矢車通り~オリジナル小説~

はてなダイアリーから移行させました。

ギブアンドテイク(前編)15枚

 御歳蓋弘子は右手のマイクを口元に近づけた。丹前の袂がゆらゆらと揺れた。浴衣が袖口からのぞく左手でそれを押さえながら顔を左に向けた。宴会場の上座中央であぐらをかいている内水ユリカを見た。
 毛先はばらばらなのにまとまった印象のある短い髪形。
 しっかり塗りたくっているのにそうは見えないすっきりした化粧。
 女性社員二十一名に「あんなふうになるなら歳を取るのも悪くない」と言わしめている三十五歳独身ベテラン事務員ユリカは、ちょっとあごを上に向けてゆっくりと弘子にうなずいた。
 弘子はコの字型に座っている女性社員たちを眺めた。彼女たちの前にはごちそうを乗せた膳がある。上座に並ぶベテランの五人は、浴衣のすそが乱れるのも構わず足を崩し、にやにやと笑っていた。弘子のすぐ前に列を作っている七人とその向かいに列を作っている九人は、慣れない立場に戸惑っているのか身を縮めて正座をしていた。弘子から一番遠い席にいる新入社員の芥小路町子など、整った小顔を青ざめさせてぶるぶる震えていた。
「それでは、我がツムオ商事、恒例新年会を始めます。男性諸君! 入場してください!」
 弘子の声に応えてコの字の広がった先にある襖がするすると開いた。弘子はあやうく取り落としそうになったマイクを空中で止めた。
 男性社員の中央に大きな山があった。いや、それは人間だ。五分刈りの頭に太くて長い眉とあぐらをかいた鼻と小さい目を付けている。焼いたら食べでがありそうな分厚い唇を見て弘子はこほんと咳払いをした。
「男性諸君。席についてください」
 いつもと違う声にならないように慎重に発声した。立ち上がった男性社員総勢二十一名プラス一は、隣に手を伸ばしても届かないほどゆったりと配膳された席へと散った。厭裸視(いやらし)啓介と何人かの男性社員が、町子のほうへと体を向けたのを見て弘子は急いでつけ加えた。
「女性社員一人につき、接待役一人になるように回りを見ながら適当に散らばってください」
 男性社員の恨みがましそうな目がいくつか弘子に向いた。
「適宜入れ代わってくださって構いませんので」
 弘子はにっこり笑った。
「厭裸視さんは、まず内水さんの席にお願いします」
 一瞬ユリカは顔をしかめたが、弘子が目を合わせるとうなずいてくれた。啓介は町子のほうを見ながら、足を引きずるようにしてユリカのほうへ歩き出した。芥小路町子はそんな回りの様子も目に入らないらしく、ただただ身を硬くしている。そんな世間ずれしていない風情が一部の男性社員の心を捉え、陰で町子争奪戦が繰り広げられているなんてことは本人は知るよしもない。
 町子の身長は百五十センチそこそこと、弘子より二十センチも小さい。ラッシュにでも巻き込まれたら踏みつぶされそうだ。体はスレンダーで骨格標本に直接皮がはりついているんじゃないかと思えるくらい脂肪がない。まあ出るべきところはしっかり出ているが、グラマーという点では弘子のほうが上だ。一重まぶた垂れ目低い鼻薄い唇と特徴のない弘子の顔に比べて、小さな輪郭に大きな目と小さいながら高い鼻と鼻の幅からはみださない唇を持つ町子の顔は麗しい。
 なんだか妙に町子に対抗意識が出てきたのを感じて弘子は戸惑った。会社では仕事が出来る奴がえらいのであって、モテるとか容姿がいいとかはどうでもいいことだ。
 さきほどの山、いや、弘子の婚約者小坂井春樹がにこにこと笑いながら弘子の席にまっすぐ歩いてくるのを見て、ようやく自分の気持ちがどうして殺伐としたのか合点がいった。
 八月の始めに小坂井のほうからプロポーズしてきてつきあい始めたというのに、こいつときたら、科学技術館だの、寄生虫博物館だの、ガスの科学館だのと、色気のかけらもない場所を連れ回すだけで、弘子のほうからリアクションを起こさないと手も握らない。好きな分野の話をとくとくとする小坂井は案外かっこよくて見てて楽しいが、これが二十九歳の男と二十六歳の女がするデートなんだろうかと思うと大いに疑問だ。
