矢車通り~オリジナル小説~

はてなダイアリーから移行させました。

逃亡はこっそりと(前編)22枚

   一

 藤見と佐々間は遅い夏休みを九月の半ばに取り、バイクでツーリングをする計画を立てた。
 都会から田舎へ。フェリーに乗って往復し、のんびり田舎を巡る旅にしよう。行き先が遠い分、途中の金は乏しいが、どうせ男のふたり旅。金が無ければ野宿して、そこらの野草を食めばいい。たいした荷物も持たぬまま二人は気ままな旅に出た。

 日程のほとんどを終え、もうあと二日を残すばかり。かなり疲れはしたものの、藤見と佐々間は満足していた。きれいに舗装された道路をスロットル全開で飛ばす旅をして、日頃の鬱憤はすべて消え去ってしまっていた。
 昼を少し回ったころ、国道沿いの小さな町へ藤見と佐々間は入っていった。
 ラーメンの絵が藤見の視界に入る。惹きつけられて看板に視線を向けると、文字のかすれた店名の下にくっきりとどんぶりが描いてあった。
 腹がぐうと鳴ったような気がしたが、爆音で聞こえやしない。
 看板を通りすぎた。大きな木が覆いかぶさる駐車場に、藤見はバイクを乗り入れた。
 藤見の目前に佐々間のバイクが滑り込んでくる。
 佐々間はバイクを停め、ヘルメットを取り、後部座席の荷物の上に置いた。一瞬のためらいもないなめらかな動作だった。
「どうするー?」
 佐々間が語尾をそのまま延ばした声で問いかけてきた。
「食ったら休まず行くか」
 藤見の問いかけにたっぷり二秒の間を取ってから、佐々間は次の言葉を口にした。
「今日、着くー?」
「たぶん。明日のフェリーには間に合う」
 ぶらぶらと手を振りながら、藤見は佐々間としゃべり続けた。駐車場に面したラーメン屋の入り口へと近づいていく。
 風が色褪せたのれんを揺らし、汗に濡れた頬を冷やしていく。
 引き違い戸に佐々間が手をかけ、ガタガタと上下にゆすりながら開けた。
 佐々間に後光が差した。いや、佐々間の前から光が当たって輪郭が光って見えたのだから、前光というのかもしれない。
 佐々間の手が後ろに回ってくる。藤見をかばうように手のひらを向けている。
 藤見は佐々間の手を見て微笑んだ。が、すぐに目をつり上げて佐々間の背中に張りつき、耳に神経を集中させた。
 店の中でパラパラと手を叩く音が鳴った。
「いらっしゃいませっ」と語尾が詰まった甲高い声が聞こえてきた。
「お客さまはっ、当店一万人目のお客様ですっ。全品、何膳でも、タダでご利用いただけますっ! さっ、どうぞどうぞーっ」と案内の声が響くなか、がやがやとした音が聞こえてきた。
 佐々間の盛り上がっていた肩が落ち、藤見を残したまま歩き出した。何人かのひとに取り囲まれて奥へと導かれていく。
 藤見はどうしたものか考えあぐねて、ぽつんとひとり立っていた。
 国道にこそ面しているがテーブル席が三つしかない場末の店だ。入ってくるお客を数えているというのがまず変だろう。記念品ならいざ知らず、食べ放題なんて豪勢な景品を出すのも変だろう。けれども、無いことでも無いような気もする。
 草を食んだりはしなかったが、一週間の旅の間、ブロック状のビスケットみたいな食べ物とか、ゼリーを二百㏄とか、お湯を入れて三分したら食べられるラーメンとか、そんなものばかりが食事だった。きちんとした食事が、ただで摂れるのなら願ってもない。
 怪しいと思う気持ちと、だったらいいのにという願望のはざまで、藤見はどうすればいいのかわからなくなっていた。
 みなより頭一つ低い女性が、丸い眼鏡をずり上げながら藤見を振り返った。
「お連れさまですかっ!」
 ラーメン屋の名前が入った赤いエプロンが、ふわっと浮き上がって女性の細身の体にまとわりついた。
「ああ」
「お二人連れさまの片方だけ食べ放題ってわけには――いきませんよねっ」
