矢車通り~オリジナル小説~

はてなダイアリーから移行させました。

「色の無い生活」(現代物)原稿用紙12枚

 
 秋のある日。
 恵子は干し物を終えて洗面所に入った。ざっと顔を洗って化粧水をつける。乳液のビンを手に取った。中身が少ない。日に透かして残りを確かめる。
 あと十日は使えるか。セールスの小日向さんに注文を出しておかないと。
 そんなことを考えながら、乳液を手に取って顔に塗っていく。
 ふと、手が止まった。
 唇の色がくすんでいる。
 小日向さんの華やかな顔が浮かんだ。同じ専業主婦で、恵子と同じくすっぴんだった。仕事を始めたら化粧をするようになって、きれいになっていった。同じ三十五歳なのに、今や肌の色つやがぜんぜん違う。
 恵子は鏡を覗き込んだ。肌の色が暗く沈んでいるような気がする。特に色の悪い唇が気になる。
 せめて口紅だけでも。
 思い立ってストックの中を探してみる。リップスティックの形をそのまま小さくした試供品が見つかった。明るい赤だ。いそいそとふたを開ける。
 そのとき、電話の呼び出し音が聞こえてきた。音に追い立てられて廊下に飛び出す。玄関先を横切ってダイニングの扉を開けた。
 ダイニングでは姑が両手でテーブルを押さえ、ダイニングチェアから立ち上がろうとしていた。恵子は姑に(出ますから)と合図を送って電話機を確かめた。ディスプレイに「新堂」と出ている。子どもたちが通う幼稚園の役員さんだ。
 姑が薬を飲む作業に戻っていく。
 よろよろと座った姑を横目で見ながら子機を取った。
「はい。ええ、こちらこそ。ええ、いえ、私は無理です。行けません。……ええ、ダメなんです。……はい、ええ。……いいえ、つきあいたくないわけじゃ」
 手を止めた姑がうなずきかけてきた。
「あ、すみません。人が来たので。あとでこちらからかけます」
 人なんて電話を切る口実だ。話したそうな姑を優先しただけだ。
「何? 勧誘?」
「あ、いえ、幼稚園のほうです。懇談会だそうで」
「ああ、なら、千佳子ちゃんとゆうちゃんはみるよ。行っておいでよ」
 五歳児と三歳児をみようという姑の心意気はありがたい。けれど、姑に子どもを預けるとあとで三日は寝込む。七十歳の姑には体力的に無理なのだ。わかっていて頼めない。
「どうせ飲んで騒ぐだけですから。いいんです」
「でも、今だって、つきあいたくないのかって言われてただろ?」
「そうなんですけど。別に顔見知り程度のつきあいで困りませんし。私」
「でもねえ。向こうから言ってくるってのは、ね」
 恵子は姑を安心させようとにっこり笑った。
「いいえ。し……」
 ピンポーンとインターフォンが鳴った。玄関の扉が開く音がした。
「如月さん、いるー? 近く通ったから寄っちゃった。今いい?」
 あたりはばからぬ大声が扉を通して聞こえてくる。
「はあい。ちょっと待って」
 恵子は扉に向かって精一杯の大声を出した。
「ああ、新堂さんかい。あの人なら押してくるね」
 声を聞いて姑も合点がいったらしい。
「ちょっと断ってきますから」
 恵子はダイニングの扉を開けた。玄関に大柄な女性が立っていた。顔も顔の造作も体型もまん丸で、いかにも人が良さそうで押しが強そうだ。
「急にごめんねえ。なんか、慌てた風に電話切れたから。よほどなんか恐い人でも来たのかと思って来てみちゃった」
 くったくのない声音から、本気で心配してくれたんだということがわかる。恵子はウソをついたと言うわけにもいかず、あいまいに笑った。
「ありがとう。新聞の勧誘でね。きっぱり断ったら帰ったの。こちらこそ、ごめんなさいね。お話、途中だったのに」
「いいのよう。で、どう? 土曜日」
「そ、その話は」
 恵子はサンダルをつっかけて三和土に下りた。新堂さんを押して家の外に連れていく。  どこか落ち着いて話せるところはないかと見回すと、駐車場に新堂さんの車が停まっていた。
 一瞬、勝手だと思った。一言断ってから入れて欲しかった。でも、新堂さんに遠慮がないから、こちらも気楽に頼みごとを言えるんだと思いなおす。
「いい?」
 恵子が車を指さすと、新堂さんは即座にうなずいた。運転席に回った新堂さんが助手席のロックをはずして恵子を入れてくれる。
「あのね。うちはダメなのよ。夫は仕事でほとんど家にいないし、姑は体が弱っててすぐ寝込むし。幼稚園児を置いて飲み会に行くわけにはいかないのよ」
 恵子は声をひそめて訴えた。姑に聞かれたら「私は大丈夫だから」と言われてしまう。新堂さんに聞かれたら、「お姑さんもそう言ってるんだから」と出席の方向で話を進めてしまうだろう。話がややこしくなってしまう。
 新堂さんはしばらく目玉をきょろきょろと動かしていたが、やがて「あ」と小さくつぶやいた。
「だったらさあ。保育所に子ども預ければ」
「遊びに行くのに?」
「遊びじゃないわよ。懇談会よ。先生も来るしさあ」
「先生も?」
「そなの。十八番はサザンの『TUNAMI』よ」
「子ども預けてカラオケ行くの?」
 とてもじゃないがついていけない。子どもの面倒をみるのは母親の役目だ。自分の楽しみのために役目を放棄するなんて恵子には考えられない。
 でも、新堂さんはいろいろな人にしょっちゅう子どもを預けて動き回っている人だ。恵子には出来ないが出来るひともいるんだなと素直に感心していたりする。新堂さんに母親の役目だどうのなどとお硬いことを言って、気まずくなりたくはなかった。
 恵子がどう言おうかと考え込んでいると、車のエンジンがかかり景色が動きはじめた。
「ど、どこ行くの?」
「カラオケ。今なら昼間割引で一人五百円で行けるからおごるよ」
「あ、あの、せっかくだけど、新堂さん。わたし、まだ掃除途中だし。姑置いてきちゃったし」
「はい」
 新堂さんはポンと携帯電話を渡してきた。
「二時間ばかり話し合いをしてきますって、お姑さんに電話したらいいんでない?」
「ええ?」
「あたしも午後から野暮用があるから、それ以上はつきあわせないし」
 押しは強いければ引き際もあっさりしている新堂さんが、今日に限ってすんなり引き下がってくれそうにない。
 ついて行ってみようと決心して、恵子は携帯電話を持ち上げた。

