矢車通り~オリジナル小説~

はてなダイアリーから移行させました。

京都の思いで(33枚)

 生まれて初めて京都へ行った。生まれて初めての経験だ。
 かねてからの希望だったがようやく実現した。
 当日は朝早くヘルパーさんが迎えに来てくれた。仕度もそこそこに車に乗って家を出る。
 鳥取駅に着いたのが午前 8時半頃、叔父さんに土産を買おうと売店へよってみたが、朝が早いので風呂敷饅頭はまだ無かった。仕方がないので二十世紀梨を使った何だか訳の分からない菓子を買った。
 鳥取の駅は高架になっているので、エレベーターを使わないとホームに出るに出られられないが、鳥取駅には車椅子で乗れるエレベーターがない。其処までは仕方がないのだが車椅子の載れるエレベーターが無いので、苦肉の策として荷物搬出用のエレベーターを使わせてもらった。駅員さんを待っている間が結構長かった。その間ヘルパーさんに雑談の相手をしてもらっていた。考えてみるとまだまだ鳥取は障害者にとっては後進県である。
 ホームに入ってから十分くらい待っていたら、「スーパーはくと」が滑り込んできた。なかなかスマートな列車である。それは良いのだが、停車時間が五分だというので、若い駅員さんが急いでスロープを列車に渡して、手際よく押し込んでくれた。
 列車の中の車内に入ってみると、車椅子席は車両の前方と後方にある。行きがけは前方で戻りは後方であった。席がこれも仕方のないことであろうが、前方なので首を回しても景色がは良く見えない。目の前にあるのは智頭町の石谷家のポスターと、到着駅を伝える電光掲示板だけであったる。
 ヘルパーさんが隣の席に座っていてくれたので、世間話しをしていたら尿意を催してきた。どうも駅の自動販売機で買ったコーヒー悪かったようで利いた様だ。京都駅に着くまでにトイレに三回も通った。列車のトイレは狭いのでヘルパーさんに迷惑をかけた。でも親切なおばさんがいて手伝ってくださったので有難かった。
 なにしろ列車に乗ったのは子供のとき以来なので、珍しいことばかりであった。「スーパーはくと」は智頭から岡山県の大原辺りまで、トンネルだらけなので耳がツーンとしてよく揺れた。初老の車掌さんが足を踏ん張って検札に歩く姿のが、何となくユーモラスであった。それから車内販売のおじさんが、ワゴンを押して行ったり来たりする。そのたびに車椅子が邪魔になるのでいちいち避けなければならない。これがなかなか気兼ねであった。
 姫路の街に近付いたので城を見ようと、一生懸命首を回したが結局見ることが出来ずに終わって、折角の機会を逃してしまった。惜しいことをした。前にも書いたとおり、列車の車椅子の席は視野が狭いので、一工夫して外の景色がよく見えるようにしてもらいたいものだ。一番前にあるので視野が狭い。そういうわけで姫路の街は、ビルが時々ばっかりしか見えただけなので特別な印象がない。
 やがて明石駅に近付いた。ヘルパーさんが海が見えるというので右の窓を覗いたら、なるほど青い瀬戸内海が、建物の間からちらちらと見えた。つくづく表日本の建物の多さには呆れ返った。まあ、資本がそれだけ多く投資されているということであろう。それが果たしてこれからの日本の良いことになるかと、つまらないことを考えていたら大阪駅へ滑り込んだ。
 大阪駅の停車時間は思ったより短い。乗り込んでくる人も降りる人も少なかった。大阪駅を出発したと思ったらすぐ新大阪駅である。なんだか馬鹿にされているようであった。こんなことならどちらか一つに停車すればよいのにとまた呆れた。
 大阪でもお城は高層ビルに邪魔されて拝見できなかった。
