのブローチが入っていた。いろいろな色が混じった平べったい石は、金の台座に固定されていた。
「色鮮やかなブローチですね」
「ええ、七宝焼きなんです。下の息子が四年生のときに作ったんですよ」
「覚えてらっしゃいますか?」
 文絵が絹子に水を向けると、絹子は箱をのろのろと覗き込んだ。
「ああ、これな。オーブントースターで焼けるってやつだ。あたしにもくれたが自分のもののほうが多かったんじゃなかったか?」
「お義母さんに気に入ってもらおうと、何度も作りなおしたんですよ。火傷してまで」
 絹子はブローチを手に取った。左手に乗せて右手で表面をなでた。
「いろんな色が混じり合って、なにがなんだかわからないが、これはあたしとはるみさんの顔なんだ」
「え?」
 文絵はしげしげとブローチを見たが、人の顔に見えるところはどこにもない。
「ほら、ここがピンクだろ? それでここが茶色だ」
 ブローチの一角にピンクの固まりがあり、その隣に茶色の固まりがあるのはわかった。でも、それが絹子とはるみの頭だなんてことは家族にしかわかるまい。
 意外ときちんと見ているんだなと絹子を見直しながら文絵は話を合わせていった。
「ああ、ここが。ええ、ええ、わかります。どんな様子で作ってらしたか覚えてらっしゃいますか?」
「あの子はねえ、あんまり長いことひとつのことをしていられないんだ。ちょっと作っては二日ほっとき、また作っては一週間ほっとき、そんな感じだから思い立ってから作り終わるのに三カ月とか半年とかかかるんだよ。だけど作っているってこと自体は忘れないから、片づけると怒るんだ。たしかリビングの一角にあの子の作りかけコーナーってのがあったな」
「ええ、ありました」
 はるみが嬉しそうに相槌を打つと絹子は急に顔をしかめた。ブローチを載せた手を突き出した。
「あんたは帰れ。話しにくい」
 はるみはおずおずと手を伸ばした。
 絹子がさっと手を引いた。
 二人の間でブローチが落ちた。そこに石があった。乾いた音がしてブローチが割れた。かけらが飛び散った。
「きちんと受け取れ。馬鹿」
 絹子は顔を真っ赤にして、はるみに怒声を浴びせた。はるみがブローチをつまむのが、ちょっと遅かった。絹子が手を引くのがちょっと早かった。どちらが原因でもおかしくなかった。
 しゃがみ込んだはるみはブローチのかけらをひとつ拾った。手が震えていた。
 また、ひとつ拾った。全身ががくがくと揺れていた。
 震える手でひとつ、ひとつ、拾い集めた。
 あらかた集めると紙のふたを閉めようとした。何度も失敗した。ようやく閉めると箱を紙袋に入れた。
「私に嫌がらせするためだったら、孫が火傷してまで作った品物でも犠牲にできるんですね」
 低い声でそう言い残し、はるみは紙袋をつかんで歩き出した。
 はるみははるみで絹子がわざと落としたと思っているらしい。
 絹子が嫌がらせをするのにわざわざ孫の作品を壊すような回りくどいことをするとは思えない。ただの事故だ。はるみだって今は冷静さを欠いているだけで、落ち着いて考えれば絹子がそんなことをするわけがないとわかるはずだ。
 文絵はとりなそうとして必死で頭を巡らせた。
 矢印形の看板を曲がったはるみの頭はだんだん下がり始めた。文絵が言葉を見つける前に見えなくなった。
「追いかけましょう」
 絹子に向かって文絵は叫んだ。
 当事者の絹子はひざに落とした毛布をいじりながら、ぼんやりと座ったまま立ち上がろうとしない。
 文絵はとにかくはるみを掴まえようとベンチから立ち上がった。

     六

 矢印形の看板の隣に白くて丸いものが見えた。肩、腰と現れてくる。さきほど駐車場で会った八重子という老婆が、眉をつり上げ眉間にシワを寄せて口をきゅっと結んで歩いてくる。
「こちらは?」
 八重子はベンチの前まで来ると視線で文絵を示しながら、やけに低い声で絹子に訊いた。
「例の、孫の」
「ああ」
