矢車通り~オリジナル小説~

はてなダイアリーから移行させました。

思い出を聴かせてください(3)21枚

     七

 門扉から大きな二階建ての家へ続く石畳とは別に、左に向かって丸くて平べったい石が並べられていた。先へと視線でたどると半間の玄関に着いた。平屋の小さな家が母屋より少し引っ込んだところに建ち、母屋と渡り廊下でつながっている。
「あちらのおうちはなんですか? どなたがお住まいで?」文絵は好奇心のまま質問した。
「あたしの部屋だ。台所とか風呂とか一通り揃ってる」
 文絵は目を細めてわるびれもせずに答える絹子を見た。文絵は姑と玄関共有の二世帯住宅に住んでいる。プライバシーというものを理解しない姑が、いつも勝手に文絵の領分に入ってくることに悩まされている。姑と玄関まで別に出来れば、境界のドアに鍵をかけて物理的に姑を締め出してしまうことも出来る。
 と、そこまで考えて文絵は頭を振った。文絵なら絹子を締め出して済ませているところだけれど、はるみはつきあいを続けている。締め出してはいない。ではどこで絹子とはるみはお互いの領域の境界を引いているのだろう。
 ふと疑問が湧いて、敷石をたどりはじめた絹子を呼び止めた。
「あの、玄関はあちらではないんですか?」
「あたしの友だちがうちに遊びに来るときはあっちから入ってもらっているが、普段出入りに使っているのは母屋のほうだ」
 絹子は立ち止まって振り返りながら応えた。
「なんでまた?」
「あたしがいつ出ていって、いつ帰ってきたのかわからないと困るって、はるみさんが言うもんでな」
「出来たお嫁さんですねえ」
「だろ?」
 絹子は顔中をしわくちゃにして笑ったあと、眉間に皺を寄せた。
「今のはオフレコだ」
 またつかつかと絹子は歩き始めた。玄関の扉にたどり着くとレバー式のノブに手をかけて押し下げたが開かない。ズボンのポケットから鍵を取り出して鍵穴に差し込んで回した。カチッと音がした。
 扉を開けて中に入った絹子に文絵は続いた。絹子は靴箱をバッと大きく開いて上から下まで丹念に見ていった。
「よそゆきの靴がない。はるみさんは出かけたんだろう」
「じゃあ。帰ってらしたら謝られるんですね?」
 さりげなく念を押すと、眉間に皺を寄せながらうなずいた。絹子はブーツを脱いでダークブラウンの床板が敷かれた玄関ホールに上がり、ブーツと似た質感の黒いつやつやしたスリッパを履いた。靴箱と並んでいるスリッパ立てから焦げ茶の花が飛び散った柄のものを取って文絵の前に置いた。
「まあ。入れ」
「お邪魔します」
 文絵はスニーカーのひもをほどいて脱ぐと、玄関ホールに上がってそこにひざまづいた。靴を外向きに揃えてから立ち上がりスリッパを履いた。
 フローリングの床はぴかぴかに磨かれて、ぼんやりと文絵の姿が映っていた。右手に三つ、左手に二つ、レバー式のノブがついた木製のドアが並んでいる。
 何も物が転がっていない玄関ホールに立っていると、住宅展示場に迷い込んだみたいだ。
「リビングで待とう。あたしの部屋はその先だ。あ、トイレはこのドアだから」
 絹子は右手の一番手前のドアを指さした。
「ちなみに次は洗面所で最後は風呂場だ」
 驚いた。トイレのドアがそこだとすれば、玄関の三和土の幅の分スペースがあることになる。
「ずいぶん広いトイレですね」
「下の孫が独立したときに水回りだけ改築したんだがな。あたしの介護が必要になったら二人で入れないと困るからって、はるみさんが言うもんでこんなになった」
「出来たお嫁さんですねえ」
「だろ?」
 絹子はにんまりと笑ってから、口をへの字に曲げた。
「今のもオフレコだ」
「はるみさんを褒めたところは全部オフレコなんですね?」
「そういうことでいい」
「面倒ですからオフレコ解除ってことにしませんか?」
「いや、それはダメだ」
 絹子は左手の手前のドアを開けてずんずん入っていった。卓球台が置けるほど広いリビングに深いこげ茶の革張りのソファーや大型テレビ、五段重ねの大型スピーカー付きオーディオセットなどがバランス良く配置されている。あまりの豪華さに気押されながら文絵はキョロキョロと見物した。
 振り向くと六人掛けのダイニングテーブルがあり、上には急須とポットと湯飲みがお盆に載せられてまとめて置いてあった。その向こうには配膳用の窓が広く付いた対面式のキッチンがあり、入り口近くで絹子がにこにこと笑って文絵を見ていた。
 絹子から左に視線を移すとベージュの塗装をほどこした分厚い扉があった。位置からいって絹子の部屋に通じるドアに違いない。
「重そうな扉ですね」
「ああ。台所が近いだろ? 万が一火事を出しても、あたしの部屋に火が走らないように防災扉にしようってはるみさんが」
「そんなことまで?」
「はるみさんが火事を出したら、あたしゃおとなしく焼け死ぬけどな」
「出来た姑さんですねえ」
 絹子は真っ赤になって文絵から目を逸らしてうつむいた。
 ふいに『ドナドナドナ』がどこからか流れてきた。音の出所を探して視線をさまよわせるとダイニングの時計が十一時を差していた。
「飯でも作るか」
「絹子さんのお部屋で作るんですか?」
「前はそうしていたんだが、五年前に鍋を火にかけたまま忘れてから、はるみさんが用意してくれるようになった」
 防火扉はそのせいかもともちらっと思ったが口には出さなかった。
 絹子はカウンターの脇を通って台所に入っていった。
「ある」
「はい?」
太巻きが作ってある」
 絹子は冷蔵庫から大きな皿を出した。ダイニングに運びテーブルに置いた。凝った作りの巻物が三列十個並んでいた。
「昨日はなかったんですか?」
「なかった」
「じゃ、四時起きしたついでに作ったのかも知れませんね」
「四時って?」
「絹子さんと一緒に起きてしまったらしいですよ。絹子さんが起きられた時間をご存じでしたから」
「はるみさん、なんか、言ってたか?」
「私のインタビューを楽しみにしてらっしゃったようだって」
「目が覚めてしまっただけだ。楽しみだったわけじゃ」
「あ、そうなんですか。失礼しました」
 文絵は瞳を落ち着かなげに動かす絹子を見ながらくすくすと笑った。
「そう言えば、さっきのお話の作りかけコーナーってどこにあったんですか?」
「ああ、それは――」
 絹子はリビングの一角を指さしながらにこやかに話しだした。

