矢車通り~オリジナル小説~

はてなダイアリーから移行させました。

思い出を聴かせてください(4)18枚

     十

 母屋側のドアのレバーノブを握ったまま文絵は立ち尽くした。ドアの向こうで二拍子の音楽が鳴っているのがはっきり聞こえた。
 もうはるみの気持ちは落ち着いただろうか。自分に何が出来るのかわからないまま、はるみと顔を合わせるのは気が重かった。
 文絵にできることは――。
 絹子から訊いたことを話せなくても、はるみの話を聴くことはできる。
 文絵はひとり、にんまりと笑った。
 一度大きく深呼吸をしてからレバーを下げた。ドアを引くと音が肌に叩きつけられた。耳に響く音楽を聞きながらオーディオコンポまでスタスタと歩いた。
 文絵が振り向くとはるみは三人掛けのソファの真ん中に座り、窓のほうへ顔を向け宙を見つめて口をぽかんと開けていた。文絵はオーディオコンポの黒いぎざぎざのついたつまみをつかみ、小さな声で話しても聞こえる音量にした。はるみの前にそろそろとひざまづきはるみの顔に自分の顔を近づけた。
「はるみさん」
 はるみがスローモーションで文絵のほうへ顔を動かしてきた。文絵ははっきりと一語一語区切りながら話しかけた。
「もう、三時に、なります。夕飯は、何時ですか?」
「六時にお義母さんと一緒にご飯を食べます」
 はるみは訊かれたことにそのまま返事をした。予定表を読み上げているような無表情な声だった。
「今日は、絹子さん、五時に、お出かけですよね?」
「今日はお義母さんの分はいらないんです」
「はるみさんの分だけで、いいんですか?」
「夫の分も作っておきます。何時に帰って来るかわからないから用意しておかないと」
「何を作るんですか?」
「餃子です」
「私が作りましょうか?」
「え?」
 はるみはようやく文絵の目を見た。いぶかしげに顔を傾けた。
「私が餃子を作りましょうか?」
「作るのは私です」
「じゃあ、一緒にやりましょう」
 ひざに置かれたはるみの手に慎重に手を伸ばした。はるみはぼんやりと座ったままでいる。文絵ははるみの両手を支えて下から持ち上げた。ひざを立ててそっと立ち上がる。はるみは文絵の顔を追って腰を上げた。文絵ははるみの右手を左手で握ってソファの横を通りダイニングテーブルの脇を抜け台所に連れていった。
 四畳半ほどもある台所には、四つ口のコンロが付いたキッチンセットと炊飯器と電子レンジが載っているのに、なお広いスペースがある作業台が置いてあった。
 文絵ははるみの手を一度両手で握りしめてから放した。作業台の横にある白い冷蔵庫の前にしゃがんで中を見ると、ステンレスやホーローのバットがいくつか入っていた。一番最初に目についた左側の大きな白いバットを取り出してみた。中には挽き肉と椎茸と竹の子とにんにくが入っている。冷蔵庫を閉めて体を伸ばし、はるみのほうへバットを差し出した。
「これで作るんですか?」
「はい」
「皮がありませんよ?」
「皮は作ります」
 はるみは作業台の下部の扉を開けて密閉容器とステンレスのボウルを取り出した。作業台に置いてあった薄い台秤にボウルを載せた。密閉容器のふたを開け中からプラスチックの大きなスプーンをつかみ出して容器から粉をすくいはじめた。
「ダイニングテーブルのポットにはまだお湯が入っていますか?」
 粉の重量を計る作業を続けながらはるみが訊いた。
「まだあると思います。取ってきますね」
 文絵はダイニングからポットを取ってはるみに渡した。はるみは計量カップで計りながらボウルの中にお湯を移していった。ポットと計量カップを作業台の奥に置くと流しへやって来て手を洗った。作業台に戻りボウルの中に手を入れてこねはじめた。
「野菜はどうしますか?」
「みじん切りにしてください」
「わかりました」
 文絵は手を洗って作業に取りかかった。流しの前にまな板と包丁があったり、釣り戸棚の一番下にボウルがあったりと、使う場所の近くに使うものがあって、初めて台所を使う文絵にとっても使い勝手がいい。
「あの。木之下さんは夕飯食べていかれますか?」
「ご馳走になりたいのはやまやまなんですが、餃子は困るんです。あの、明日もお客さんのところに行きますんで口臭がすると」
「にんにくを入れなければいいですか?」
「私に合わせていただくのは申し訳ないので」
「木之下さんの好みに合わせるつもりで餃子にしたんです。具を調整できますから」
 背中合わせに作業中で声しかわからないが、はるみはだいぶ落ち着いたようだった。
「じゃ、お言葉に甘えていただいていきます」
「木之下さんのお宅のほうは?」
「高二の娘が支度してくれますから大丈夫です」
「いいですね。うちは男の子だったせいか、そういうことはしてくれませんでした」
「私がだらしないから子供がしっかりしないといけなかったんですよ。懇談会を忘れていたり、集金を忘れていたり、その度に子供たちが困って」
「まあ」
「朝起きたらごはんが炊けてなかったり」
「え?」
「炊飯器のスイッチを入れ忘れていたんです」
 はるみから返事がない。文絵ははるみのほうを振り返った。
「どうぞ、思ったことをそのまま言ってください」
「でも、あの、失礼なことを考えてしまったので」
「誰でも思うことかも知れませんよ。こんな話を聞けば。言ってください。私は構いませんから」
「う」
 はるみは言いよどんだ。文絵ははるみにうなずきかけた。
「うっかり屋さんですね」
「ええ、だからうちの子供たちはよくわかっているんですよ。私にまかせておいたら、まともな生活が出来ないって。半分はわざとしているんですが」
「わざと?」
「ええ」
「もっときちんと出来るのにしないんですか?」
「なんでも自分で出来るようになったほうが子供の将来のためにはいいと思って」
「子供は外でも『うちのお母さんはうっかり屋さんだ』って話をするでしょう? 木之下さんが誤解されるじゃないですか」
「いいんです」
「え?」
「いいんですよ。誤解されても。子供の教育のほうが大事です」
「そういうものですか?」
「ええ」
 はるみの声の調子が元に戻ってきた。
「あ、そうだ。あの」
「はい?」
「あとで、はるみさんにうかがえばいいと思って、誕生日とか結婚記念日とか教えていただいていないんですが」
 『絹子』と聞いたら、また、はるみの気持ちが不安定になるかもしれない。慎重に主語を省いた。
「ああ、それなら」
 特に感情のこもらない声ではるみは答えた。
「二階にまとめて資料を置いてありますから、あとで一緒に探しましょう」
「ええ、お願いします」
 ほどなく餃子は出来上がり、お皿にきれいに並べられた。