 やがて京都駅が近くなった頃、であるが、ヘルパーさんの一人の様子がどうもおかしい。デッキへ出て携帯で盛んにタクシー会社と話している。何か手違いがあったようだ。どうしたのかと聞くと、連絡不備で車椅子が折りたためるものと、会社の方が思い込んでいたらしく、出迎えてくれるのは普通の乗用車タイプらしい。それでは困るとヘルパーさんが粘ってみたが、どうしても都合が付かないようだ。
 こっちはどうしようもないのでお握りをパクついていた。駅弁を買うのも馬鹿らしいので、朝出発する前にヘルパーさんが握ってくれていたものだたのだ。
 そうこうしているうちに、「スーパーはくと」は京都駅へ滑り込んだ。ここが終着なので降りる時間を気にする必要はないのだが、その代わり降りるお客さんも多いので、なかなか駅員さんが迎えに来てくれない。やっとホームへ降りたと思ったら、エレベーターで二階へ上がれという。こっちはどうなっているのか分からないが、とにかく案内してくれる通り、駅員さんについていった。二階へ上がるとそこもホームであった。新幹線のスマートな車体が止まっていた。ホームを大分過ぎるとまたエレベーターである。今度は一階へ降りるという。こんな面倒なことをなぜやらなければいけないのか分からなかったが、とにかくこっちはおのぼりさんの障害者だから、言われるとおりにした。
 やっと駅の外へ出た。京都は古の都である。人間の数も鳥取の比ではない。外人さんがやたらに目に付く。和服を着た紳士など映画で見るだけだからこれも珍しかった。おそらくお茶かお花の先生かな、と想像した。
 駅前にタクシーが待っていた。やっぱり普通の小型である。ヘルパーさんが困ったような顔をしていると、運転手さんが近付いてきて僕の車椅子を見た。「これじゃあ折り畳みが出来ないなあと」と、ちょっと困ったような顔を見せたが、そこはプロである。すぐに決断を下した。トランクを片付けてそこへ車椅子を押し込もうというのだ。
 私は思った。観光で生計を立てている町の運転手は違うなと。感心した。
やがてタクシーで三十分ほど走って清水寺に着いた。表通りは込んでいるというので、茶碗坂のほうから登ることにした。しかしこっちも相当な混雑であった。坂の両側には土産物屋が軒を並べている。まるで岩にへばりついた牡蠣のようだ。その間を泳ぐ雑魚のように観光客が行き来混雑している。修学旅行の中学生や外人さんを掻き分けて坂を上り、清水の舞台へ着いた。
 京都の町が一望できる。音羽の滝が眼下に望まれる。昔は本当にここから飛び降りた奴があるそうだ。おおコワッこわっ。そこで記念写真を取っていると舞妓さんが来た。喜んで鼻の下を伸ばしていたらヘルパーさんに水をかけられた。あれは偽舞妓だそうだ。着物を借りて化けるのだそうだが、そんなことをしてどこが面白いのだろう。女心は不可解だ。
 清水さんを巡っていると、あちこちでお御籤を売っていた。まあ神社仏閣ではどこでも同じだが、ヘルパーさんの一人が引いたら凶が出た。僕が引くと吉が出た。ヘルパーさんは凶は京吉に通して吉となずるとか何とか負け惜しみを言いながら、お御籤を手摺に結んでしまった。立て札にはお持ち帰りくださいと注意してあったのだが、凶をもって帰れとは理不尽な。そんなこというなら初めから凶なんか出すなというんだ。
 次はそれから高台大寺へ向かった。タクシーの乗り降りは大変だった。でもまあ運転手さんに手伝ってもらったので助かった。
 この寺は秀吉の奥方が、徳川家康の援助で創建したという。家康と出来ていたのかな。なんて下司下種の勘ぐりをしていたら、坊さんがすごい目つきでにら睨んでいるような気がした。寺の大きさは差ほどではないが、やっぱり歴史を感じる。ご本尊の写真を撮って、庭を見物して寺を出た。
