矢車通り~オリジナル小説~

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稲妻お雪 四の伍

 この頃の大名には釜を掘るのは当たり前の習性であった。織田信長こそ不名誉の代表格ではあった。
「おいおい、われらはさような怪しい仲ではない。松平の家では御法度になっておるわ。それにこの大久保には見目良い妻女がおる」
 家康はあわてて手を振り、お雪の疑いを晴らそうとした。
「なんだ。女房持ちか。空家ならあたいが入りこもうと思ったのに、ちょっと残念だね」
 お雪は本気とも冗談ともつかぬ顔でいった。家康は小娘にしてやられたかと苦笑した。
「ところでお雪、おまえのお頭はどんな男かの」
 家康は変なほうにそれた話をもどそうと話題を変えた。
「そりゃあ、いけすかない奴に決まってるよ。あたいを人買いから買って乱波にする気なんだから」
 お雪は例の調子で罵った。
「まあ待て。いかに悪い主でも他家でそのようにいうものでないぞ。主を卑しめることは己を卑しめることに等しいとは思わんか?」
 家康はそういってお雪を諌めたつもりであった。
「家康の大将。そりゃあ心得違いというもんだよ。金で買ったお頭と買われたあたいとでは、行く道が違うのは当たり前だろう」
 お雪は猛然と食って掛かった。家康は怯んだが、やっと次のように言って、その場を繕った。
「世の中も変わったものよ。おい大久保、女を侮るととんだ目にあうぞ。お互い気をつけんとな。わっははは」
 家康は言い訳めいた照れ笑いをした。  
「苦しい酒だね。おっといけねえ。すっかりごちになっちまってお頭の事を忘れてたよ。怒ってるだろうな。あれでも一応お頭と名がついているんだ。返事を持って帰らないと義理がたたねえや」
 お雪は盃をおいて家康の返事を待った。
「あい分かった。さっそく書状を認めるが、お頭の名はなんといったかな」
 その家康の言葉を聞いてお雪はぷっと吹き出した。いくら三太夫が威張っても所詮この程度である。越後の乱波は東海一の弓取には名前も知ってもらえぬでないか。もっともお頭は負け惜しみをいうだろう。乱波が名前を憶えられては仕事にならねえと。しかし徳川家には服部半蔵というかなり名の知れた大物がいるではないか。
「おい、書けたぞ。お頭に礼を家康が言っておったと伝えてくれ。ようやく目の上の瘤がとれた。信長殿に援軍を送れるともな」
 家康は祐筆に書かせた書状に花押をしながらいった。
「ずいぶん大仰だね。たかが乱波の頭に返事を書くのに花押とはね」
 お雪は家康の律義さに呆れていった。
「いやいや、たとえ相手が橋の下の乞食でも、これが代のやり方じゃ」
 家康はそういってお雪に書状を渡した。
「確かに預かったよ」
 お雪はその書状を懐に入れると風のように走り去ってしまった。