     十一

 二階の光あふれる部屋に案内された。木製のロッキングチェアーが真ん中に置かれ、そこに座れば真っ正面に当たるであろう位置の壁に、本物の人間と同じ大きさの写真が掛かっていた。写っているのは細長い柔和な顔をした老人だった。
「あの方は?」
「お義父さん(おとうさん)です。十五年前に亡くなられた」
 答えながらはるみは写真のほうへと歩いていった。写真の下には腰までの低い棚と陳列棚が大きさの順に並べられ、北側の壁は一面本棚でアルバムや硬そうな背表紙の本が隙間なく詰まっている。
 踏み込むと左手にさっき公園で見た紙袋が置いてあるのが目についた。
 追いついてみると、はるみは表紙がぼろぼろになった大学ノートを開いていた。
「冠婚葬祭については、これに記録してあります。お持ちになりますか?」
 文絵はノートを受け取って読んでみたが、なんのための式なのか、誰が来たのか、お祝儀はいくらだったか、いつやったのか、といったことが羅列しているばかりで話の種にはなりそうにもない。文絵はノートのページを一枚ずつめくりながら、いつもの低めの声ではるみに話しかけた。
「お義父さんって絹子さんの服装のこととか、何か言ってましたか?」
「いいえ、お義母さんの言うことに逆らわないかたでしたから」
 即座に返事がかえってきたのに安心して、文絵は質問を続けた。
「絹子さんって、いつも他人が困るようなことをするんですか?」
「まさか。いつもだったらとても一緒には暮らせないです」
「では、どんなときにしますか?」
「それは」
 はるみはしばらく目をあちこちに動かしていたが、やがて小さくうなずいた。
「お客さんが来ると困らせるんです。お義父さんの十三回忌にうちに親戚のかたが集まったときなんか、和尚さんがお経をあげてくださっている最中に勝手に木魚を叩きました」
 やってるなあ。文絵は微笑みそうになるのをこらえて眉間に皺を寄せた。
「そのとき、はるみさんは絹子さんを止めたんですよね?」
「ええ、和尚さんが困ってらしたので」
「ほかには?」
 文絵ははるみから絹子の話を聞き続けた。父兄仲間がやってきたとき。小学校の運動会に行ったとき。たくさんあった話の中で、絹子はいつも回りのひとを困らせて、はるみがいつも助けていた。
 ふと、はるみが黙り込んだ。
「今、お話していて気がついたんですけど」
「なんですか?」
「私、人が集まるときにはいいところを見せなくちゃって、いつもより緊張していたような気がするんです」
「それは誰でもそうですよ」
「その分、お義母さんの振る舞いを実際以上に『嫌なもの』と感じていたんじゃないかと思うんです」
「そうですか」
「いえ、嫌は嫌なんです。そのときは『お義母さんがまた恥ずかしいことをした』って気持ちで一杯で。思い出すのも嫌なことばかりと」
「ええ」
「今、お話してみたら、そうでもないかなって」
「そうなんですか?」
「ええ。お義母さんがバカなことをして、私が止めて、そうするとお客さんが喜んで、私を褒めてくださって」
「私もはるみさんが助けてくださったの。嬉しかったですよ」
「そうですか」
「いつも、そうだったんですね?」
「ええ、だってお義母さんがバカなことをなさるから、お客さんを助けないといけなくなって」
 はるみが口を押さえた。細い肩が震えていた。
「だって、お義母さんが」
 そのあとはしゃくりあげていて、何を言っているのかわからなかった。
 文絵はほっと息を吐いた。絹子の気持ちはわかってもらえたらしい。わかったからといってすぐにわだかまりが消えるとは限らない。でも、何かが変わっていくはずだ。