 今度は知恩院である。浄土宗の本山だけあってさすがにでかい。法然さんはやり手である。鎌倉新仏教の一派をこれほどの宗派に育てたのだ。そうとうなプロデューサーである。宗教というのは何百年も経ってみないと本物かわからないという。はたして現代の新興宗教に本当の仏教があるのか、疑わしいが、だがここは本物だ。木製のスロープをつけていて、障害者を本堂道まで入れてくれる。
 お坊さんが読経をしていて香の匂いが漂い、荘厳な雰囲気である。写真撮影禁止の立て札が立っている。ご本尊に悪い影響があるからだそうだ。ストロボの光がどれだけ影響するのか知らないが、まあ禁止するには、それだけの理由があってのことだろうから、写真を撮るのは止めておいた。庇の下に左甚五郎の彫物があるそうだが、あんまり高いので良く見えなかった。完全に仕上げると早く痛むので、未完成にしてあるそうだ。昔の職人気質は面白いと思う。
 一日目の観光を終わって、宿泊施設に向かった。京都の西の山すそにある障害者専用の施設である。
 運転手さんが面白いことをいっていた。京都は交通の不便な方へお金が流れていると。なるほど旧市内は、お寺とビルで飽和状態だから、少しでも土地の値段の安い郊外へ、新しい施設が建つのだろう。
 秋の日はつるべ落とし、四時を過ぎると肌寒くなってきた。
 僕たちが泊まる『ふれあい会館』は、まだ新建物だったらしい。タクシーの清算を済ませてロビーへ入ると、思ったより照明が薄暗かった。これが今のはやりなのか。
 叔父さんがロビーに待ってくれていた。お土産を渡して自分の部屋へ向かった。部屋は二階であった。キーを貰って部屋に入るというのは、初めての経験だったので、一流ホテルに泊まった気分だ。移る途中叔父さんとエレベーターの中で、鏡に写る自分の顔を比べて見ると、どこか似ている。母の血を多く受け継いでいるようだ。余計なことだが、エレベーターには大抵大きな鏡が付いている。なぜだろう。あんまり気色の良いものとは僕には思えない。自分にほれる変態はナルシスだけで沢山だ。
 部屋へ入ったが、やっぱり照明は暗い。省エネか、それともただのケチなだけか。まあ薄暗い方が、お互いのあらが見えなくていいという配慮と受け取っておこう。
 叔父さんは、奥さんの里で、今年九十になるお舅さんの畑仕事を手伝い、そのためぎっくり腰になったのだそうだ。もう七十になるのだから体に気をつけてもらいたい。叔父さんはソファーに座ると腰が痛いというので、椅子に掛けて中腰で話をした。僕の発音が不鮮明なので、ヘルパーさんに通訳してもらった。色々話していたらすぐ一時間たっていた。叔父さんは、また明日の朝来るといって帰っていった。
  
 夕食は一階の食堂に下りて摂った。頼んでおいた和食であったが、おいしかったと書けば無事であろうが、ことはそう簡単にいかないのが世の常だ。まあ予算をケチッたこっちが悪いのだが、不味かった。どこと指摘できるほど口は肥えていないので、偉そうなことは言えないが、京の薄味というのに辛いのだ。それでもヘルパーさんは文句を言わずに食べさせてくケチったこっちが悪いのだが、それにしても味が濃い。辛いくらいだ。京の薄味を期待していたのに少しがっかりした。ヘルパーさんの一人は、「私は口が肥えているのよ」とか何とか言ってパクついていたが、僕はどうも納得できなかった。板前さんが江戸っ子なのだろうと、無理矢理自分を誤魔化した。テーブルの横の棚にビールの小瓶があった。売っているに違いないのだが、買って飲もうといい出せない自分の優柔不断さが嫌になった。