 八重子の顔の皺が丸くなった。そもそもの顔の輪郭が丸いせいか、表情をやわらげるといきなり人の好さそうな老婆になった。
「木之下さん」
 絹子が伏し目がちに呼びかけてきた。はるみのことは気になるが、仕事で必要なのは絹子の話を聞くことだ。はるみを追いかけるのはあきらめて絹子の横に腰を下ろした。
「はい」
「八重子との話は、えっと、オフレコだ」
「はい、オフレコですね。わかりました」
「よし、八重子。何を話しても大丈夫だ」
 文絵の目を見ながら八重子は深くうなずいた。そして、絹子に向き直った。
「はるみさん。あいさつもしないで下りて行ったが、なんかあったか?」
「孫の作品を壊してしまってな」
「バカ!」
「もっともだ」
「で、ちゃんと謝ったのか?」
「まさか」
 八重子は大きく息を吐いた。
「嫌われるばっかりじゃないか。ちったあ可愛く振る舞ったらどうだ?」
「ひ孫に嫌われるの怖さに叱ることも出来ないってのもやりすぎだろ?」
「叱るのは親がやればいいんだ。あたしゃ嫌われてまで厳しいことなんか言いたくないよ」
「だろ? 親は厳しくないとな」
「あんたのはただの意地っ張りじゃないか。あれじゃいくら嫁でもはるみさんが可哀相だ」
「それで? はるみさん、あたしの悪口言うようになったか?」
「言うわけないだろ。そういうひとじゃないんだって」
「どうして言わないんだろう」
「本人が言って欲しがってるんだから言えばいいのにな」
 八重子はもう一度大きく息を吐いた。文絵は立ち上がって手のひらを上に向け、八重子に差し出しベンチを示した。八重子は文絵の手に従ってそろそろと腰を下ろした。文絵は八重子と絹子の正面にしゃがみこみ上目づかいに二人を見ながら質問した。
「あの、それはどういう?」
「近所の奥さんたちとバカ姑の話題で盛り上がったら、すぐにも友だちが出来るだろ?」
「こんなことをずーっと言っているんですよ。三十年も。しかも他人にそのつもりでこんな格好をしていることを言ってはいけないと」
 敬語でしゃべる八重子に文絵は肩をすくめた。絹子と違って文絵は初対面なのだから当然のことだが、最初に怒鳴り合っているところを見てしまったせいか、丁寧な言葉使いをされるとかえって不気味に感じる。だが、緊張をゆるめて話を聴くために意識して肩を下ろした。
「ひ、秘密なんですね」
「あたしの画策で友だちが出来たって、はるみさんの手柄にならんだろ」
「手柄って、あんた」
 八重子は深々と息を吐いた。
「あの、そんなに心配なさらなくても、はるみさん、いいひとなんですから、すぐにも友だちなんて出来るんじゃないですか?」
「それがなあ」
 八重子と絹子は顔を見合わせて二人一緒に首を横に振った。
「実は」
 絹子はオフレコだからな、と念を押して三十年前の話をしてくれた。
 町内会の集まりではるみが仕出しの当番になったとき、いつも頼んでいる仕出屋から取った品物に自分で作った料理を一品加えた。集まりのときには誰も何も言わなかったが、のちのち仕出屋は『うちの料理が気に食わないのか』と怒るし、仕出しの当番が回ってくる奥さん連中は『そんなことされたら、うちでもしなくてはならなくなるじゃないの。余計な手間を増やさないでよ』とはるみの悪口を言い始めた。
「そういうことなら、はるみさんに差し出た真似はしないようにと言ってあげればいいんじゃないですか?」
「あの子はなんでも出来過ぎるから、そのことだけ言ったってしょうがないんだ。例えば幼稚園のお遊戯会とか、ほかの子は四角い布に穴を開けただけの簡単な衣装なのに、はるみさんは型紙から起こして子供の体に合った衣装を作ってしまったりするんだ。一事が万事この調子でしかもそれをやるのが当たり前って顔するもんだから、それを当たり前とは思わないひとたちから無用な反感を買うのさ。その反感をやわらげてやりたいんだ」
「あの、それでやわらげるために何をなさったんですか?」
「髪を染めてグレてやった」
 絹子が誇らしげに胸を張った。
