矢車通り~オリジナル小説~

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束の間の休息

 携帯電話のディスプレイには神田春子と出ている。予定通り。それでも通話ボタンを押すのに十秒かかった。
「夕べ、隆正の背広から待ち合わせのメモを見つけたの」春子の声だ。
「紀美代の字だったわ。ホテルの名前」
 春子は今なんとか声を絞り出しているのだろう。もう昼下がりだ。半日以上、考えた末の電話。春子は決意をみなぎらせた鋭い目つきで、宙をにらんでいることだろう。高校入学からのつきあいだ。見当はつく。私はもう限界だ。隆正に私を選んで欲しい。全てを明るみに出して、はっきりさせたい。
「この際言わせてもらうけど、あなた、彼のお母さんのこと、悪口言うんですってね」私は冷静に自分で用意した台本を進めた。
「彼、嫌がってたわ。おれにとってはどちらも大事なのにって。私だったらどんなに腹が立っても絶対言わない。彼を愛しているもの」
 春子は電話の向こうで笑い出した。
「じゃ、同居してみて? 私は今日から一か月実家に帰るから、その間、あなたがこの家に来て、私の代わりに家事をしてよ」
 予想外だった。私は胃のあたりに鉛でも飲み込んだように、体が重くなった。彼の妻になって、幸せに暮らす。それがここ2年近い歳月、私が夢見たことだ。簡単に「代わる?」なんて。春子は私が欲しいものをいつも先に手に入れる。結婚。子供。そして愚痴る。私が欲しくてたまらないものをけなす。
 高校を卒業して15年。仕事を続けた私と専業主婦になった春子とでは、会う時間を作るのは難しい。私が仕事についてこぼしても、春子にはわからない。春子の愚痴は私をいらだたせる。私たちは疎遠になりつつあった。
 隆正とは勤め先が近くて、よく飲み屋で一緒になった。親友の夫が恋人になったのは、隆正が気の毒になったからだ。隆正は真面目一筋で精力的に仕事をしている。なのに陰で春子にけなされていた。
「私と一緒にいてくれないの。休みの日にはゴルフかパチンコ。私のほうが付き合おうとしても、男同士に割り込むなって。さみしいわ」と。そもそも夫のいない私に向かって。
「遊びに来るのは土曜日のお昼からで、夜の11時までいるでしょう。こっちは子供をお風呂に入れて、寝かせなくちゃならないのにどうして気をきかしてくれないのかしら。前はよく気の付く子だったのに」と、隆正にこぼしたそうだ。私のことを。
 私と隆正はホテルの一室でくつろぎながら、
「紀美代はいい気持ちで愚痴ってるんだろうけど、聞かされるこっちはたまんないよな」と言い合った。親友と夫に陰口をたたかれる、可哀想な女。でもしかたない。春子が鈍感だからいけないのだ。
「承知したわ。明日はそちらに帰るわ。荷物は一か月が過ぎてから、春子の実家に送ってあげるから心配しないで。あ、顔は見たくないから、絶対いないでよ」私は『帰る』を強調した。宣戦布告だ。
「こっちだって、あなたのチワワみたいな顔なんか見たくないわよ。謝れば許してあげてもよかったのに。勝手にしなさい!」
 電話は切れた。許してあげるですって。何様のつもり? 春子のほうこそ、泣いて「夫を返して」とでも言ってくれば引いてやってもよかったのに。本当に春子の家庭なんかぶち壊してやる。
 私は仕事を終えてワンルームのアパートに帰り、トランクに当座必要な品物を入れた。日常生活に必要なものは向こうに揃っている。物は物だ。割り切って使おう。大きなかばんとトランクを宅配業者に頼んで発送する。はたと気が付いた。隆正にも、そのお母さんの初枝にも、話していない。
 電話が鳴った。隆正からだ。
「今、春子から聞いたんだけど、春子の親父さんが倒れて、看病に行くんだって? 留守の家事は君に頼んだって言うんだけど。本当にいいの? 迷惑じゃない? 子供の幼稚園は夏休みだから、二人とも連れて行くんで、子供の面倒はないけどさ。うちはお袋と同居してるんだから、君に頼まなくてもいいと思うんだ。でも春子はどうしても君に来てもらわないと嫌だって言うんだよ」
 隆正の声を聞きながら、私はうっとりと容姿を思い浮かべた。背こそ160センチと低めだけれど、頭が小さくてバランスはいい。筋肉質でちょっと痩せている。顔は有名なアイドルによく似ていた。