 食事を済ませ部屋へ戻った。そうするとあとはすることがない。まさか祇園木屋町に繰り出すわけに行かない。だいいちそんな軍資金を持っていない。例え有ったとしても、さすがの京都の花街もバリアフリーになっていないのだろう。代議士や高級官僚は日常的に闊歩しているのに不公平ではあるまいか。小泉さん、本当に平等の福祉国家にする気があるなら、郵政民営化を強行して国民に痛みを与えるより、障害者と舞妓さんが清正拳の出来るような世の中にしてくれ。と、まあ僕の儚い夢を抱きつつ、ヘルパーさんにテレビを付けて貰った。ケーブルは入っていないが、地上波が8局も入るのは、さすがに花の都と感心した。感心はしたがそれからがいけない。8局もあるのにやっている番組は似たり寄ったりだ。よくもまあマスコミが体制に迎合しているものだと感心する。クイズ番組にチャンネルを合わせたら、「みのもんた」の大きな顔がブラウン管を占領していた。今夜は悪夢を見るだろうと思った。
 ヘルパーさんが風呂に入れてあげようというので、風呂場へ行った。身体障害者用だから広かった。やっぱり風呂は気持ちがいい。浴衣に着替えてベッドに入る。横にヘルパーさんの一人が寝てくれる。女の人とベッドを並べるのは初めてなので、ドキドキしてなかなか眠れない。というのは真っ赤な嘘で、旅の疲れで九時頃には白河夜船であった。しかし夜中に二回催して、ヘルパーさんを起してしまった。
 七時前に目を覚ますと、ヘルパーさんが身作りを整えていた。男に寝起きの顔を見せないとは、見上げた大和撫子の手本である。
 僕も起きて着替えをしていると、叔父さんが来た。今日の予定を話していると、朝食の支度が出来たと連絡があった。
 下に降りてテーブルに向かうと、頼んでいた朝食が運ばれてきた。洋食である。こんがり焼けたトーストに蜂蜜をつけて食べると、これがなかなかいける。こんなことなら夕べの食事も、洋食にすればよかったと少し後悔した。オムレツも美味かった。ただ付け合せのハムは、向こうが透けて見えるほど薄い。こんな薄く切れるのは、よほど腕のいいコックがいると見受けた。
 僕が刀剣商に行きたいというと、叔父さんがそれなら東寺の弘法市に行ってみればと勧めてくれたが、すぐに撤回した。なぜかというと毎月二十一日の市は、すごい人出でとても車椅子では歩けないのだという。ならば餅は餅屋でタクシーの運転手さんに頼むということにして、出発の準備に部屋に戻った。立つ鳥跡を濁さずという。忘れ物はないか調べて、また階下に降りて、カウンターで宿代の精算をした。
 十時にタクシーが迎えに来るというので、叔父さんと雑談をしながら待っていた。ヘルパーさんは忘れ物はないかと、念には念を入れてチェックアウトの準備をしていた。
 やがて昨日の運転手さんがやってきた。同じ型の小型タクシーではあったが、気を使ってくれてドアも大きく開いて、座席も回転式のものに変えていてくれた。
 叔父さんとは会館の前で別れて嵐山へ向かった。嵐山はわりに近くて十五分ほど走ったら着いた。テレビで見ていたので、何だか初めてきた気がしない。渡月橋は大分印象が違っていた。遠くから見ると昔ながらの木橋のように見えるが、近くに行って見ると欄干だけが木造で、橋自体はコンクリートの近代的な物で自動車が走っている。
