矢車通り~オリジナル小説~

はてなダイアリーから移行させました。

紙おむつ狂騒(後編)14枚

 弘子と小坂井は五階建てのビルの前に立った。二階より上の窓ガラスは鏡になっているようで、まわりのオフィス街の景色を映している。一階は素通しで中の様子がよく見える。一階のほとんどがロビーのようだ。玄関にあたる自動ドアの横には『タマゴ製紙』と銘の入った大理石がでんっと置かれていた。この会社に食い込めれば、老人用紙おむつのシェアは半分確保できるはずだ。入社して四年目にして初めて遭遇するビッグタイトルマッチとなる。ここで勝たないと弘子の出世はおぼつかない。それどころか社運がかたむくかもしれない。
 弘子と小坂井はビルの中に入っていった。冷たい風があたり、すーっと汗が引っ込んだ。太陽に炙られていた素肌が、日陰に入って楽に呼吸ができるようになった感じがした。これなら小坂井も過ごしやすいだろうと弘子は観察してみたが、汗はやはり流れていた。
 受付にツカツカと歩み寄り、女子社員に話しかけた。
「ツムオ商事のものです」
「はい。承っております。エレベーターで五階にございます、第一会議室へどうぞ。社長と重役が待っております」
 エレベーターを指し示された。
 今までタマゴ製紙側の窓口だった仕入れ担当部長から申し渡されたこと反芻する。いわく、情で判断を誤ることがあるので、顔馴染となった部長は会議には出られない。いわく、先入観を与えないように商品内容についてはいっさい報告していない。いわく、プレゼンテーションのチャンスは一度きり。
 弘子はいま一度気持ちを引き締めて、案内されたとおりに最上階に向かった。
 エレベーターを降りたとたんに毛足の長い絨毯に足をとられて転びそうになり、後ろから小坂井に抱きとめられた。右腕の上腕を押さえる小坂井の手が柔らかく当たり、大事な壊れ物のように扱われているのを感じた。弘子の身体は小坂井の腕の大きさにぴったり合っていた。
 弘子は体の力が抜けそうになった。小坂井の腕のなかにすっぽりとはまっていると、このままこうしてぬくぬくと安心して暮らせたら幸せだろうかと思う。
 そんな女ではないことは自分が一番よく知っているのだが、どこでなにをしていても競争が始まってしまう生活(多分にそれは弘子自身の性格が招き寄せているのだが)に、ときどき心底疲れてしまうことがある。包み込んで休ませてくれる腕があったら、どんなにかなぐさめられるだろう。
 とにかく今は行かなくては。
 弘子は頭をまっすぐに立てると、両開きの重厚な木製のドアに向かって大股で歩き出した。ドアの横には制服姿の女子社員が待っていた。
「本日のお世話をさせていただきます」
「よろしくお願いいたします」
 弘子はにこやかに応じた。
「ホワイトボードと三色のマジックを用意いたしました。プロジェクターはお使いになりますか?」
「どんなタイプですか?」
「本体は天井に作りつけてございまして、パソコンとワイヤレス無線でつないでリモコン操作いたします」
「でしたら、私に操作手順を教えてください。実際に使うのは私になると思います」
 小坂井がきびきした口調で申し出た。弘子は腕時計を見た。きゅっと口を引き締める。
「では、私は先にみなさまにごあいさつを申し上げたいと思います」
 小坂井と別々に入室しては会議に出席しているひとたちにいぶかしがられるかもしれないが、まずひとりで斬り込んで会議の席を掌握したいという気持ちもあって、約束の時間を口実に案内を乞うた。
 女子社員がドアをノックした。
「どうぞ」
 中から太い声が応じてくる。弘子はちらっと小坂井を見る。大きくうなずいている。背筋をぴんとのばした。女子社員がドアを引いた。弘子をうながすように手をのばしドアの中へと導いた。
 左手を見ると大きなリクライニングチェアーに、足を組んだ白髪の男が座っていた。細身の身体にぴったり合ったスーツはブランドもの、しかもオーダーメイドに違いない。鋭い眼光で弘子を威圧する。弘子はまっすぐに見返した。商品のやりとりは対等の立場で行われてこそ、長く信用のおける取引になる。こちらが名もないメーカーの代理人であろうと、相手が店頭公開企業のトップであろうと、気持ちだけは同等に保っておく。結局、そのほうが得になるのを弘子は四年で学んでいた。
 社長の席を上座に重厚な作りの長机がコの字型に置いてあり、掛け心地のよさそうな革張りの回転椅子が八つ配置してあった。それぞれが古強者といった風情を見せている重役たち(なんと全員男)が椅子にふんぞりかえって並んでいる。全員が椅子の位置を調整して弘子のほうに身体を向けていた。
 机がない壁のほうには大きいホワイトボードが置いてあった。ボードの左斜め前には小さな演台、その後方ボードと並んで小さなデスクと椅子のセットがふたつある。
「初めまして。御歳蓋弘子と申します」
「社長の高橋源五郎です」
 にこりともせずに高橋が応じたのを見て、弘子は気持ちを引き締めた。
 名乗ったとたんに爆笑される。それが『おとしぶた』姓に与えられた試練だ。料理に使うあのふたですか、豚を落とすんですか、ああ歳に蓋と書くんですか、歳を封じ込めようというんですか、と、とりとめのない話が続く。こちらが怒らない限りは営業の場が和む名字ではある。
「こんなに平静に『おとしぶた』姓を受け止めていただいたのは初めてです。感服いたしました」
 丁寧に頭を下げて微笑んで見せ、心持ち胸を持ち上げた。居並ぶ男たちのうち三人が胸に視線を走らせる。意外ともろいかもしれない。弘子は内心ほくそえんだ。性的関心を持った相手に男は弱い。少なくとも今まで弘子が出会った男はそうだった。ましてビジネスの場では関心を持つのもいけないことだと男は思う(実は関心を持たれた女が受け入れるかどうかが重要なのだが)。理不尽な感情を抱いた相手の気持ちを和らげようと、多少の無理は聞いてくれるようになる。おそらく。
 手強いのはあとの五人と社長だけだ。
 その五人が一斉にざわめいた。振り返ると小坂井がドアをくぐって来るのが見えた。あきれたことにドアぎりぎりだ。頭をぶつけそうになっている。本人の性格とは関係なく、でかいというだけで威圧感を示してしまうことはある。五人は今日会ったばかりの小坂井に畏怖を感じるほど権威に弱いのだろうか。
「初めまして。小坂井春樹です」
 小坂井はすっとんきょうにすら聞こえる高音であいさつした。やはり緊張しているらしいことが声から察せられた。とたんに五人の表情がゆるむ。小坂井の威光は三十秒で崩れさった。
 だが、普段威光を見せつけているであろう社長には逆らわないだろう。そう弘子は判断した。
 社長を説得すれば契約は成る。弘子はまっすぐに社長を見ながら、ホワイトボードの前に立った。

