矢車通り~オリジナル小説~

はてなダイアリーから移行させました。

紙おむつ狂騒(前編)17枚

 ひとりを慎む。
 そんな言葉は二十六歳になったときゴミ箱に叩き込んだ。
 全裸の弘子はドアの向こうのテレビ画面にある時計の表示を見た。生焼けのトーストをかじっては胃にアイスコーヒーで流し込み、五口で食べ終える。コップとお皿を載せたトレイを、左手でひざの上から風呂のふたの上に移動させ、右手で歯ブラシをつかむ。歯を磨きつつ、お尻のほうにも力を入れる。
 会議に間に合うためには弘子の住むワンルームマンションを二十分後に出なくてはならない。歯ブラシを置いて口をゆすいだ。下の口では中身が半分ほど出たようだ。今日の中身は硬い感触がする。ちょっと集中してすっきりしておこう。
 マヨネーズのチューブに残った最後の一絞りを出すときのことを想像してみた。
 腸がチューブになった。前腹筋と側腹筋が手だ。腹圧を高めて腸の中身を絞り出す。ちょっと力をいれてみたが、マヨネーズでは柔らかすぎてイメージが合わない。粘土はどうだろう。試してみたが硬すぎる。時間がないというのに、こんなことにこだわる自分が情けなくなる。
 この際なんだっていい。くそもみそも──と考えかけてひざを叩いた。
 みそならぴったり。マヨネーズの容器に入ったみそを思い浮かべる。それを前腹筋と側腹筋で押し下げて出す。
 腹のあたりを意識した。前腹筋を締めて直腸に力を伝えていく。横隔膜を押し下げてみそに働きかける。みそが少し動いた。出口の皮が反って少しのびた。みその固さによっては破れ目が入って出血することもある。慎重に力を加えていく。
 筋肉にこもる力が大きくなり、全身から汗が吹き出してきた。ようやく梅雨が明けたばかりの八月はじめ、力んでいたらユニットバスもサウナに変身する。
 出口がめくれては元に戻りを繰り返している。今日のみその固さなら無理をしても大丈夫だろう。再び前腹筋に力を込める。側腹筋がひっぱられ腸が絞られる。少し、また少し、と、みそは出口を通っていき、ついに長くて硬いものは腸から出ていった。筋肉から力が抜けた。
 と、そのとき、腹の奥が鳴ったと思いきや、蛇口をひねったかのような奔流が起こった。みその次には――お汁粉が待っていたのだ。
 便器の中にお汁粉のシャワーが降った。最初の暴走でだいたい出てしまった感じがするが、まだ腸はなにかを出そうと動いている。意志とはなんの関係もないところで腹が収縮する。
 テレビの時計はあと十五分で身支度を終えなければならないと知らせている。ここでお尻に構うのをやめにして、次の動作に移るべきか、すっきりするまで粘るべきか、半分腰を浮かせたまま止まってしまった。いや、迷う時間が一番惜しいと思いなおす。
 物を置くためだけにある風呂のふたに載せた食器を、シャワーを使って適当に洗った。食器をユニットバスの外に出してから、せっけんで細かい泡を立てて顔に塗りたくる。大柄な身体を深く前に倒して洗面台に貯めたお湯で顔を洗い、タオルでたたくように水滴をぬぐった。体にシャワーを当てて汗を洗い流しながら化粧を始める。乳液、クリーム、ファンデーションと塗っていく。顔が小さくて助かったと思う。今日待ち合わせている小坂井は男だから化粧はしないだろうけれど、塗らなくてはならないとしたら三倍の時間がかかるだろう。
 シャワーを止めて身体の水滴を振り払い、タオルで押さえて乾かした。
 まっすぐ鏡を覗き込んでみると、短く刈り込んだ髪と凹凸の少ないパーツのせいで、のほほんと人生を歩んでいるような少年の顔に見えた。ひとえまぶたに茶系のアイシャドウをのせ、少したれ気味の目がひき締めるため、目尻があがるようにアイラインを入れた。細く手入れした眉にも、少し色を足してはっきりさせた。鼻筋にそってアイラインを塗っておいて、見えなくなるまで手で消していく。影がついてだんごっ鼻が少しスマートになると唇の薄さが気になってきた。思い切って濃い紅を入れて輪郭から少しはみ出させて強調する。