「バカでしょう?」
 八重子が鼻に皺を寄せた。
「何でだよ。幼稚園のときはあたしのことがたちまちうわさになったから、はるみさんは同情を買って友だちが出来たんだぞ。小学校だってけっこう楽しそうにやってたぞ」
「今でもつきあっているのか?」
「いや、切れてしまったらしい。もっとざっくばらんにならないと友だちづきあいは難しいだろ」
「そうか」
 なんだか釈然とせず、文絵は改めて質問をぶつけた。
「差し出た真似はするなって、きちんと話してあげたらいいのではないですか?」
 絹子は腕を組んで文絵を横目で眺めた。
「じゃあ、あんたさ。余計な世話を焼くなってあたしが言ったら、はるみさんに何が起ころうと黙ってられるか?」
 文絵は左斜め前をにらみながら思い出してみた。最初に会ったときに、絹子とにらみ合うはるみを見て仲裁に入った。さっきははるみが理由もなく怒られているのを見かねて話題をふった。はるみの様子がただごとではないと感じて、追いかけるよう絹子にうながした。首をすくめながら文絵は絹子に答えた。
「ええと、それはまあ、黙っていろとおっしゃるなら、ええ」
「ウソこけ」
「あ、あまり自信はありませんが努力はします」
「自分の性質を変えるなんて無駄な努力はしなくていい。その性質とどうつきあうかさ」
「はあ」
「ああ、勘違いしないでください。責めてるんじゃなくて、そのひとがそのひと『らしい』ことをするのを止めるのは大変だって話を絹子はしているんです」と八重子が言う。
「木之下さんに『他人のことを心配するな』と言うのは無駄だろ? はるみさんに『物事を一生懸命やるな』と言っても無駄なんだよ」
「だったら悪口を言わせようとするのも無駄じゃないですか?」
「悪口を言わせるのが目的じゃない。もっと心を開いて人と接しなさいと言っているんだ」
「よくわかりません」
「本心を他人にさらしなさいってことさ」
「絹子さんだって、はるみさんを心配しているということは隠していますよね?」
「本心は隠しておらんよ。意地悪するのも本心さ。そうさな。何か事があるときにはさ。例えば、うたたねして起きたときに、かかっている毛布を見て『ありがたい』と思うだろう?」
「ええ、はい」
「と、同時に『うっとうしいなあ』とも思うんだ。子供じゃないんだからほっとけよ。とも」
「ええ、はあ、まあ」
「感謝は言わないで、反発だけ口にしているだけのことさ」
「なるほど。じゃあ、心を開くってのはこういうことだって、説明してあげたらどうですか?」
「最初はストレートに言ったんだが、きょとんとされてしまってな」
「はあ、なんででしょう」
「本人は気づいてないんだ。自分の心が鎧を着ていることを。そろそろ、あと一押しって感じだがな」
「三十年もかかってですか?」
「わからん奴は一生わからん。できれば、あたしが生きているうちになんとかしたいがな」
 生きているうち――ドキッとした文絵は笑顔を向けた。
「憎まれっ子、世にはばかるって言葉をご存じで?」
「知ってるよ。なんであたしが八十越して健在なんだと思う?」
「わしまで巻き込むな」八重子が口を尖らせた。
「それでもいいって奴が本当の友だちだろ? 多くはないが、長い友だちがいるぞ。あたしは」
「ただの腐れ縁だろが」
 絹子と八重子は顔を見合わせてにやりと笑った。
「長いってどれくらいなんですか?」
「生まれたときから近所だからな。八十年以上か」
 絹子がにこにこと話すのを見て、ようやく文絵は心の底から絹子に微笑むことが出来た。
「もういいんじゃないか? そうやって笑って普通に暮らせば」
「笑い合う相手は外に作ればいいし、あたしは普通に暮らしているよ」
「普通ってのは悪いことをしたら謝るんだよ。ののしるんじゃなくて」
 絹子は目を伏せて黙り込んだ。
「とにかく、そのことは謝りな」
 絹子は口の下に梅干し模様を作ってしばらく憮然としていたが、やがてかすかに首を縦に振った。