     八

 ダイニングテーブルにはす向かいに座り、巻物を食べお茶を飲みひとしきり話をした。孫の思い出話を中心にすれば注文された分量は充分書けるという目算がついた。あとは一度書いて読んでもらって微調整していったほうが、より絹子に満足してもらえる出来になるはずだ。
「そろそろ帰ります」
 まばたきが多くなった絹子を見て文絵は腰を浮かせた。唇をかすかに動かしながら絹子が文絵の目を見返してくる。
「はるみさんと顔を合わせてからでなくていいのか?」
 自分の言葉が発端だったこともあり、絹子が謝るところまで見届けたい気持ちはあった。だが、はるみが気持ちの整理をつけて帰ってくるまで待っているとなると、何時までかかるかわからない。中腰のまま止まり、絹子に顔だけ向けた。
 扉が開く音が玄関のほうでした。耳をすませるとスリッパの音が聞こえてきた。絹子と顔を見合わせた。絹子の顔は心なしか引きつっているように見えた。
 ダイニングのドアが大きな音をたてて開かれた。顔面蒼白のはるみが立っていた。絹子と文絵を見てもにこりともしない。目は据わり髪を振り乱して大きな足音をたてて歩いてくる。
 文絵ははるみのただならぬ気配に体を起こし息を呑んだ。
 はるみは絹子の近づいた。こげ茶色の皮のハンドバッグをテーブルの上に置いた。ハンドバッグの口を開けて右手を突っ込み、何か取り出してテーブルにどさっと投げた。『乾絹子様』と書かれた銀行の通帳と赤い皮の判子入れだった。
「お金に換えられるようなものではありませんが弁償していただきました」
 はるみの目は真っ赤になっていた。
 はるみはバッグから群青色のビロードにくるまれた箱を出した。ふたを開けて中を絹子に見せた。文絵も覗き込んだ。金の細かい模様が施されたブローチが見えた。
「百万使いました。どうぞこれを、あのブローチだと思って、お納めください」
 はるみは箱のふたを閉めるとテーブルの上に置き、絹子のほうへずいっと差し出した。
 絹子のお金を使って、絹子に弁償? はるみがブローチを壊したのは絹子だと思っているのはわかる。けれど、そもそも絹子が孫にもらったブローチなのに、どうして絹子が弁償するのだろう? 誰に?
 はるみが償ってもらいたいと強く望んだ気持ちはわかるが、勝手にお金を持ち出した以上にやっていること自体がめちゃくちゃだ。
 絹子は眉を眉間に寄せながら、はるみの顔を見て口を開きかけた。はるみは据わった目で絹子を見下していた。絹子はよろよろと立ち上がり、防火扉から出ていった。
「あの」
 文絵が声をかけると、はるみの顔に一気に赤みが戻ってきた。通帳とブローチと文絵の顔の間で視線をうつろわせ、文絵の顔を見て何度も首を横に振った。
「ち、違うの。私は、私は――」
「頭にきたんですね」
「そんなこと――」
 はるみは何か言いかけては唐突に黙った。
 言いたいことが喉で止まって言葉にならない。そんな風に文絵には見えた。文絵はそっと立ち上がりはるみの正面に移動した。はるみの目を見てうなずきながらゆっくりとしゃべった。
「私は守秘義務があるんです。ご存じですね? 雇い主さんがしゃべっちゃ嫌だとおっしゃったことは、外には漏らしません。どうぞ、思ったことをそのまま言ってください」
