矢車通り~オリジナル小説~

はてなダイアリーから移行させました。

ギブアンドテイク(後編)20枚

 作戦を話し終えたとき、町子だけが首を横に振った。
「それはいくらなんでもやりすぎではありませんか?」
 女性社員たちはハッと息を呑んだ。作戦を聞いて盛り上がる女性社員のただ中で、こんなセリフを言い出せるなんて。弘子はかなり町子を見直した。
 町子はコピーを取るときに、余白が一ミリずれるとやり直す奴だ。適当にやっておくということを知らない。さっきの厭裸視のセクハラだって適当に拒絶しておけばいいものを、なまじ真面目につきあおうとするからつけ込まれる。社会経験を積めばいずれは真面目にやらなくてはならないことと、適当にやっておけばいいことの区別がつくようになるだろうが……。要するに子供なんだよなあと思う弘子は正直町子が苦手だったのだ。
 場から浮くのを怖がらずに自分の意見を言えるとはたいした奴だ。いや、ただ単に空気が読めないだけかもしれないが。いずれにせよ、ここで止めるのは早すぎる。
「やりすぎじゃないとは思うけど、厭裸視さんが芥小路さんを逆恨みする可能性もあるから、現場にはいないほうがいいかも知れない。誰もいないところでセクハラされたら、芥小路さんは対抗できないだろうしね」
 実行班からは、はずれてもいい。どの道、作戦行動中は砧に預けることになっている。弘子は町子を見据えた。
「そうね。矢面に立つのは彼女になる。現場にはいないほうがいい」
 ユリカがすぐに援護してくれた。ここで女子社員対町子などという構図を作ってしまったら、肝心の作戦が決行不能となるかもしれない。たぶん同じことを考えたであろうユリカの気遣いが嬉しかった。町子も作戦の取りやめまでは無理とわかったのか、かすかだがうなずいている。
「もし、あとで厭裸視さんに『おまえのせいで』とか言われたら『なんのことだかわかりません』ってちゃんととぼけるのよ」
 弘子が念を押すと町子は大きく目を見開いてしばらく固まっていたが、やがてかくかくとうなずいた。町子にとってはウソをつくというのは一大決心が要ることなんだろう。
「じゃ、準備を始めましょうか」
 ユリカの呼びかけを受けて、女性社員はそれぞれの用意をするために宴会場から抜け出した。

 弘子は正座をして三つ指をついた。襖に手をかけた町子に目で合図を送る。町子ともう一人の女性社員が襖に手をかけてしずしずと後ずさりした。弘子はゆったりと顔を上げた。膳の向こうに居並ぶ男性社員から、一斉にどよめきが流れる。
 それもそのはず、弘子を始め女性社員たちの顔は厚く塗られたファンデーションの上にピンクや紫などのセンセーショナルなアイシャドウ、真っ赤な唇、細い眉毛、どきつい頬紅などで、隈取りよろしく彩られており、旅館のそっけない浴衣にぜんぜん合わないどぎつい顔になっている。
 弘子は男性社員の反応に満足しつつ正面に顔を向けた。
「さて、みなさん、参りましょうか」
「はあああいいい」
 女性社員が一斉に立ち上がり、宴会場に散った。
「まあまあ、おひとつどうぞ」
「さあ、召し上がれ」
「最近調子どう?」
 などなど。女性社員の楽しそうな声があちらこちらから沸き起こった。いつもはしかたなさそうにしか酌をしない女性社員の愛想の良さにとまどいながらも、男性社員は次第に緊張を解いていく。啓介には特定の女性社員はつかず、近寄って酌をしては何も言わせずに交代するというのを繰り返す手筈になっている。
 弘子は町子をうながして砧と小坂井が並んでいる席についた。町子を砧のそばに置けば、必然的に小坂井のそば、となるのがなんとなく嫌だったりするがしかたない。
「社長、芥小路さんの話を聞いてあげてください」
「ひ、弘子さん、私」
 町子はうつむいて首を横に振っている。
「今まで溜め込んでたこと、聞いてもらいなさい。社長にしっかり聞いてもらって、今後のことを考えてもらわないとね」
「はあ」