     十二

 連れ立ってダイニングに戻って、テーブルの椅子に腰かけた。ドアが開くきしみが聞こえた。振り向くと防火扉から絹子が入ってくるところだった。せわしげに首を振って室内を見回している。
 はるみは絹子を見たまま微動だにしない。
 しばらく絹子はまばたきを繰り返していた。文絵を見てうなずいて、はるみが居ないところに顔を向けた。
「こほん。あ、ブローチを壊してしまって悪かった」
 勢いよくはるみは立ち上がった。絹子に対して腰を折って頭を下げた。
「私のほうこそ、勝手なことをして申し訳ありませんでした」
 いつまでも頭を上げようとしないはるみを見ながら絹子は手で鼻をかいた。
「長く頭を下げればえらいってわけじゃないだろ。いい加減にしろ」
 絹子は唇の下に梅干しを作ってわめき始めた。
 そのとき電子音が鳴った。絹子はダイニングのドアの横にあるインターフォンの受話器を取った。二、三言話して受話器を置いた。
「八重子が迎えに来た」
 はるみは顔を上げた。
「はい。いってらっしゃい」
「ずいぶん愛想がいいな。あたしに怒ってたんじゃなかったのか?」
「怒ってましたよ。でも、もういいんです」
 はるみはさらっと言ってのけた。
 絹子は何度もまばたきを繰り返した。
「あ、あたしが出かけるから嬉しいのか」
「いえ、お出かけになるのは寂しいんですが、お義母さんが楽しそうにしてらっしゃるの、私、好きですから」
「あんたが楽しそうにしているのは、あたしゃ気に食わないがな」
「そうですか」
 はるみはにこにこと笑いながら明るく返事をした。
「気に食わないって言ってるんだよ。聞こえなかったか?」
「聞こえてます。信じません」
「なんで?」
「お義母さんがひねくれてるからです」
 言いにくい言葉をきっぱりと口に出したはるみに、絹子は口をぱくぱくさせた。
「ひねくれてるお義母さんが、気に食わないとおっしゃるんでしたら、それは気に入ってらっしゃるに違いありません」
 絹子が目論んだ心の開き方とは違うようだけれど、はるみはずいぶん気安く口をきくようになったんじゃないだろうか。
「で、出かけてくる。八重子を待たせているから急ぐ」
 絹子は足早にダイニングから出ていった。
 文絵は立ち上がって、リビングの窓にはるみをいざなった。
 レースのカーテンを開けると桜の木が正面に見えた。夕日を受けてピンクの花がオレンジがかっている。桜の隣にショッキングピンクの頭と白い頭が並んだ。
 桜の木は花の季節から葉の季節に移ろうとしていた。


                         完