 はるみは文絵から視線を逸らしてうつむいた。一度、大きく息を吸った。やがて、ぽつりぽつりと話しだした。
「最初、嫁いできたときは、とっても上品だったんですよ。お義母さん。地味な着物をきれいに着こなしてらして。憧れました。ここ、広い家でしょう? 昔は苦労して養蚕をなさってたらしいんですけど、第二次大戦後の土地不足でここらあたりもどんどん値上がりしたそうなんです。土地成金っていうんですか? 乾はそういう家なんです。会社でね。夫と知り合ったときはあんまり気さくなひとだったから、まさかこんなにお金持ちだとは思いませんでした。結婚が決まって、ご両親に紹介されて初めて知ったんです。私は夫が好きだから添い遂げたい、この家にふさわしい嫁にならなくっちゃって、結婚してから必死で尽くしました。それなのに、お義母さんったら奇抜なことばっかり。それなのに夫も子供もお義母さんのことが好きなんです。私を苦しめているお義母さんのことが」
 はるみの夫も子供も絹子がなんでこんな真似をしているのか、勘づいているか聞いているかしているのだろう。二人をそばで見ていてやきもきしているに違いない。もしかすると自分史の話だって、二人を話し合わせるために仕組んだのかもしれなかった。
「頭を染めた理由聞きましたけど、はるみさんに話さないでくれと言われました」
 はるみはまっすぐ文絵の目を見たあと首を横に振って手で顔を覆った。
「もういいです。理由がわかればやめてもらう方法も見つかるかと思ったんですけど。あのひとは他人の気持ちを踏みにじるのが好きなんですよ。今日だって、もっとおだやかに木之下さんを迎えて楽しくしゃべったっていいじゃないですか。なんでいちいち突っかかるようなことばかり言わないといけないんでしょう」
「絹子さんが気にいらないんですね」
「嫌いです」
 ふっとはるみの肩が下がった。顔から手を放し頭を上げて破顔した。
「嫌いなんです。少しでもこの家を良く見せたいってがんばってる私をあざ笑うかのように奇行を繰り返すあのひとが」
「嫌いなんですね」
「夫の母親を嫌ってはいけませんね」
「いいんじゃないですか? 嫌いでも」
「いいんでしょうか。嫁として」
「別の人間ですから。夫は好きでも姑は嫌いで問題無いでしょう」
 話を合わせながら、文絵はどこかで、でも絹子さんは他人の気持ちを踏みにじるのが好きなわけではない、と切り返すつもりでタイミングを計った。確かに絹子は偏屈だと思うけれど、本当のことを知れば、はるみも絹子を受け入れられるかも知れない。はるみの様子をうかがった。
 はるみは大きな声で笑い出した。高らかに笑い続けた。
「ご、ごめんなさい。止まらない」
 はるみは床に体を投げ出した。ごろごろと転がりながら笑い続けていた。床を片手で叩き反対側を向いてはまた叩いた。仰向けになって両手を上げてみぞおちをひくつかせて笑い続けた。
 見てはいけない。はるみはたぶん今まで誰にも見せたことのない醜態を文絵にさらしている。心理の専門家でもない文絵に受け止めきれる重さではない。文絵はあとずさった。
「ちょっと絹子さんの様子を見てきます」
 防火扉に飛びついて急いで外に出た。