 仕事が出来そうなシャープな女顔になったのに満足して紅筆を置いた。
 お腹に左手を当ててみた。奥のほうにしっくりこない場所がある。お汁粉がまだ残っているのかもしれない。これから売り込みにいく予定の、大人用紙おむつを身につける。これのお世話になることはないと思うが、どうしてもトイレに行けないとき――電車のなかとか――のことを考えれば履いておくのが無難だろう。
 用意しておいたグレーの半袖スーツを着る。軽くて涼しい半オーダー品で愛用している。いつも長袖のスーツを着なくてはならない男性は大変だなと思う。
 小坂井はどんな格好で来るだろうか。普段は服装自由だと言っていた。技術職とはいえサラリーマンである以上、スーツのひとつくらいは持っているはずだ。たぶん大きさの都合でオーダーメイドにちがいない。一張羅かも知れない。ワイシャツにネクタイ、靴下まではあるだろうけれど──弘子はドレッサーの引き出しから会社のロゴマーク入りのネクタイピンを取り出した。
 愛用のアタッシュケース型リュックに今日使う書類と一緒にネクタイピンも突っ込んだ。一緒に会議に出る小坂井には時間と場所を連絡してある。両のこぶしを握りしめて、よし、と呟いて部屋を出た。

 息せき切って急行電車に飛び乗った。腕時計を確かめる。これで時間には間に合うだろう。三十分の休憩といきたいところだが、車内は満員でみじろぎするのがやっとの状態とくれば、リラックスしているわけにもいかない。顔に当たる風は冷たいすぎるくらいだがリュックを背中から降ろして手に提げると、下のほうに生暖かい空気が澱んでいるのが手の甲に感じられた。電車が揺れるたびに弘子はドアに押しつけられ、リュックを降ろしたぶん空いたはずの場所がじわじわと埋まっていき、ひととひととの隙間が肩が触れるくらいの幅に自然と揃っていく。
 お尻に指先が這う感触がした。紙おむつの上からもはっきりわかる。小坂井と性能実験をしたときは、自分の指先の感触のほうが印象が強くなってしまって、自分でなでてみてもお尻の感触はよくわからなかった。小坂井に触ってみてもらったのだが、薄さは下着と同じと謳ってしまっていいかどうか微妙なくらい、はっきりとは指先を感じ取れなかった。実験中はこちらも緊張していて気持ちが硬くなっていたのかもしれないし、もしかすると小坂井の触り方が遠慮しすぎていたのかもしれない。いまは指先の当たる場所がどこと言えるくらい、ちゃんとわかる。
 指の持ち主は手のひらを押しつけてきた。商品性能のほうを先に考えてしまって嫌がり損ねたせいか、手の持ち主は弘子がお尻をなでられるのを受け入れていると勘違いしたようだ。身体の奥が怒りで熱くなる。弘子のお腹のなかでお汁粉がかき回されて出口に向かおうとしている。急に早くなった呼吸を静め、お腹をなだめようと深呼吸をした。
 弘子はちょっと振り向いてみた。口をだらしなく開けた男がにたにたしている。背広に社員章をつけているのを見て、弘子は内心溜め息をついて視線を戻した。無防備すぎる。痴漢にとって人物を特定されることは一番避けねばならないことのはずだろうに。
 最近ではちゃんと痴漢を捕まえて駅員に突き出す女性も多いのに、こんなにはっきり目撃されたら「自分ではない」などと言い抜けるのは不可能だ。捕まったら相応の罰がある。会社に知られてこの不況下に仕事先を失ったりしたら文字通り路頭に迷うではないか。