 春子は隆正に浮気がばれたことは言っていないらしい。私がギブアップしたら、何事もなかったかのように元の鞘に収まる気なのだ。隆正には明日、説明すればいいだろう。
「いいのよ。私は仕事に行くから春子のようには出来ないけど、家族が二人増えたって家事くらい出来るわ。やらせてくださいな」
「……じゃあ、待ってる」心なしか隆正の声は、浮き立っているように聞こえた。
 翌日、私は隆正と待ち合わせて一緒に帰った。隆正に合鍵を渡される。いよいよ一緒に暮らせるのだ。家に入るとリビングで初枝がテレビを見ていた。私はいつ来ても初枝に会ったことが無い。自室から出てこない。最初が肝心。三つ指を突いてあいさつをした。初枝は白髪頭を淡いオレンジに染めて、角張った大きな顔に女優のような凝った化粧を施している。部屋の中だというのに、上等なベージュのブラウスと大きな花柄のスカートをはいていた。
「この人が家事をして下さるのね。じゃ、さっそくだけど夕飯のしたくをお願いね」
 私は素直に立ち上がった。でも初枝にとっては嫁の代わりをかって出た、嫁の友人のはずだ。なんだか、お手伝いさんに雇われたようだ。冷蔵庫を見ると一週間分の献立と、中身の一覧表がホワイトボードに書いてあった。今日はこの通りにするしかないが、明日からは私の料理を食べてもらいたい。私は献立を消した。
 朝になると、どこからともなく読経の声が聞こえてきた。時計は5時だ。頭の中で食事を作る時間などを計算する。まだ1時間寝ていられる。もう一度眠りに落ちそうになったとき、ふいに声が大きくなった。初枝だ。私の宿泊用に借りた子供部屋のドアの前で読んでいるらしい。しかたなく起きた。私がドアノブを回すと、声が止んだ。不審に思って階段をそっと降りる。リビングに初枝がいた。
「あら、意外と早起きね。朝ごはんのしたくを頼むわ」初枝はのんびりと言った。
 食事が終わると「洗濯して」と言い出した。そろそろ隆正が起きる頃だ。そんな時間は考えていない。
「帰ったらやりますから、そのままにしておいて下さい」
「あら、なにそれ。あなた、隆正の浮気相手なんでしょう? 同じ家の中で電話してたら筒抜けなのよね。私に点数稼いで、本妻になりたいと思わない? 私の気に入るように出来たら考えてあげてもいいわよ。隆正は私の言うことならなんでも聞くんだから。」
 私は初枝の下着を手洗いするように命じられた。初枝が散らかしたごみの始末。初枝の旅行のための手配。私は隆正に仕えたいのに、用事のほとんどは初枝のためにすることだった。初枝は年金暮らしで仕事はしていない。家事は私にやらせている。驚いたことに遊びにもめったに行かない。1日中、家でテレビを見ていて、仕事に疲れた私に家事を命じるのだ。
 隆正の家に来て2週間後、初枝は土日にかけて二泊三日の小旅行に出ることになった。やっと2人になれる。その夜は夫婦の寝室に2人で眠ることになった。
「お義母さんって。本当に何もしない人ね」私は何気なく口にした。
「なんだ。君も春子と同じなんだ」
「ええっ、違うよ。私は仕事してるんだもの」
「そうじゃなくて、お袋のことああだこうだ言うんだ。じゃ、子供がいるだけ春子のほうがましかな」
 百年の恋が醒めるのは、こんなときではないだろうか。この男は乳離れしていない。春子に隠れて会っていたときは、スリルがあった。ときめきがあった。私は恋していたのではなかった。春子の夫を奪いたかったのだ。春子がいなければ、どうでもいい男だ。私は隆正を避けて、子供部屋で眠った。
 日曜日、隆正はパチンコに行った。私は春子の実家に電話を入れた。
「いらない。返す」
「ご苦労さま。私も姑と離れていい休息になったから、もう、このことは言わない。でも、覚えておいてね。私が初枝に我慢している間、隆正とあなたがお楽しみなんてのは許せないわ」
「わかった。もう会わない。ひとつ聞いていい? 春子はなんで離婚しないの?」
「……ひとつ、経済力が無い。ふたつ、子供がいる。みっつ、私が離婚したら隆正は1人ぼっちになる」
「仕事は今からでも探せるでしょ。子供はいつか大きくなるじゃない。隆正には初枝がいるでしょ」
「いくらあれでも息子より長生きする気じゃないでしょう。初枝亡きあとはどうなるの。それにあなたほどは振り回されないわよ。私もう5年同居しているんだもの」
 私は初めて、春子はえらいと思った。
 私は姑のいない男を探そう。