「あなたにもいいと思う。私じゃ相談相手にならないから」
「そうですね。弘子さんならどんな愚痴を聞かされても『そんな奴はぶっとばせ』で済ませてしまいそうです」
 小坂井が口をはさんできた。
「そんなに単純じゃないわよ」
 弘子が口を尖らせると砧は笑い出した。
「君でもそんな顔をするんだなあ。いや、小坂井くんの観察は正確だと思うよ。実際にぶっとばしはしないが、君の基本はそうだと思う」
「ぶっとばせばいいとは思っていないつもりなんですが」
 小坂井と砧は盛大に首を横に振った。

 宴会場は笑い声とたばこの煙とアルコールの匂いで満たされている。そろそろろれつが回らなくなった男性社員に、女性社員はどんどん酒を注いでいる。啓介にだけはあまり量を飲ませないように目配せしあって調整していた。
 男性社員があらかた酔いつぶれてしまったころ、弘子は啓介の席についた。真横に座ってしなだれかかった。啓介だってもちろん弘子がどんな女かということは知っている。素面だったら弘子の態度に警戒心を持ったはずだ。また、目の前を女性が入れ代わるだけでぜんぜん相手にしてもらえないという状況がこんなに長く続かなかったら、啓介でもこうまでがっつかなかったに違いない。
 啓介は弘子が座ったとたんに肩を抱いた。弘子は啓介のひざに手を置いた。それを合図に啓介の向こう隣にユリカが座った。やはり啓介のひざに手を置く。啓介は目も口もだらしなく開けっ放して、ユリカの肩も抱いた。弘子は肩に置かれた手をつかんで、洗濯ヒモで手首を縛った。
「ん、何これ」
「これは、ね」
 向こう側ではやはり洗濯ヒモで手首を縛っている。両方を合わせて後ろに引いた。
「おイタする手を戒めるヒモよ」ヒモ同士で蝶結びを作った。後ろ手ではほどきにくいだろうが、決して解けないわけではない。そうしておいてから啓介の浴衣の帯を解いた。
「おい」
「うちの会社のモットーはギブアンドテイクってのは、ご存じね?」
「ああ」
「さっき町子さんに何したか覚えてる?」
「お、同じことをしてくれるのか?」
 とたんに啓介の顔は目尻も口元もだらしなくゆるみだした。
「女性社員全員でしてあげる」
 弘子は唇の両端をゆっくりと持ち上げて少し歯を見せてやった。女性社員は啓介の回りに集まった。これで外からは中で何が行われているのかわからない。
 真ん中に啓介を浴衣の前をはだけたまま寝かせた。足は大きく広げたまま、三人がかりで片足ずつ畳に押さえつけた。右肩はユリカが左肩は他の女性社員がしっかりと押さえつけれている。
「おいおい。俺はこんなことしなかったぞ」
「さっき町子さんの肩を抱いたでしょう? 彼女にしてみたら、こんなことをされた感じなの。わかる?」
「おおげさじゃないか?」
「私もそうは思うけど」
「御歳蓋さん」
 つい思ったことを素直に言ってしまってユリカに怒られた。
「もとい。あなたがどう思ったかじゃなくて、彼女がどう感じたかが問題なの。それでね」
 弘子は啓介のかたわらにひざをつき、浴衣の袂からイチジク浣腸を取り出した。身動きの取れない啓介の目の前に突きつける。
「まさか」
「これでね、衆人環視の中で便のひとつも泄らしてちょうだい」
「そ、そんなことはしてない。断じて」
 啓介はいやいやをするように首を横に激しく振った。
「だからあ、あなた、町子さんの浴衣の中に手を入れてあそこに触ろうとしたでしょう?」
「いや、だって、彼女だってまんざらでもないんだろう? 逃げないんだから」
「逃げたら、ほかのことで嫌がらせするじゃないの」
 左肩を押さえつけている社員が言った。町子へのセクハラうんぬんはただのきっかけにすぎない。女性社員の中で溜まり続けていた啓介への不満が、今一気に噴出しようとしていた。