 橋の両岸に土産物屋が軒を並べていた。修学旅行の学生が沢山いて記念撮影を撮ったり、ケイタイを掛けたり姦しいことだ。その中を掻き分けて土産物を買いに入った。先ずは姪っ子に頼まれたお香である。いろんなのがあったがヘルパーさんの好みにまかせた。こっちは木村長門守のような風流ではないので、白檀と蘭麝の区別もつかない。店員に見本を嗅がせてもらったが、違いがぜんぜん分からない。適当な値段のを選んで包んでもらう。いい加減なもんだ。さて次は、れしーぶとはーと&はんどへのお土産である。これは八橋と決めていたので、話しが早かろうと思っていたが、どっこい世の中そう甘くない。おたべという銘柄の伏兵がいた。八橋の従兄弟のようなもので、妙に甘くてやわらかい。きっと野太鼓が京都へ亡命して発明したのだろう。試食させてくれたが、甘ったるくて胸がこげる。しかしあくまでもお土産であるから、僕が食べるわけではないので両方買った。次は僕自身の欲しい物であるが、あまり品数が多いので大いに迷った。刀剣に興味があるので、すぐ刀に目が移った。でもこんな所に本物を売っているはずはない。模造刀である。そういえば昨日の茶碗坂でも売っていたが、さすがは新撰組が闊歩して、人を斬ったところだけはある。後から行った太秦の映画村でも見かけた。映画村に売っているのは当然か。結局清水焼の湯飲みを買うことにした。綺麗な青が目に飛び込んだからだ。焼き物のことだから同じ形でも色が微妙に違う。店員さんに一番色の濃いいものを選んでもらった。模様に兎がついている。飛躍したいから丁度いいか。
 桂川のほとりに出て記念写真を撮った。上流は保津川だそうだ。そういえばテレビの時代劇でよく見る光景が、向こうの方に霞んで見える。映画ではよく人間を落としてはらはらさせる岸壁があった。そんなつまらないことを回想していると、そろそろ金閣寺へ行こうという。
 金閣寺へはちょっと時間がかかった。運転手さんがお盆にやる京五山(大文字)の送り火の跡が見えると、指差してくれたが僕には見えなかった。
 途中で仁和寺の前を通ったが、ここが我が家の寺の本山か。日頃檀家で評判の悪い坊主の黒幕で、その巣窟だと思うと腹が立ってきた。大体今の仏教はどうなっているのだ。葬式や法事のときにお布施をふんだくるだけで後は何もしない。何もしないのはまだいい方で、坊主が贅沢三昧である。車はベンツ時計はローレックス、夜な夜な怪しげなところに足を入れる。時代劇に良く出て、大奥の女をたぶらかす怪僧とダブって見える。日本の仏教が堕落したのは明治維新からだと、哲学者の梅原さんが言っていた。廃仏毀釈でお寺をつぶし、坊主に還俗を迫って、天皇を神とした一神教の国としてしまた。近代化を急ぎ、軍国主義の道を突き進んだからだと思う。そしてその結果は六十年前の惨めな敗戦だ。その後遺症を引きずった戦後である。本来の仏教の教えからいうと、人間は平等だ。いや人間だけではない。いきとし生ける物みな平等なのだ。それを坊主だけが贅沢をして、口を拭っているとは言語道断の話だ。少しはれしーぶのような所へ寄付でもしたらどうだ。そうすれば後生が良くなると思う。
 とこう思っているうちに金閣寺へ着いた。三島由紀や水上勉が書いた小説を想像していたが、あんなに陰気な印象はない。明るくて大きい。入口には制服を着た警備員のおじさんが立って、観光バスの警備をしていた。「雁の寺」のようにいじわるな坊さんが、たった一人の小坊主を虐めていたような雰囲気ではない。まああれはこの寺をモデルにした小説だから、当然であろうが、山門をくぐると外人さんの団体に出会った。賑やかなことだ。どこの国の人だか分からないが、英語を喋っていたのは分かった。拝観料の代わりにお札を買った。これも税金対策なのかなと邪推した。外人さんの後について庭の方へ巡ると、急に視界が開けて、そこには燦然と輝く金閣寺の建物があった。まるで池に浮かんでいるように見える。青空に映えてまぶしい。金ピカは中途半端では嫌味なものだが、ここまでやれば凄い。足利義満はたいした者だと関心していたら、車椅子を押してくれていた運転手さんが薀蓄を傾け始めた。京都は大陸から渡った文化を消化して日本独特の文化を生み出したところだ。しかし明治維新天皇が東京に夜逃げしたので、今残っている本当の国風の文化は、京都にしか残っていないと、鼻高々に断言した。まあ大袈裟であるが的は外れていないと納得した。