     九

 渡り廊下には日が差し込んでいた。防火扉の向こうで笑い続けているはるみの声がかすかに聞こえた。文絵は胸ポケットをつまんでICレコーダーを止めた。
 もう仕事でもなんでもない。はるみにも絹子にも明るい生活を取り戻して欲しい。それだけだ。
 我ながらおせっかいだと苦笑しながら、短い廊下をたどって突き当たりのドアをノックした。返事がない。レバー式のノブを押すと簡単にドアは開いた。
 右手でレバーを下げてドアを押した。中に踏み込んでみると二人掛けのテーブルがちょこんと部屋の真ん中に置いてあった。大きな掃き出し窓から降り注ぐ日差しがやわらかく室内を照らしていた。
 向かい側の壁にまたドアがあった。そちらに近づき右手でレバーを下げてドアを押し開けると左に玄関の扉が見えた。三和土にはサンダルひとつ置いていない。向かいにまたドアが二つ並んでいた。日当たりのいい方にいるだろうと見当をつけて左側のドアをノックした。
「誰?」
 平静な答えがあって、ほっと胸をなでおろした。
「木之下です」
「はいれ」
「失礼します」
 文絵はドアを開けた。部屋の壁という壁に疾風怒濤紅蓮組合のポスターが貼ってあった。六十近い男たちのダンスユニットは深い皺を刻んだ顔で、どれもこれもにこやかに笑いかけてきていた。
 左手の大きな窓の近くにダブルベッドがある以外はオーディオセットくらいしか家具がない。ベッドには絹子が横たわって左腕を目の上にのせていた。かけふとんがめくられて、白いシーツが見えていた。絹子にそっと近づいた。
「あの、差し出口だとは思いますが」
「じゃ、黙ってろ」
 文絵は大きく息を吸い込んだ。
「そういう態度だからはるみさんに誤解されるんです。きちんと話してあげてください。あれでははるみさん、かわいそうです」
「あんたさ。他人に妬まれたことあるか?」
 急に関係のない話になって文絵はとまどったが、どんどん話がズレていってしまうのはインタビューではよくあることだ。話したいことがあるなら聴こうと絹子に合わせた。
「いえ、こんなにいい暮らししてませんから」
「な? こんなみっともないとこ見てても、やっぱりこういう暮らしは『いい』と思うだろう?」
 自分の声に混じってしまった羨望に気がついて文絵は赤面した。
「経済的にゆとりがあるんだなと思います」
 絹子は目から手をはずして文絵を見上げ目を細めた。
「元から金持ちってわけじゃないし土地を全部処分してしまったら、また金はなくなる。あたしは政府が転覆して金が紙切れになったときのことが忘れられない。金なんて幻さ。本当の財産は仕事と友だちだよ。はるみさんがあたしと仲良くしていたら金持ちのくせに幸せも手に入れているんだって妬まれる。はるみさんがあたしとケンカして、よそのひとと仲良く出来るんならそれでいい。なんでもかんでも手に入れればいいってもんじゃないのさ」
 絹子の言葉を聞いて文絵は天井をにらんだ。確かに最初からすんなり家に案内されていたら、はるみを妬んだかも知れない。でも、絹子のやり方は心穏やかに暮らしたい願うはるみの気持ちと反する。どう接点を作ればいいだろう。
「絹子さんの気持ちがわからないから、はるみさんは追いつめられているんですよ。オフレコ解除していただけませんか?」
 絹子は文絵の顔を見上げながら口元を緩めた。舌で何度も唇をなめた。
「はるみさんに」と言いかけてきゅっと唇を噛みしめた。
「いや。あたしがはるみさんの友だち作りを応援しようとしているなんて知られたら、はるみさんのプライドを傷つける。やめてくれ」
 絹子は静かに目を閉じた。
「少し休む」
 絹子の体はベッドに沈んで動かない。疲れた様子の絹子を見て文絵は説得をあきらめた。
「はい。では、今度うかがうときは原稿をお持ちしますので、目を通してください」
「あ、あんたには誤解されたくないから言っておくけど」
 絹子は目を閉じたまま、文絵に話しかけた。
「はい」
「はるみさんは普段、あたしの持ち物を勝手に持ち出すような卑しい真似はしやしないんだ」
「ええ、わかってますよ。はるみさんはそんなことしません」
「うん。原稿、楽しみにしてる」
「はい。では」
 文絵は立ち上がり絹子の部屋を出て、音がしないようにゆっくりと扉を閉めた。