矢車通り~オリジナル小説~

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拍手の向こう側(22)

浦戸シュウ小説目次

「拍手の向こう側」目次
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 かこは野川に伴われるまま、学校から二つ離れた駅にある居酒屋に入っていった。木材をふんだんに使った黒っぽい造りの店で、迷路のような廊下に沿って小さな個室が連なっている。個室の出入り口は長いのれんで区切られているだけだが、入り口の向きのせいかぜんぜん中の音が漏れて来ない。靴を脱いで廊下の黒い床板を踏みながら進むと、奥まった位置の小さな部屋に案内された。座敷だと正座をしなくてはならないかと心配したが、掘ごたつのように台の下が空いていた。部屋の奥に入って足を伸ばして座ると野川が斜め向かいに座った。かこの正面、野川の左側がぽっかりと空いている。
 正面に座ってくれたほうが部屋の中の位置としては収まりがいいのだけれど、斜向かいだと体も気持ちもほどよく近い感じがする。かこの胸はなんとなくくすぐったくなった。
 お酒やつまみを注文しながら雑談を続ける。注文の品が揃ったところで、野川が「実は」と切り出した。
「いまさら、こんなことを言い出して申し訳ありませんが。鹿山先生。演劇部から手を引いていただけませんか?」
「はい?」
 何を言われたのか、一瞬、わからなくて、素直に聞き返してしまった。話したいことがあるから居酒屋につきあってくれと言われたら、フツー、プライベートなおつきあいのことだと思うだろう。演劇部の話なら、最初からそうだと言っておいてくれ。と、一瞬、激しく怒ってしまいそうになったが、腹に力を入れてググッとこらえた。
 勝手に勘違いしたのはこちらなのに、ここで怒ったらかっこ悪い。野川先生の前でかっこ悪い真似など、絶対にしたくない。自分のことは後回しだ。演劇部の話なら話で、怒りたいことがある。
「あの。本番まであと一カ月半なんですよ? 私のポジションは一番大事なところなんですよ? 本番まで面倒をみると約束しておいて、今、手を引けるわけないじゃないですか」
 野川先生は大人だ。九つも年上だ。なんの遠慮もいらない。ズバッと噛みついた。
「鹿山先生に社交辞令は不要だと思いますから単刀直入に言いますが。先生はあの子たちの成長を阻害しているんです」
 野川先生も本気だ。こんなにはっきり物を言う人だったのかと一瞬ひるんだ。
「そ、阻害って」
「今日、美園が最後に何か提案しようとしたのに気がつきましたか?」
「ああ、ええ、急に台本を変更したからとまどったんでしょう。あの子はなんでも台本通りに進まないと不安になってしまう子ですから」
「ただ不安だったというだけではないと思いますよ。何を言いたかったのかはわかりませんが。今まで、あの子は上の人間には従うという姿勢で、ずっとやってきました。誰に何を言われようとも、相手の言い分を承知した上で、自分にできること、自分がやりたいことを提案してきたんです。教頭先生にクラブを潰すと言われたときでさえ、潰すのは横暴だとは言いませんでした」
「美園は言いませんが、私は言いますよ。横暴です。ひどいです。美園がおとなしい子だからって、いいようにしていいはずがありません。断固、私は闘います。打倒教頭です」
 野川が笑い出した。緊張感の続かない人だ。
「何がおかしいんですか?」
 かこは真面目に抗議する。自分でも青臭いのはわかっている。でも、それでも、子どもだからといって騙すような真似をする奴は許せない。教育者であればなおのことだ。
「いや、鹿山先生はなるほどびっくり箱だなあと思って。あなたとつきあってたら、退屈しないでしょうね。永遠の高校生だ」
「それ、褒められてるのか、けなされてるのか、わかりませんが」