 弘子は一時間半の説明を終えた。社長がほかの男たちの意見を聞いている。
 商品を採用するかどうかを決めるのは、向こうにとっても重要な問題のはずだ。結論が出るまでに時間がかかるだろう。ゆっくりと待つことにした。
 弘子はボードの横で資料の整理をしている小坂井を見た。本来なら自分で話したかったであろう技術方面の話も全部弘子にさせてくれ、自分は黒子に徹してサポートをしてくれた。男を立てるように要求する奴なら何人も知っているが、女を立てる男には初めて会った。この男となら真面目につきあってもいい。契約が決まるかどうかというときに不謹慎だったが、弘子は恋の始まりを予感していた。
 弘子がデスクセットの椅子に座ったのを見計らって、女子社員が弘子の目の前にアイスコーヒーを置いた。コーヒーの香りが鼻をくすぐり、お腹がぐるるっと鳴り出した。出てくるのだ。コーヒーはいつもユニットバスで飲んでいる。その香りで排便がうながされるのが条件反射になってしまっているのかも知れない。食事とトイレを一緒に済ますような時間の節約のしかたはもう絶対にやめようと思った。
 いつまで我慢できるものかわからない。腹の中の具合から、さっきのお汁粉はやわらかいみそに変わっているらしいと感じた。それが少しだけ出てくるらしい。今のうちにちょっとトイレに行かせてもらおうと、弘子はそっと立ち上がった。ほんの少し腹筋に力がこもった。
 トランペット並みの大音響が会議室を満たした。
 一瞬の静寂のあと、大爆笑が起こった。あの社長までが忍び笑いをしている。今まで熱心に読まれていた資料がいっせいに机の上に放り出される。ここでもうひと押ししなければ、ごくろうさまでプレゼンテーションは終わってしまうだろう。
 なにか気持ちをつなぐ材料は、と頭を高速回転させた。
 紙おむつが太ももにこすれた。紙おむつの中になにか硬いものがあると感じた。
 もしかすると……。
 弘子は起死回生の一発逆転を狙って勝負に出ることにした。横に座る小坂井の顔をちらっと振り返った。小坂井はにこにこと笑って、気にするなというようにうなずいている。わかっていないのだ。取引相手の気持ちが商品から離れてしまったことが。社長にこれを突きつけて契約を取るか、これを伏せて恋を取るか。せめて小坂井と言葉を交わして打ち合わせられれば──そんなことをしたらインパクトがなくなってしまう。
 前を向いた。
 男たちの顔をひとつひとつ見ながら、確かめるようにゆっくりと歩いた。
 社長の席にたどりついた。
 弘子は社長の目をしっかりと見てから、ゆっくりと回りお尻を社長の鼻先に持っていった。
「どうぞ、匂いを嗅いでください」
 社長は目を丸くしつつも、そっと鼻を近づけて深呼吸をした。
「何も匂いませんね」弘子は念を押す。
「まったく臭気はない」
 社長の返事を聞いてから、弘子は片足ずつ長机に載せ、ストッキングを脱ぎ捨てた。社長の横で仁王立ちになり、一気に紙おむつを脱いだ。紙おむつの形が変わらないようにそっと足を引き抜いて、社長に中を見せた。
「み、実があるじゃないか!」
「世界広しといえど、中身を伴ったおならの臭気を全て吸い取ってしまう紙おむつは存在しません。わが社の製品のみです!」
 男たちの間から拍手が起こった。社長は弘子の顔を紅潮させながら見つめている。そのねっとりとからみついてくるまなざしからすると、なにかほかのよからぬことを想像しているのかも知れなかったが、それを頭の中だけにしまっておいてくれるのならば騒ぎ立てるつもりはない。契約が取れるということが一番大事だ。
 女らしい恥じらいなど全て捨て去る覚悟はとうにできている。
 それでも、もしかすると生涯初めての恋人になるかも知れなかった男には、少々、わりと、実はとっても未練が残ってはいた。いたが……。目の前でほかの男にパンツの中身を見せてしまっては望みはない。
「よし、君の度胸と熱意と、なにより商品の確かさに敬意を表して、契約しよう」
 弘子は社長の気持ちを掴んだ。泣きそうな顔になりながら、笑った。
 そっと小坂井を振り返る。小坂井は滂沱の涙を拭おうともせず、棒立ちになっていた。