 小坂井との関係がどんなものなのかよくわからない。町子のようなかわいい女の子を見たら、そちらに小坂井の気持ちが動いてしまうのではないかと不安になる(よく考えれば小坂井の女性の趣味はかなり特殊だということがわかるはずだが、弘子もこと恋愛に関しては十分小娘なのである)。
 男性社員がしぶしぶながら散らばったのを見て、弘子はすぐ前の自分の席に座った。小坂井がどすんと向かいに座ってきた。
「よその会社のひとがどうして来てるのよ」
「取引先代表とかで宴会だけ来いって社長さんに招かれた」
「今までそんなことなかったけど」
「人数合わせだそうだ」
 弘子の会社は事務を執る少数の女性社員と営業に回る多数の男性社員で構成されている。弘子のように女性で営業に出ている者が増えたために男女比率が接近しているが、本来人数が合わないものだ。今さら人数を合わせるなんて、あからさまに怪しい。なんかある。
 上座のあたりで酌をしている社長の砧草太郎をためすがめつ見た。まだ四十そこそこで自らも営業に回る砧は、中肉中背眼鏡に七三分けの黒髪とまったく特徴がない外見なのに、頭の中には突拍子もない計画を秘めていたりする。あの砧がどんな策略を巡らせているのかは弘子にわかるはずもない。
 何が起こるかは起こってみてからのお楽しみね。
 内心で苦笑しながら小坂井の酌を受けた。
 何人か男性社員が回ってきたあと、砧が弘子の席についた。弘子は空の盃を差し出した。砧がとっくりを傾けて酒を注ぐ。少しずつ増える重みを手をちょっと下げて受け止めた。砧はとっくりの首を右手でつまみ左手で底を押さえたまま正座してしている。待たせておくのは申し訳ないような気がして急いで酒を飲み干して、また盃を前に出す。
 何度か繰り返したあと、弘子はため息をつきながら口を開いた。
「楽しいですか?」
「あんまり楽しくない」
「ですよね」
「酌をしてもらうのは楽しい」
「はあ」
「酌をしてもらいたかったら、自分のほうから、まず、しなくてはならない」
「え、ええ」
「テイクのためにギブをする。当然だろう」
「そうですね」
 あんまりされたくないギブもあるんだけどなと思いつつ、弘子は室内を見回した。男性の接待というのは、細かいことに気を配らないというか、相手の表情を読まないというか、どことなく繊細さに欠けるような気がする。かと言って、ここで男性社員に細やかな心配りなど要求などすれば、反対の立場になったとき男性社員が女性社員にそれを求めてくる。自分が求められたくないことは、求めないでおくのが無難だろう。お互いにどこまで相手の要求を呑めるかといった距離感を計るには、代わりばんこに接待役になるというのはいいやりかたかも知れない。
 ただし、どんなことでも呑み込みの悪い奴というのは存在する。それが二人いて出会ってしまったら――ちょっとやっかいだ。
「社長」
 弘子は目配せして、砧の斜め左後ろを示した。十月に入社してきた厭裸視啓介が町子の席についたところだ。啓介は町子のひざに手を置いて、下のほうから舐めるように町子の首筋を見ている。町子は目をそらして啓介の視線を逃れようとしているらしい。
「なんで、あんなの雇ったんですか」
 弘子は恨みがましくため息をついて見せた。
「どっちのことだ?」
 砧は右に体をずらして弘子の斜め向かいに移動した。砧と弘子が相手を見ながら話しているように見えるはずだが、その実、厭裸視と町子の様子を視界のすみに引っ掛けている。
「厭裸視さんのほうです。芥小路さんはまだ教育次第で変わるでしょうが、厭裸視さんのほうは見込みないんじゃないですか? 社会人を十年もやっててあれですよ?」
「彼だってまだ変わるさ」
「社長ほどではありませんが、私もそれなりにひとを見ているつもりです。彼のスケベは筋金入りです」
「男なんてどれもスケベさ。時と場合と場所をわきまえられるかどうかだ」
「自分のほうがサービスしなくてはならない場合にあれですよ?」
 啓介は何やら耳元で町子に囁いていて、町子は目を伏せて啓介の唇から逃げようとしている。