「褒めてます。僕は高校生くらいの、はじける子ども達が大好きです。だから教師になった口ですから。あ、いや、これは脱線でした。とにかく上の者には従うという姿勢の美園が、初めて、台本を変更しないでくれと、直接先生にくってかかったんです。これは成長の兆しです。ほかの生徒も今日の先生のやり方には不満そうでしたが、何も言いませんでした。これでは、鹿山先生の演劇発表会であって、演劇部の公演ではありません。あくまでも、クラブ活動なのですから、生徒主体で進むべきです」
「でも、私は美園に約束したんです。演劇部を守るという使命は私が肩代わりするって。今、行かなくなったら、美園はどうなるんですか? 演劇部は? 教頭のいいようにされてしまうじゃありませんか」
「やあ。大きな声ですねえ」
 教頭がのれんをくぐって入ってきた。野川が席を立って出迎える。
 かこの心臓はドキンと大きく打った。ここにいるのはどういうわけだろう? どうして教頭がいるんだろう? 疑問符ばかりが頭に浮かんで、ちっとも考えがまとまらない。
 かこの頭が混乱しているうちに、野川が座り教頭は注文を済ませた。
 かこの心臓が静まったころ、注文した品々が台の上に並んだ。
「びっくりさせてしまいましたか」
 野川が肩を縮めている。
「野川先生が教頭先生と同じお考えとは思いませんでしたから」
 なんだか皮肉めいたきつい声になった。いや、はっきりかこは裏切られたと怒っていた。野川先生は美園たちの味方だとばかり思っていたのに。
「同じ考えじゃありません。僕は教頭先生のやり方はやりすぎだと思ってます。職員室では言いませんがね。一応、教頭先生は僕の直属の上司で、人前で上司に逆らうもんじゃないです。それは学校でもほかのところでも同じでしょう。同じ考えは持っていませんが、こうして、生徒のためと納得すれば二十四時間いつでもどこでもいらっしゃるところは尊敬していますね。今日はつまり、鹿山先生に演劇部の指導を下りてもらうことが、教育上必要だと思ったので、和解しに来ていただいたのです」
「野川先生が呼び出したんですか?」
「ええ、そうです。ですから、とにかく教頭先生の話を聞いてください」
「ええ、まあ、野川先生がそうおっしゃるなら」
 野川のいつも笑っているような顔を見ていると、突っかかりたい気持ちが消えてしまう。かこは気持ちを落ち着けて話をきくことにした。背筋をピンッと引き上げる。
「では、お話を」
 かこが促すと、教頭が目を合わせてきた。
「俺はね。鹿山先生。課題を与えれば生徒が成長すると信じてる。もちろん、生徒の手に負える範囲でだがね。今回の倉崎美園は、成績はいいし、委員会などの仕事はそつなくこなす優等生だ。でも、なんというか心がない。いや、もちろんあるんだろうけど他人に見せない部分が多い。だから、自分から心を開いて積極的に出なくてはならなくなるような課題を考えた」
 教頭はくだけた言葉で酒をちびちびと飲みながら話し続けた。
「演劇部はあの子にとって、本当に大事なものなんだね。ちょっと突ついただけで、本気で怒ってしまって。この路線で進めていけば、他人に心を開く明るい子に変身するだろう」
 教頭はさらにお酒を追加した。
「最初は、すぐにホームルームで演劇部の窮地を訴えて一般生徒の意見を聞いたり、衣装同好会の西宮に接触したり、なかなか積極的な行動を取ってきた。鹿山先生に手紙を出したりね」
 かこの正体を隠すために「劇団鹿山のかこ先生」という身分を、演劇部のみんなが考えてくれたのに、教頭にはバレバレだったわけだ。苦い気持ちになった。大事な秘密を、一番知られたくない奴に知られていたような。
「俺が与えた課題は間違いじゃなかった。美園はこの課題を乗り越えて、きっと大きく成長する。そう確信した。でも、鹿山先生が現れてから、すっかり萎縮してしまった。わかるだろう? 感じたろう? あの子は鹿山先生という大きな存在に守られて、自分の力を使うことをすっかり忘れてしまっている」