 車がカラオケボックスの駐車場に入っていった。ちょっと着飾った近所の奥さんたちが、店の中に吸い込まれていく。
 恵子はエプロンをはずした。色見を揃えたブラウスとスカートを着ている。そんなに悪くはない。
 ただ。
「すっぴんの人はいないね」
「うーん」
 新堂さんは鞄をかき回して、口紅を取り出した。
「これ、気持ち悪くなかったら。口紅つけたら裸じゃないって言うし」
「何それ?」
「すっぴんは裸と同じだって、嫌がる人もいるって聞いてるからさあ。そういう意味で嫌なんじゃなくて?」
「あたしは自分だけ顔が暗いのは嫌だなって」
「うん。どうする? 全部貸してもいいけど」
「いえ。口紅だけ、お願い」
 新堂さんが口紅と手鏡を差し出してきた。
 恵子は紅を唇にのせた。ほんの少し色をつけただけなのに、顔がぱあっと明るくなったような気がした。

 案内されたカラオケボックスの部屋は狭かった。L字型のソファに座ると、すぐ目の前に新堂さんの顔があった。
「歌う?」
 新堂さんがテーブルからカラオケのリモコンを取り上げて聞いてきた。
 最新流行の歌なんて知らない。首を横に振った。
「ま、そう固くならないで。女二人なんだしさ」
 そう言うと新堂さんは靴を脱いだ。足を伸ばしてソファの上に投げ出した。目をつぶってすっかりリラックスしている感じだ。
 恵子はうつむいた。右手で左手をギュッと絞った。
 今日は天気がいいから、窓を全開にして風を通すつもりだった。なのに、なんで夜みたいな薄暗い場所に居るんだろう。やっぱり恵子は場違いだ。断ってしまえばよかった。
 それぞれに黙ったまま、時間が過ぎていく。
「歌うね」
 新堂さんが操作する。
「ラジオ体操第一ー」
 聞き覚えのある声が流れてくる。
 思わず顔を上げてテレビの画面を見た。
 『ラジオ体操第一』の掛け声が、テロップになって流れている。新堂さんが歌い始めた。いや、歌っているというか、声をかけているというか、ラジオ体操のやり方をしゃべっているというか。
「はい、腕を振ってー」
 新堂さんが真面目な顔をして、恵子に向かって歌いかけてくる。
 これがカラオケ?
 次の瞬間、恵子は爆笑してしまった。
「こ、こんなのカラオケになってるの?」
「今はなんでもあるよ。社歌、会社の歌とか。般若心経とか」
「うそぉ」
「うそじゃないよ。かけてみようか?」
 新堂さんが次々に出してくる歌を聞いて笑い転げているうちに、時間なんてあっと言う間に過ぎてしまった。
 
 帰りの車中、新堂さんが話しかけてきた。
「ね、おいでよ。土曜。歌って踊って飲んで騒いでさ。楽しもうよ。たまには」
「平日の昼間だったら、出やすいけど」
「うーん。今日は休んでるんけど。昼間はたいがい仕事だからねえ。あたしは」
 新堂さんは残念そうに答えてきた。
「昼間のほうが都合がいいって人、何人か知ってるけど、懇談会くらい来てくれないと紹介もしづらいし」
 ハッとした。新堂さんの横顔を見つめた。恵子の人づきあいが悪いのを、新堂さんは本気で心配してくれていたらしい。
 真面目に考えてみた。
 懇談会に出て人づきあいを広げる。人目のあるところに出ることが多くなる。おしゃれをしたくなる。お化粧もするようになる。何やら楽しそうになっていく。
 そんな人を何人も見てきたけれど、自分には縁のないことだと思っていた。
 靴下ひとつ片づけない夫、体が弱くてすぐ寝込む姑、
 ふと、姑のことを思い出した。腕時計を確かめる。まだ、お昼の支度に間に合う。今日はあじを用意してある。ホッとしてシートにもたれた。
 唇に手を触れた。
 紅が指先についた。
 やがて、車は恵子の家の前に止まった。恵子は頭を下げて新堂さんの車を見送った。