 弘子は会社を出て、とぼとぼと歩いた。小坂井はいない。駅についた。弘子は切符を買おうとして財布がないことに気がついた。財布どころかなんにも持っていない。どこに置いたか思い出せず、呆然と立ち尽くした。
「弘子さーん!」
 小坂井が呼んだ。どうやらはるか後方にいるらしい。
 弘子がゆっくりと振り向くと、小坂井の右手に書類が、左手にスーパーのナイロン袋が、腕に弘子のリュックがあった。契約が取れたと思ったところから、弘子の記憶が飛んでいる。会議の席で後始末をした覚えがないということは――袋の中身は紙おむつとストッキングだろう。弘子の顔に血が上った。
 追いついてきた小坂井から無言で荷物をひったくる。書類を確かめたら契約書だった。ちゃんと判子をもらってあった。リュックにしまう。
 袋をどうするかはちょっと考えた。これから電車に乗るのに実入りの紙おむつを持ち歩くのははばかられる。
 結局リュックに放り込んだ。臭気は決してもれないのだ。
「いいですか? 朝の続きをして」
「続き……あったの?」
「当然です。やはり普通のひとではないです。弘子さん」
「それ、ぜんぜん褒めてないから」
「すみません」
 小坂井が頭を下げてくる。どういうわけだか小坂井は弘子との身長差を理解しない。小坂井の顔の前には弘子の顔があった。
「結婚してください」
 小坂井の言葉と一緒に吐きだされた息づかいを唇で感じた。

                                   終