「いや、あの子に限って、私に守られるなんて発想は……」
「じゃあ、なんで、今日、言いたいことがありそうだったのに言わなかったんだろう?」
 野川に静かに質問されて、かこは黙った。確かに、言われてみれば、最初に比べて、みんなの口数が少ない。特に、芝居の演出方法については誰も何も言わない。
 しばらくして、かこは口を開いた。
「手を引けと言うのなら、観客百人集められなければ廃部というの、考え直していただけませんか?」
「鹿山先生。あんた、美園が百人集められるって信じてないの?」
 そういう聞き方をされれば、信じてない、できるわけないと思っている。でも、信じていないと言うのが、なんだか悔しい。黙っていると、教頭が言葉を続けた。
「彼らには百人集めるだけの力がある。俺は信じてるよ。それに、集まらなければ集まらないで、美園は自分がはずみでしてしまった約束のせいで、大事なものを失うという経験をすることになる。それは今後の美園にとって重要な経験だ。よくも悪くもね。どちらにしろ、美園をはじめ、演劇部の部員たちにはいい経験になるだろう」
「大事なものを失うという経験になると承知で、その場に美園を立たせたんですか?」
「もちろん。承知だよ」
「こういうところ、教頭先生は鬼かと思うのだけれど。僕は。ただ、教育論としては間違っていないと思うんで、やり方自体には注文はつけません。つけませんが、僕は生徒たちがあまり強いショックを受けないよう調整をします。教頭先生にいじめられた生徒がヤケを起こしたりしないように」
 野川先生が教頭本人を前にして『鬼』と称するところに、強い信頼関係を感じた。野川先生は、その言葉を平然と口にして、教頭は怒る気配もない。かこは美園のケースしか知らないが、今まで野川は何度もこうやって教頭から課題を与えられて苦しむ生徒をフォローしてきたに違いない。
「どうでしょう。手を引いていただけませんか?」
「ここが美園の正念場なんですね。わかりました。手を引きます。明日明後日は演劇部の練習は休みですから、その次の日までに、仕事が忙しくなったので演出を下りるとはがきを書きます。美園に送っておきます」
「わかってくれましたか。ありがとう。では、これで」
 教頭はそそくさと帰っていった。
「ありがとうございました」
 窮屈そうに野川が頭を下げる。
 野川と二人きりになると、目から涙がこぼれてきた。
「ど、どうしました?」
 野川先生が顔をのぞきこんでくる。
「私、なんだか、すっかり、高校生に戻ったような気持ちになっていて。美園たちと仲間で、とりあえず文化祭までは、一緒にやっていけると思っていたので。もう、美園たちの稽古に参加することもないんだと思ったら、なんだか……」
「あ、ああ、振り回して申し訳ありません。僕のほうから頼んでおいて、あの、なんとお詫びしていいのか」
「え、いえ、それはいいんです。頼まれたからじゃなくて、私、やりたかったから関わってきただけですから。ただ、寂しいなって。すみません。もう二十九になるのに。ガキっぽくて」
 かこはあわててハンカチを出して涙を拭いた。てんでかっこ悪い。もう、野川先生と会うこともないのだ。せめて、最後くらいかっこよく終わりたい。
「もう、大丈夫です。ああ、そうだ。彼らをモデルにして、次の作品描こう。美園たちと一緒にいて楽しかったです。じゃあ。これで」
 かこは立ち上がった。
「ま、待ってください」
 野川も立ち上がる。頭一つ分、野川のほうが高い。ぽかんと口を開けて見上げた。
「それで、あの、もう学校で会うわけにはいかないので。たまには、こんな風に二人で出かけたりしませんか?」
 心の準備が出来ていないときに言われると、頭が真っ白になってしまう。もちろん、いいのだけれど、どう返事をすればかっこいいだろう? ここはいっぺん突っぱねて? いや、二度目の誘いがなかったらどうするのだ。野川先生相手に一番いい返事は?
 いつまでも、悩んでしまうかこだった。