 お尻の割れ目に手を入れようとしてくるに至って路頭に迷わせてやろうかと一瞬頭に血が上ったが、今回は勘違いさせた弘子にも落ち度がないとは言えない。第一、面倒なことに関わっている時間はない。
 弘子は何度も目をしばたたかせて目を潤ませ、口を半開きにして目尻を下げて、改めて男の顔を見た。ズボンの股下に右手を滑り込ませる。男は鼻息を荒くして腰を押しつけてきた。股間を探って丸いものを探す。簡単に見つかった。
 弘子は艶然と微笑んだまま、思いっきり丸いものを握りつぶした。
 声もなく男が白目を剥いた。次に目を覚ましたときには、二度と痴漢などするまいと心に誓うだろう。たぶん。
 力が抜けた身体が重かったが、後始末はしなくてはならない。弘子はしかたなく男を支え続けた。
 やがて、弘子がいるほうとは反対側のドアが開いた。ひとが減っていく。弘子は男をそっとドアにもたれさせて電車を降りた。後ろでものが落ちる鈍い音がした。もしかすると駅員に突き出したほうが親切だったかもしれないなと思ったが、ホームに降り立った弘子は男のことはもう頭から振り払っていた。

 弘子は改札口を出て立ちどまった。
「御歳蓋さん」
 男性にしては高めの声が右斜め上から降ってきて、弘子は少し首を縮めつつそちらのほうへ顔を向けた。相変わらずでかい。二十九にもなって会うたびに大きさを変化させていたら、人間という種の定義に収まらないだろうということはわかっているが、身長百七十センチの弘子は相手をでかいと思うことが滅多にない。その弘子の頭が胸のあたりまでしか届かない。小坂井は横幅だってちょっと太めの弘子の二倍はありそうだ。五分刈りの髪を乗せた頭といい、くっつきそうな太くて長い眉といい、あぐらをかいた鼻といい、ステーキにしたら食べ応えのありそうな唇といい、何度見てもでかい。目だけが小さい。
「私のことは弘子かツムオ商事と呼んで。そのおとしぶたって苗字、嫌なの」
 悪びれもせず弘子は憤然と小坂井をねめつけた。小坂井はビクッと身を震わせて頭を下げた。その格好はまるで弘子の上に覆いかぶさって脅しているようだが、目は落ち着きなくきょろきょろと動いている。外から二人を見たらとてもそうは思えないだろうが、小坂井は弘子に謝っているのだ。
 弘子は口元をゆるめ、手を下から上にばたばたと振って小坂井の頭を上げさせた。改めて服装をチェックする。
 小坂井は重そうな紺色のスーツにワイシャツは白でネクタイはエンジという、いまどき学校出たての新人でもここまでセンスが悪くはないだろう、と思えるような野暮ったい格好をしていた。弘子はネクタイピンを取り出した。
「せめて、これつけて」
 小坂井の額から汗が流れだした。
「いえ、そんなものをいただく理由はありません」
「会社の支給品だから気にすることないわ。メッキの金だし」
「それは男が結納の席でもらうものでしょう」
 弘子はネクタイピンにそんな意味があるとは知らなかった。小坂井の顔が急に汗ばんだのはどうやら暑さのせいばかりではなさそうだが、弘子の恋愛方面にだけ妙に鈍い神経がそのことに気がついたかどうか。
「まあ、気にせずもらっといてよ。ロゴマーク入りなんて仕事のときしか使えないんだし」
「それ部外者の俺がしてちゃいけないんじゃないんですか?」
「今日は部内者よ! 覚えておいて。商品の売り込みに成功するかどうかは、営業マンの腕にかかってるの。今までの研究費、開発費、何より商品を形にするまでのたくさんのひとの苦労。それを全部背負って商品説明に行くの。それがわかってないと熱心な売り込みはできないし、たくさんの思いを背負い過ぎても営業するのが怖くなったり、売り込みに熱を入れすぎて取引相手に敬遠されたりする」