 昔は金箔を貼っていたのは一階だけだそうで、今の物は戦後火事で焼けてから建て直した物だという。そのことは知っていたが、一階だけの姿を想像すると、あまり綺麗ではないなと思う。今のは戦後二度目の張替で、五六年前にやったという。建物全体では十キロの金を使っているそうだ。十キロの金がどれくらいの値段になのか知らないが、やっぱりお金は集まるところに集まるものだと妙な勘繰りをする。でも外人さんがビューティフルを連発していたから、日本の伝統もまだ捨てたものではなかろう。運転手さんの受け売りだが、庭園はここのが一番素晴らしいそうだ。何しろ西山文化の集大成があるという。金閣寺に対して銀閣寺がある。古文書を調べて昔銀箔が貼ってあったら今再現しようという話も有ったというが、いくら調べてもそいう文献は出てこなかったので止めたそうだ。どこまで本当なのか分からないが、面白いので書いておく。ここにもお御籤やお守りを売っていた。商魂たくましいことだ。記念にネックレス型のお守りを買った。金と銀の二種類があったので、どちらにしようと迷っていると、運転手さんが金閣寺へお参りして銀というのは変だ。当然金だろうというので、なるほどと思いその言葉に従った。運転手さんはこの庭を見れば後は押して知るべしだという。竜安寺枯山水もあるが、あれは禅坊主が金がないので、石と砂ででっち上げたものだそうだ。苔寺は一見の価値はあるが、車椅子は入れてくれないので仕方なく割愛した。確かに苔を保護する観点から言えばそうかもしれないが、何か釈然としないものを感じた。
 金閣寺を出たら丁度昼食の時間であった。手頃なところというので、金閣寺の前にある日本料理店へ入った。立派なメニューが出てきたので、さぞや高いだろうと心配したが、それほどでもなかった。僕は蕎麦をヘルパーさんは湯豆腐を注文した。だがこれが間違いの元であった。僕があまり噛まないのと、蕎麦が良くすべって気管に入り、もう少しでお陀仏になるところであった。金閣寺は葬式はやらないだろうなどと、つまらないことを、朦朧とした意識のうちで考えていると、ヘルパーさんが背中をどやし付けてくれたので、蕎麦が飛び出して命拾いをした。もう麺類は止めようと決心するが、そうも行かない。
 昼食が終わるとタクシーを呼んで待望の映画村である。途中運転手さんと昔の映画やドラマのことを話した。年齢が近いのであろう、話が合った。月光仮面から白馬童子と、次から次へ懐かしいヒーローの名前が飛び出してきた。ヘルパーさんは少し年代が若いので分からないことも多かった。「チャンチャンバラバラ砂埃、斬られて転んでおお痛いと」と、昔懐かしい歌を口ずさみながら太秦へ着いた。入口に(世界一怖いお化け屋敷)という看板が立てかけてあった。大体撮影所自体がお化け屋敷であろうに妙な表現だなと思った。入場券を買って中へ入る。運転手さんも入ってくれるのだろうと思っていたら、ここは運転手さんまで入場料がいるというので、外で待ってもらうことになった。ケチなところだ。中へ入ると先ず始めに吉原のセットへ連れて行ってくれた。ヘルパーさんも心得ている。よっぽど僕が助兵衛だろうと、思っているらしい。しかし大門を潜って中へ入ると、赤い紅がら格子の中に居たのはマネキンの花魁であった。まあ人件費が高いから仕方がないのであろうが、僕は本物の人間で、(小雪さん)ぐらいな美人を期待していたのでがっかりした。はじめからこれでは先が思いやられる。
