矢車通り~オリジナル小説~

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離れない(仮)2

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 幸いなことに泣いているヒマはなかった。
 奨学金の代わりに、親が仕送りしてくれることになったが、月七万円が限界と申し渡された。今までの額の三分の二だ。ギリギリの生活費だったのだから、なんとかして埋めなければならない。割りのいい仕事というので、家庭教師を選んだ。落第したのがネックにはなったが、もともと落ちこぼれ気味の生徒を拾うのが目的の会社だったのが幸いした。落ちこぼれの気持ちはよくわかるということをアピールして、なんとか入れてもらうことができた。生活費がギリギリなのでこちらからさぼることはないという点もプラスになった。
 自分で仕事を決めるという体験をしてみると、なんだかコツがつかめたような気がしてきた。これからは望んだものを手に入れることができるかも知れない。結局のところ、経験と知識が不足していたから欲しいものが手に入らなかっただけで、ちゃんと自分のいいところをアピールして順序立ててせまっていけば、手に入るものもたくさんあるんじゃないかと思えてきた。
 そうなると、去年の自分が悔やまれる。時間を無駄にした。精神に変調をきたしていたのだ。恋人でもない女を24時間追いかけ回して、授業にも出ないなんてどうかしていた。今年からは心を入れ換えて、落第せずに卒業し、人並みの生活を手に入れよう。まずは、家庭教師のアルバイトをきちんとこなすことだ。
 自分が勉強する時間も取らなくてはならない。いくつか提示されたうちで、自分のアパートに近い生徒を3人選んだ。月水金に二時間教えて、月四万八千円になる。ただし、生徒と相性が合わなければ、すぐチェンジされてしまうから手を抜けない。それぞれの生徒のための準備にやはり二時間くらいはかかるから、あとから考えれば居酒屋で時給九百円でバイトするのと収入的には大差なかった。大勢の通りすがりのお客と接するより、一人の生徒とじっくり付き合うほうが、まだうまくやれそうな気はするけれど。
 一通り授業内容の講習を受けた。まだ中学生くらいなら数学も国語も理科も社会も教えられる。奨学金をもらっていたのはダテではないのだ。クビにならないように、まず、生徒に釘を刺しておくことにした。月曜日と水曜日、最初の授業のとき生徒に「実は落第している。奨学金を打ち切られて明日の米を買うのにも困っている。落第した理由? いやあ、好きな子がいて勉強なんて手につかなくて。というわけで、仕事が無くなるととても困る。君のサポートは全力でさせてもらうから、教師チェンジなんて言わないでくれ。あ、こんな話をしたことは、会社にも親御さんにも黙っててね」と泣きついたのだ。
 落ちるところまで落ちたものだと思ったが、意外なことにウケた。生徒たちは面白がり、二時間が終わるころにはすっかり打ち解けて、名前で呼び合う仲になっていた。
 そして、金曜日。
 その住宅街では間口の狭い小さな家が軒を接するようにして建っていた。一軒一軒表札を見たが、無い家も多い。住所と地図を照らし合わせてようやく見つけた家は、ダークなグレーの外壁の左脇に、アルミ製のドアがちょこんと付いているような造りだった。表札は無い。インターフォンを鳴らすと甲高い声が応対してきた。
「真白木さんのお宅ですね。家庭教師の後藤です」
「ああ。どうぞ」
 待ってみたが、ドアが開く気配はない。自分で扉を開けて中に入ると、玄関には所狭しと靴が散乱していた。正面のドアが開いたままで、にぎやかな声が聞こえてくる。テンションの高いしゃべり方から、たぶんテレビを見ているんだろうと見当がついた。
「階段上がって突き当たりが娘の部屋なんで適当に上がって適当に帰って」
 奥のほうから声が聞こえてくる。
 僕は腹が立ってきた。
 娘の部屋に男が入るというのに、この母親は心配じゃないのか。出てきてこちらがどんな男かくらいは確かめるのが普通じゃないのか。いや、その前に初めての家庭教師が来ているのだから、出てきてあいさつくらいするものじゃないのか。なんなんだ。この投げやりな態度は。
 深呼吸をして考えてみれば、娘にだけ取り入ればいいということだ。出てこないのなら無視すればいい。怒りを押さえて愛想よく返事をした。
「わかりました。いつもそうしてかまいませんか?」
「いいわよ」
「では、お邪魔します」
 靴を脱いで、自分の靴だけ揃えた。左手の階段を上がると廊下の右側がふすまになっていた。
「純子さん? います? 初めまして、後藤です。入ってもいいですか?」
 しばらく待ったが開く気配がない。