 やばいかも知れないと弘子は思った。弘子自身は適当にかわしてきたため、厭裸視がどれほど顰蹙を買っているかわかっていなかった。このまま集団ヒステリーに移行していったら、この男、おもらしだけで許してもらえるかどうかわからない。さすがに同情した。が、ここでこの男をかばったら、今度は自分に火の粉が降りかかる。そこまでしてかばってやらねばならない義理はない。
「女性にとってはね。好きでもない男に体を触られるのは、このくらい屈辱的なことなのよ。まあ、体で理解してちょうだい」
 あまり気は進まない、というより、止めたかったがしかたない。啓介のパンツに手をかけた。
「ま、待ってくれ。もうしない。約束する」
 意外と早く泣きが入った。
「本当に?」
「今までだって、別に性的な意味があったわけじゃないんだ。会社は、ほら、自分の家だと思っていたから」
 ようやく自分がどれほどの反感を買っていたか理解したらしい。厭裸視はきょろきょろと女性社員の目を捉えながら言い募った。
「家族の気安さで抱きしめたりしていただけなんだよ。嫌だと言うならしない」
 その確約さえもらえば、何もこんなえぐいことをすることはない。
 厭裸視は首を持ち上げて、パンツにかかった弘子の手を見た。視線を上げて弘子と目を合わせた。
「御歳蓋さんなら、社外に出る苦労はわかってもらえるよね?」
「ええ、まあ」
「外でへとへとになって帰ってきたときに、女性社員のかわいい笑顔を見てついほっとして相好を崩してしまったってしかたないと思うでしょ?」
「ええ、まあ」
「女性社員という職場の花を見て、つい摘みたくなったのが悪かった。謝る。もうしない」
 そう、それなら文句はない。パンツから手を放した。
「ありがとう。御歳蓋さんくらいかわいければ、取引先もちやほやしてくれるでしょ? いいなあ、女は得だなあ」
「厭裸視さん、本気で言ってる?」
 弘子の声はいきなり低くなった。
 セクハラセクハラとみんな騒ぐけれど、この程度のことたいしたことないんじゃないの? というのが今までの弘子の感覚だった。
 でも、弘子にも笑って済ませられないことはある。体の芯が熱くなってくる。
「本気だよ。御歳蓋さんってかわいいよ」
 そう言われて喜ばない女はいないと確信しているのだろう。厭裸視はここぞと声を張り上げた。
「女というだけで取引先に信用されず、門前払いを食うことのほうが多いってのは知ってる?」
「いや、だからさ、一度話を聞いてもらえば、女の武器も使えるしさ」
 厭裸視はにやにやと笑った。御歳蓋弘子は使えるものはなんでも使う。それは確かにその通りだ。が、それは話を聞いてもらうための手段であって、最終的にものを言うのは商品力にほかならない。
「あんたさ」
 弘子の声は暗く重くなっていく。
「それって、御歳蓋弘子には営業力がないって言ってるってこと、わかってる?」
「御歳蓋さんが魅力的だって話をしているんだってば」
「じゃあ、厭裸視さんは『やらせてくれたら契約しよう』って言われたらそうするの?」
「そりゃするよ。ラッキーって」
「ああ、そう。じゃ、今浣腸させてくれたら、次の契約譲ってあげるわ。どう?」
「いや、それとこれとは」
 次の手を考えているのか、ぐるぐると視線をさまよわせている。もう弘子には迷いもためらいもなかった。
「どうしたの? ふたつ返事で承諾するんじゃなかったの? 『やらせたら』なんて冗談でも言われるのはね。そのくらい屈辱的なことなのよ」
「ああ、わかったよ。わかったから」
「口先だけで謝ったってダメよ」
 再び、厭裸視のパンツに手をかけた。厭裸視の目が恐怖のためか引きつった。弘子にはもうかけらの同情心もなかった。
 と、そのとき。ウエストをがしっと掴まれ体がふわっと浮き上がった。
「よその男のパンツなんか下ろしちゃダメです。どうしてもしたいんなら、僕のにしてください」
 みぞおちに小坂井の肩が当たっていた。小坂井が決して小柄ではない弘子を肩に担げるほど力持ちだとは思わなかった。小坂井の背中に手をついて体を起こすと、大きく目を見開いた女性社員たちがこちらを見ていた。女性社員の頭がだいぶ下のほうにある。女性社員の壁なんぞ小坂井にとってはちょっと爪先立てば中が見えるくらいの高さなんだと実感した。