「いったん雇った以上、よほどのことがない限り辞めさせるわけにはいかない」
「ですから、雇う前にですね」
「彼の営業成績は君よりいいよ」
 いきなり痛いところを突かれて言葉に詰まった。
「スケベも悪いことばかりではない。男同士の話ができたりね」
 砧は細い目を更に糸並みにして、弘子の目を覗き込んだ。
「まあ、だからといって、あの態度を許す気はない。君が社内の風紀を教えてやってくれないか?」
「それでしたらユリカさんに」
「彼女に直接頼んだら、彼は辞職してしまうよ」
 ユリカに社長公認でいびられたら三日と持つまい。
「あら、私だってひけはとりませんよ」
「君にはストッパーを用意した」
 砧は小坂井のほうをちらっと見た。なるほどそのために呼んだのかと納得はしたものの、基本的に争いごとを好まない小坂井が本当にストッパーになるんだろうか。
「では、今夜のうちに?」
「お灸をすえてはやりたいが、会社が何日も陰湿な空気に染まるのは俺が嫌だ」
「わかりました。それではユリカさんたちにちょっと頼んで……」
 弘子は今立てた計画を砧に話した。
「うん、男性社員はどうする?」
「どちらに付くかわかりませんから」
「俺と小坂井くんだけということで」
「今日の町子さんへの態度を口実に」
「そうだな。では作戦行動中ダシに使う彼女は俺の所に寄越しておいて……」
「他の女子社員には、この作戦が社長の意向であることは?」
「後ろ盾があると調子に乗りすぎるかも知れないな。言わないでくれ。必要なときには俺が言う」
「わかりました」
 啓介は町子の肩に手をかけて顔を首筋に近づけ、ほとんど押し倒さんばかりになっている。
「では、それでいこう」
 砧はすくっと立ち上がり、肩の上に手を持ち上げてぱんぱんと打ち合わせた。
「はい、交代。女性社員の諸君は次の間にいったん下がってくれ。準備が出来たら呼ぶ」
「はい」とあちこちから威勢のいい声がした。上座の五人は明らかに残念そうだったが、大半は苦行から解放されたといった喜びに満ちた声だった。
 接待役には膳がない。今までしつらえてあった女性社員の膳は下げられて、新しく男性社員の膳が用意される。かなり時間がかかるはずだ。
 弘子たちは宴会場と襖で隔てられた控室に入った。女性全員がいるのを確かめて襖を閉めると、すぐ後ろにいた町子が声を殺して泣きじゃくり始めた。今まで我慢していたのかと見直しながら、作戦開始のチャンスとばかりに猫なで声で話しかけた。
「どうしたの?」
「厭裸視さんが、彼氏はいるのとか、もうバージンは捨てたのとか、いろいろ答えにくいことを聞いてきて。黙ってたら女のくせに愛想がないってねちねちねちねちねちねちねち」
「ああ、わかる。うんうん」
「私のひざに手を乗せたり、肩に手を回したり、あとでやらせろとか言うんです」
「ああ、はいはい」
 どこに行っても、そのくらいの軽口は浴びせられる。いちいちまともに受け取るほうが真面目すぎる、と弘子は思うものだからなんとなく返事にも力が入らない。
「そりゃ言い過ぎだ。ひどいな。厭裸視は」
 ユリカが横から話に加わってきた。弘子には都合のいい展開だ。
「前からいやらしいこと言うとは思ってたけど、ねえ」
「女の敵です。断固やっつけるべきです」
「やなやつう。バカじゃないの、ぼこぼこにしちゃおうよ」
 回りにいる女性社員からも厭裸視への不満が口々に出ててくる。あちこちでひどいセクシャルハラスメントをしているのだろう。弘子が反感をあおるまでもなかった。この分ならベテラン社員だけではなくて、女性社員全員の協力が得られそうだ。
「私に考えがあるんだけど」
 弘子がひときわ声を張り上げると、みんな一斉にうなずいた。そのうなずき方があまりにもぴったりとシンクロナイズしていて、かえって弘子はためらった。途中で誰かが(弘子が期待しているのはユリカだが)『やめよう』と言い出すことを計算に入れた計画なのに、この勢いだと突っ走ってしまうかもしれない。いや、そこらへんは厭裸視の態度次第かと思い直した。
「じゃ、作戦を聞いて」
 弘子はみんなの顔を見回して、にっこりと笑った。