 次は銭形平次の家である。神棚の前に立派な長火鉢がデンと置いてあった。しかし肝心の平次や八五郎の姿はない。大川橋蔵とまではいわないが、せめて蝋人形を長火鉢の前に座らせて置けば格好がつくのにと思った。この辺に東映のセンスのなさを感じる。そういえば山城新吾が東映のマークのことを、義理カク恥カク人情カクの三角だと言っていたのを思い出した。
 次は遠山桜がもろ肌を脱いでみせるお白州である。白州だというのに肝心の砂がない。コンクリートだけの地面は侘しいものだ。ついでに牢屋のセットや獄門台に並べられた生首を見た。これはなかなか良くできている。だからあんまり気持ちのいいものではない。ヘルパーさんも顔をしかめているので早々に退散した。
 外に出るとテレビの時代劇で見覚えのあるセットが並んでいた。その中に妙な小屋があった。何だろうと覗いてみると中は薄暗い。そして低いところに梁や棟木が組んである。立て札を見るとここは忍者が座敷で話している様子を、上から覗いているところを撮影するセットだと書いてある。おまけに子供は近付くなと注意書きまであった。しかし子供はこんなところが大好きなものだ。注意書きの効き目は少なかろうと思った。
 外の道は埃っぽい。江戸の町の大道だから仕方がないが、犬の糞が落ちていないだけましだ。そこには丁髷の侍や商人の姿はなく、そのかわりギャルや腕白小僧がうろうろしていた。やっぱり平日に来るものではないらしい、土日にはかなり名の売れた俳優が来て、サイン会をやったり、イベントもあるそうだが、平日は学生アルバイトの弁慶が、長刀を持って歩き回るだけであった。ちらりと大奥の御殿女中姿の出演が見えたが、これも一回だけでもう出てこない。仕方がないので弁慶をとらまえて記念写真を撮った。よく顔を見るとマツケンよりハンサムである。何処かの劇団で、演劇の基礎をみっちり習ったら、将来大物になるかも知れぬと余計なことを考えた。
 次は時代劇で大捕物があり、悪者が正義の味方に斬られて落ちる川を見た。実際はプールである。なぜだかそのプールに時々怪獣が首を出して煙を吐く。妙な趣向だ。まあ子供達が喜んで歓声を上げていたから文句は言えない。運転手さんの話だと、昔は斬られて川に落ちると一回に三千円手当てが出たそうだ。今は物価が上がっているから、五千円くらいになっているかな、とニヤニヤ笑っていた。斬られ役が上手でないと立ち回りが見ごたえがない。世の中そうしたもので脇役が大切なのだ。現に僕がこうして京都観光が出来るのも、ヘルパーさんが連れて来てくれたからだ。感謝しなくてはと、殊勝なことを思っていると、今度は建物の中に入る。映画撮影セットの裏側を見せるというから、期待していたら何のことはない、紙芝居のちょっと大仕掛けなものであった。大阪にユニバーサルが作ったテーマパークとは比べようがない。金を掛ければすべて良いというものでもなかろうが、日本映画はこのごろ金を掛けずに、理屈ばっかりこねているような作品が多い。だから観客が動員できないのだ。と大袈裟なことを考えながら阿呆らしくなって早々に売店へ行った。またも目に付いたのは模造刀だ。まあ時代劇の撮影所に売っているのは不思議でもなかろうが、京都へ来てから三度も見るので呆れた。よっぽど京都というところは刀が売れるらしい。ついでに言うと葵の紋の入った印籠も目に付いた。水戸黄門にあやかってのことだろう。一つ土産に買おうかと思ったが、何だかミーハーのようで止めにした。こういうところが僕のへそ曲がりなところであろう。
 また外へ出ると、ヘルパーさんが「あっ忍者だ」と、上を指差して叫んだ。空を見上げると空中に張った綱をそろりそろりと黒装束が渡って行く。だが良く見ると本物のスタントマンではなく、機械仕掛けの人形であった。こういうところにもリストラの嵐が吹き荒れているのかと、またも世の中を斜めに見てしまった。