 真白木純子は中学3年生で、成績は下のほう。三年生の中間テストで赤点を取った。進学に際しては、授業料の安い公立に行ければ良い。今の成績では私立に行かざるを得なくなるかも知れないので、親の希望で家庭教師が付くことになったと申し送りされている。
 本人の希望ではないから、あまり乗り気ではないのかも知れない。
 塾だと教科ごとに料金が発生するから、全教科頼める家庭教師のほうが安上がり。私立より公立のほうが断然授業料が安いのだから、今、家庭教師代を出して確実に公立に入れたほうが得。親がそういう考えなのだとだと事務方から聞いている。
 真白木の親の目論見は甘いような気がする。
 最初は、僕だって、奨学金で生活費は賄えるから、学費だけ親に出してもらって、そこそこ偏差値の高い大学に行こうと目論んでいた。それがちょっとした出会いで設計が狂ってしまったのだ。
 もし思惑通りに公立に受からなかったら、私立に行かせられるだけのお金はあるのだろうか。高卒の半分は就職するけれど、中卒で就職する人は滅多にいない。
 親の希望する高校に受からせてあげること。それが真白木純子のためにもなるはずだ。僕は今自分がしていることは、必ず真白木純子の役に立つと信じて待った。
 まだ、ふすまは開かない。
 時計を見ると、もう十五分経っている。そろそろ、こちらのことが気になるころだろうか。
「真白木さん? います?」
 もう一度声をかけると、今度は勢いよくふすまが開いた。たぶん、ふすまの向こうでどうしようと悩んでいたんだろうと思うと、自然に笑みがこぼれる。
 目の前に口をぽかんと開けた美少女が立っていた。
 こぶりの顔に大きな目が印象的だ。鼻筋はまっすぐに通り、肉厚の唇はつやつやと輝いている。頭髪はロングで茶色の髪の毛がふんわりと頭の輪郭を包んでいる。
 僕の頬はさらにゆるむ。
 お互いに顔を見合わせたまま、身じろぎもせず立ち尽くす。純子は自分から積極的に動く気がないようだ。まるで、どちらかが先に動いたら、動いたほうが、この先の主導権を握るかのような気がする。
 こちらが先に行動を起こせば、きっと、純子は僕の言いなりなんだろうと見当がついた。
 なぜなら、僕がそういうタイプだから。
 まずは相手に何かさせて、こちらはそれに反応していくほうが断然楽だ。純子はそう考えているのだろう。普段なら、純子は五つも年下なのだから主導権を取ってもいいのだが今は家庭教師に来ている。子どものやる気を出させるための教師なのだから、生徒のほうから自主的に動いてもらうように仕向け、行動力を発揮してもらわなくてはならない。
 僕は待った。
 純子の部屋の中からは、階下のテレビの音がしている。たぶん、窓が開け放してあるのだろう。隣にテレビがあるかのように音が筒抜けだ。なるほど、これなら年頃の娘の部屋に男が入ったってなんの心配もない。変な気配をさせたら、すぐ階下に伝わるだろう。ただし、娘の勉強のことは考えていないらしい。こんなにうるさくては集中なんか出来るわけがない。やがて、階段からカレーの匂いが上がってきた。夕飯はいらないと言ってあるから、僕の分は無いだろう。意地汚い話だが、食べられないと思うとかえって食欲をそそられた。あまりにもいい匂いに鼻がひくつく。夕飯を食べてから来ればよかったと思っていたら、腹の虫がグーッと鳴った。
 純子が目を伏せた。
「どうぞ。お茶とクッキーがあります」
 先にしゃべったのは純子だけれど、僕のお腹が鳴ったからだという経緯がある。結局、どちらが主導権を握ったのか判断がつかないまま、僕は純子の部屋に足を踏み入れた。
「ありがとう。でも、おかまいなく」
 六畳ほどの畳の部屋の片隅に勉強机があり、その上にお盆に載せられた茶菓子があった。純子を机に向かって座らせて、僕は斜向かいに用意された丸椅子に座る。
「最初だからとにかくお茶を出してみようって、母が」
「ああ。うん。家庭教師が来ると、お茶とかお菓子とかご飯とか用意したりすることあるのは知ってるけど、僕のとこはそういうの禁止してるから。ホントに月謝だけで。それよりも」
 僕は純子の耳に口を近づけて、声をひそめた。
「これは、お母さんには内緒にしといてもらいたいんだけど、僕は落第してるんだ」
「え?」
 純子がパッと顔を振り、僕の目に目を合わせてきた。僕はうなずきかけながら、両手を顔の前で合わせて、純子を拝んだ。
「今まで、奨学金って言って、成績優秀な人だけがもらえるお金をもらって生活していたんだけどね。落第したから、もう優秀じゃないってことで打ち切られちゃったんだよ。だから、お金に困っている。クビになると困るんだ。わかるよね?」
「わかります」
「君の望みが叶うよう、精一杯のことはさせてもらう。だから、どうか教師チェンジしないでくれ。頼む」
 純子が眉を八の字に曲げた。心底困っているようだ。そんなにむずかしい要求をしているのだろうか? 