 小坂井の他人事みたいな言い方に熱くなって、ここまで一気にまくしたててしまったが、小坂井は製造元の技術屋で営業の現場に出たことがない。まして相手の会社の会議に出席して商品の説明をして売り込んだことなどない。どう言えば自分の立場を自覚してくれるのだろうか。胃のあたりがしゅくしゅくと痛んだ。できるだけ易しい言葉を選んでみる。
「私はあなたが開発した商品を先方が買ってくれる気になるようにあらゆる手段を使う。そのときね。私と一緒にいるあなたが私と心をひとつにしてくれないと、とってもやりにくいのよ。私たちが違う会社だから別なんですなんて態度でいたら、先方だって誰と話したらいいのかわからなくなって困るしね。お願いだから、うちの会社のネクタイピンをつけて」
 小坂井は大汗をかきながら首をひねっている。弘子のお腹ではお汁粉が出ようかどうしようか迷っている。半日でいいからもってくれと弘子は祈った。お腹から小坂井に意識を戻して、話がずれているのに気がついた。小坂井にもらう理由がないと言われたあたりから。
「小坂井さんの今日の格好、アクセントがなくてしまりがないの。たぶんそんな洋服着てくるだろうと思ったからネクタイピンを持ってきたの。全社員に支給される品物で悪いけど、本当に使って構わないものだからつけてみて。かっこよくなるから」
 かっこよく──などと言われて照れたのか、小坂井は顔を真っ赤にした。ようやくネクタイピンを受け取って胸につけた。弘子は手を伸ばして小坂井のワイシャツのエリを直した。首筋に滝のような汗が流れていた。
「うん。よくなった。今は軽量の清涼スーツなんてのもあるらしいから、夏用に一着買ってもいいんじゃないかな」
「使う機会があんまりないんで」
「あら、今回の売り込みに成功したら、これからこんなことしょっちゅうよ。あなたが手塩にかけた商品なんだもの。一個でもたくさん売れるように張り切って営業させていただくよ?」
「そうなったら一着買います」
「よし、じゃ行くわよ」
 弘子は大手を振って歩きだした。小坂井は隣に並んだ。
「変なこと聞きますけど」
「なに?」
「俺が怖くないですか?」
「小坂井さん、私が怖がるようなことした覚えある?」
「いいえ」
「じゃ、なんで怖がるの?」
「でかいから」
「態度はぜんぜんでかくないから怖くない」
「なるほど」
「なんで?」
「弘子さんみたいに、ずけずけものを言う女性と出会ったことがなかったんです。もしかするとでかいから怖がられていたかなって思って」
「ずけずけ?」
「あ、すみません」
 弘子は溜め息をついた。
「もし、なんか小坂井さんのほうに原因があるとしたら、態度が小さいせいかもね」
「は?」
「傷つけそうで言いにくいのかも」
「そんな感じしますか?」
「する。文句言うとすぐ謝るし」
「今んとこ傷つけられたりしてません。そんなにヤワじゃないです。よかったらつきあってみませんか?」
 ふた言めとみ言めの間に飛躍があることを本人もわかっているのか、小坂井の声は微妙に震えていた。弘子はこめかみに右手人差し指を当てて考えた。
「うーん」
 弘子はお腹に左手を当てた。これからの売り込みを考えると痛くなる。小坂井は初めての営業だというのに、弘子につきあいを申し込めるほど気持ちに余裕があるのだろうか。現場を知らないから想像が出来ないだけかもしれないが、この男は度胸があるのかないのか。
「そういう対象として考えたことがなかったんで、今すぐ返事は出来ないなあ。その話は会議が終わってからでいい?」
「あ、ええ、いいです。っていうか、あんまり会う機会がないから、今日はどうしても言わないとって考えてたんです」
 それで――と納得はしたものの、やはりなんと言えばいいのかわからない。そのまま弘子と小坂井は無言で歩いた。