「放して。小坂井さん」
「ずっと見てました」
 冷静なつもりでいたが、やはり興奮状態だったらしい。弘子は小坂井が見ていることにまったく気がついていなかった。あんなことしようとしたのを見られてた? 恥ずかしさに顔が赤くなる。
「もう彼もわかったと思いますよ」
「ぜんぜんわかっちゃいないわよ。やらせれば契約取れるんならそうすればなんて言うのよ」
「あの、何をやらせるんですか?」
 小坂井に無邪気な声で聞かれてしまって絶句した。改めて『何を』と言われてはどう返事をしたものか困る。天井に頭をぶつけないように上半身を起こした。そのまま小坂井にお姫様抱っこされてしまった。小坂井としばし見つめ合った。
「本当にわからない?」
「わかりません」
 弘子は畳の上にそっと下ろされた。振り返ってみると、啓介は立ち上がって浴衣の前を合わせている。どうやら小坂井の乱入で、女性社員たちも毒気を抜かれたらしい。小坂井は啓介の後ろに回り洗濯ヒモをほどいた。
「みなさん、よく見てください」
 ヒモを手早く結ぶと大きな輪にした。くるくると回してあやとりの橋を作った。
「これはなんですか?」
 弘子に真顔で訊いてくる。
「橋」
「ブッブー。ヒモです」
 次に箒を作った。
「これはなんですか?」
「ヒモよ」
 そして、全部ほどいて丸めた。
「これはなんですか?」
「ヒモだってば、そう言わせたいんでしょう?」
「そうです」
 小坂井はにっこり笑った。
「どんな形をしていても、ヒモはヒモです。でも、形が変われば性質も変わります。厭裸視さんだってそうです。どこまでいっても、このひとはスケベであることをやめられはしないでしょうが、会社では仕事が第一ということを理解すれば性質は変わります。これは超ヒモ理論といって本来は物理学の考えなんですけどね」
 小坂井の声はだんだん大きくなってくる。弘子は好きなことをとくとくと話す小坂井をけっこう気に入っている。が、今はまずい。そっと首を巡らせた。みんなあさってのほうを向いていて、誰も小坂井を見ていない。話し続けようとする小坂井を制した。
「超ヒモ理論の話はまた今度ね。で、どうなの? 厭裸視さん?」
 腕組みをして厭裸視をにらみつけた。今きちんと話をつけたい。ここで確約をとっておかないと、あとあと女性社員対厭裸視啓介の構図が残ることになる。
 ユリカを始め全員が注目した。
「こ、これからは、相手がどんな気持ちになるかを考える」
「あなたに対してはみんな団結しているから、言葉をたがえたらあっと言う間に全員が知るところになるからね」
 弘子が念を押すと厭裸視は身震いした。その様子を見て、女性社員たちはその場から離れていった。
 女性社員は酔いつぶれた男性社員に声をかけて立ち上がらせ始めた。もう宴会はお開きになるだろう。砧のほうへ目を向けた。町子の手を握っている。町子は社長を見上げて笑っている。歳はだいぶ離れているが、いい雰囲気に見えた。
 もしかすると砧は最初から町子を口説く時間を作るつもりだったのだろうか。
 どんな社員を雇うかは、社長が決める。町子が入社してきて半年後に、厭裸視が中途入社してきたあたりに社長の意図が見え隠れするような気もするが……。まあ、それは弘子に関係ないことだ。
「あの、弘子さん」
「あ、小坂井くん、ありがとう。おかげで助かった。あのまま、やっちゃってたら大事になったと思う」
「お役に立ったならなによりです」
 にこにこと笑う小坂井を見て、弘子はあたりをうかがった。こちらを見ているひとはいない。弘子を救うというギブをした小坂井に、何かテイクになるものを。
「あの、ちょっとかがんでくれる?」
 小坂井は弘子のほうへ頭を下げた。
 弘子は素早く唇を……。

                             おわり