「受験が終わるまで、僕に教師をやらせて欲しい。僕じゃダメ?」
 純子がようやく首を横に振った。
「すみません。教師を替えるなんて考えてもいませんでした。母が決めたことを覆すなんて思ったことないんです。だから、母に内緒でって言われても、あたし、どうしたらいいのか」
 しまったと思ったが、もう遅い。純子は僕が思っているような自立した子どもではないのだ。基本的に親の言いなり、親が行動のすべてを決めていて、そこから逸脱することのできない子なのだ。自立した子なら喜ぶ『先生との秘密の約束』も、純子にはただ『親に隠さなければならない精神的なストレスのかかること』でしかないのだろう。
 中学、高校と、クラスに何人か、このタイプの子がいたなと思い出したが、あいにく、僕は自分から動こうとしない人間が苦手なので、友達づきあいをしたことがない。
「悪かった。今、言ったこと忘れてくれ。ただ、僕と一緒に居てくれればいい。それはいいよね?」
「いいかどうか、わかりません。そんなこと聞かれたことないんです」
 純子が頭をふりふり答える。右手の拳を握りしめ、口に当てている。ものすごく緊張している感じだ。
「わかった。じゃ、僕の目を見て」
 純子がこわごわといった様子で視線を動かした。
「何か、見てて、嫌な感じがする?」
「いいえ、いいえ。なんだか懐かしい感じがします」
「何かに似てる?」
「え、ええ、あの」
 純子が口ごもった。ということは、たぶん、こちらが思い出させたかったものを思い出したのだろう。
「君の歳だと、そうだなあ。僕が十歳だったんだから、五歳くらいかな。すっごく流行ったぬいぐるみのキャラクターがあったよね。あれに似てるだろ?」
「え、ええ」
 口ごもるのも無理はない。アフロヘアの小猿のぬいぐるみで、きもかわいい。つまり、気持ち悪いけど可愛いという、妙な受け方をしたキャラクターなのだ。可愛いという評価も男の僕としては手放しでは喜べないが、中学生に親近感を持ってもらえる顔ではある。
「あれ、すごく欲しかったんですけど、買ってもらえなかったんです」
「じゃあ。代わりに僕が毎週顔を出すよ。存分に眺めてくれ」
「はい」
 顔中をゆるませて純子が笑った。そうされるとあどけなく、とても幼い感じがした。
「じゃあ。ちょっとこのプリントを見て」
 僕は問題プリントを取り出した。事前にもらった中間テストの成績を元に作成したものだ。ひそひそ声から普通の発声に戻す。母親が階下で耳をすませているかも知れない。きちんと授業をするところを聞かせなくては。一行目を音読するように丁寧に指示する。
 問題を読ませては辞書を引かせて理解度を上げる。純子は何か理解するたびに、僕を見上げて目を細め、尊敬のまなざしを向けてくる。
 そうこうしているうちに、二時間が過ぎてしまった。長居はよくない。これから毎週通うのだ。仕事なのだから、けじめをつけてスパッと行動せねばならない。
 僕が立ち上がると、純子があわてて僕の前に立ちはだかった。
「まだ、わからないことが」
 引き止められて後ろ髪が引かれる。
 ああ、そう? じゃあ。もうちょっと一緒にいようか、と言いたい気持ちをグッと堪えた。純子は教師として気に入ってくれただけで、僕に特別な感情があるわけではないんだと自戒する。節度を守らなければクビになるし、純子にベタベタして怖がらせてはならない。
「それは、また今度にしよう。大丈夫。毎週僕が来るから。また、一緒に勉強しよう」
「ずっと、いて欲しいんです」
 言葉の裏に、家庭教師への気持ちとは違うものが含まれていたような気もしたが、自意識過剰だと即座に自分で否定した。僕は自分のことを大事に考え過ぎているのだ。純子だってただのお愛想を言ってるにすぎない。何か、特別な好意だなんて錯覚は、もうしない。
「また、来るから。そのときまでに聞きたいことがあったら、書き出しておいてね。出来れば、事前に教えてもらえると調べて来られるから嬉しいな」
「先生でも調べるんですか?」
「そうだよ。なんでも知ってるわけじゃないんだ。わからないことは調べて覚えて使いこなすんだよ。だから、わからないことがあったらどんどん聞いてね」
「時間以外のときでも連絡していいんですか?」
「いいとも。じゃ、メールアドレス教えておくから、質問があったらメールしといて。返事は授業のときにまとめてするから、その場では返信しないけど気にしないでね」
「はい、わかりました」
 こうして、三人目の生徒ともメールアドレスを交換することに成功し、僕はようやく明日の米が買える算段が出来たとホッとしながら帰途についた。
 純子の母親は、帰りもやはり顔を出さなかった。