 そろそろ帰る時間が来たので携帯でタクシーを呼んだ。タクシーはすぐ来てくれて運転手さんが映画村の感想を聞いた。僕は「ええまあ」と、あいまいな返事をした。運転手さんがまたもニヤリと笑った。どうもこの人は眠狂四郎の生まれ変わりではあるまいか。ニヒルである。
 最後の目的の場所は、昨日から頼んでおいた本物の刀剣商である。古都でも刀剣専門店は少ないそうだ。まして車椅子が入るとなると限られてくる。二条城の前に堀を隔ててその店はあった。大きさは昔の駄菓子屋と大差はない。強引に車椅子を押して入ったものだから、店番をしていたお婆さんがびっくりした。品数はそれほど多くはなかったが、やっぱり摸造刀とは迫力が違う。銘のある大刀ともなると一振り何百万円だそうだ。大体日本刀というのは、古い物は数が少ないので値段が高くなるのだそうだ。それが骨董価値というものか。後で聞いたら二ヶ月に一振り売れればよい方だという。僕はそんな高い物は手が出ないので、いろんな拵えの部品を見せてもらった。柄頭、目抜、笄、鍔、小柄と色々ある。店番のお婆さんは刀のことには詳しい。商売だからそうなのであろうが、僕が目抜と小柄を指差して「これは何時頃の物ですか」と聞くと即座に「江戸の中頃の物でしょう」と答えた。細工が気に入ったので「いくらですか」と聞いたら、三万円という返事が返ってきた。「ただし刃が錆びているので研いでもらうと二万円かかりますよ」と止めを刺された。三万円なら持ち合わせがあるので買おうかと思ったが、五万円となるとちょっと無理だ。ヘルパーさんが睨んでいる。まだタクシー代の精算が済んでいないのだ。結局陳列棚の脇にあった、刀剣の入門書を買ってその店を出た。男らしくないが未練が残った。
 京都駅まで送ってもらってタクシー代の精算を済ませると、運転手さんが「また来てくださいよ」といった。はたしてまた来られるものか分からないが「また来ます」と答えて別れた。
 来るときは気が付かなかったが、京都駅の隣に(京都劇場)が在って劇団四季がミュージカルを公演していた。それはとともかく帰りは来るときと逆のコースをたどって、「スーパーはくと」が待っているホームへ出た。そう書くと簡単なようだがそれまでには紆余曲折があった。先ず僕は今まで通じがないことを心配して、ヘルパーさんが障害者用のトイレに連れて行ってくれた。さすがは観光地の駅である。トイレも立派なものだ。見物した所には大抵障害者用のトイレはあった。鳥取県もこういうところは見習って欲しいものである。結局二十分ほどヘルパーさんが付き添ってくれたのだが催してこない。列車の出発の時間も迫ってくるので切り上げて外へ出た。理屈では来るときと逆をたどればよいのだが、人間の記憶ほど当てにならぬものはない。ホームへおりるエレベーターの場所を探して長い間あちこちした。駅員さんを見つけてやっと「スーパーはくと」へ乗り込んだ。今度は来るときと逆の席で、見えるのは乗客の頭ばかりである。よっぽど携帯ラジオを持ってくればよかったと後悔する。現に隣の席ではお兄ちゃんが、ウォークマンで音楽を聞いていた。そうかと見ればいい年をしたおじさんが漫画雑誌を開いてエッチな漫画を見ている。ヘルパーさんはよほどくたびれたらしくコックリコックリ舟をこぎ始めた。
 窓の外はすっかり暗くなって何も見えない。まるで銀河鉄道に乗っているようだ。時々見える家の灯りが星に見える。
 鳥取駅に着いたのが午後の八時過ぎであった。後はもう書くことはない。あえて書けば『天高く両手に花の京めぐり』というところだ。終り