 女性は人差し指を立てて頬に当て、小首をかしげて視線をあらぬかたに向けた。
 佐々間ならこんな表情を見たら、とたんにデレデレと軟体動物になってしまうだろうが、あいにく藤見は眼鏡やペチャパイに興味はない。
 じっくりと女性の言葉の意味を考えた。
 連れだけなんてずるいと言えば食べ放題にしそうな口ぶりだ。だが、さすがにそれは図々しいんじゃなかろうか。どうせ、佐々間がタダならその分の金で倍食える。どっちにしろ藤見も得をするのだから、こちらからタダを求めて相手の気分を悪くさせる必要はない。
 気持ちが決まって黙っていると、女性は藤見の背中に手を回してきた。店の奥に連れて行かれた佐々間のほうへと、藤見を押しながら歩きだす。
 佐々間の目尻や口角は下がりっぱなしで、見ているだけでこちらまで溶けそうだ。
「今日は特別お二人とも一万人目ということでっ。では記念写真をお願いしますっ」
 佐々間の横の壁に大きなコルクボードが吊るされ、思い思いの角度に曲がった写真が貼られていた。
 上のほうでは「百人目」「二百人目」とタイトルが付いているのに、下のほうになると「五千人目」の次が「六千人目」と飛んでいたりする。
 どの写真のお客も笑顔だ。どのお客よりも頭一つ分以上小さいこの女性が、全ての写真の真ん中に写っていた。たぶんこの女性が店主なのだろう。
 なんだ本当にそんなサービスがあるんだと納得して、藤見はようやく店主に笑顔を向けた。
 藤見が佐々間の隣に並んで立つと、ぺこんと頭を下げて間に店主が入ってきた。
 店主の髪の毛の分け目を横目で見ながら、誰からも見えないように佐々間の脇腹を突っついた。タイミング良くフラッシュが光る。これでお下げ髪の店主の横で、苦痛に顔を歪めた佐々間の顔が写っただろう。
 好みの女性の側でやに下がっている写真などを残しては、佐々間の男としての沽券に傷がつく。ここはしかめっ面をさせてやるのが友情というものだ。
 佐々間と藤見が一番奥のテーブル席に落ち着くと、見物していた客はそれぞれの席へと帰っていった。
 集まっていたときには大勢だと思ったが、散らばってみると七人しかいない。
 入り口近くのテーブル席では、半袖の作業服姿の男が背中を丸めて新聞を読んでいる。藤見の向かいに見えるカウンター席では、金髪の兄ちゃんがマンガ誌を読んでいる。
 店主が最初の注文に応えて坦々麺を運んできた。
 佐々間の前に置かれる。佐々間は割り箸を用意する。手をつけた、と思ったら、もう麺はなくなっていた。
 くっと息の呑む気配がした。目をやると店主が涙ぐんでいる。
 箸を止めた佐々間は、泣き声を三秒ほど聞いてから尋ねた。
「お、俺、何かしたー?」
「三口で食べてくださるなんて、嬉しくて、ついっ」
 あーっとかうーっとか、意味不明のうめき声をあげてから、佐々間は下を向いたままぼそっとつぶやいた。
「おいしいからー」
「じゃ、チンジャオロースー、エビチリ炒め、麻婆豆腐、バンバンジー
 藤見はしゃべりの遅い佐々間に代わって、注文を並べた。
「はいっ」
「それを二人前ずつね」
「あの、ホントにそんなにっ?」
「この調子なら、どれも十口以内に食べきるって。こいつは」
 ますます佐々間はうつむいた。何やら照れたらしい。
「もちろん俺もね」
 店主は文字通り飛び上がり、スキップしながら厨房に戻っていく。
「チンジャオロースーお待ちっ!」
「完食!」
「エビチリ炒めお待ちっ!」
「完食!」
「麻婆豆腐お待ちっ!」
「完食!」
「バンバンジーお待ちっ!」
 店主はこちらが食べ終わる前に次の料理を出そうとする。目を吊り上げて料理を運んでくる。佐々間も藤見もつい次の料理が来る前に食べてしまおうとしてしまう。
 バンバンジーが届いたときには、佐々間も藤見もさすがに箸の動きが鈍くなっていた。が、そこであきらめはしない。
「じゃ、あとラーメンね。それで終わり」
 バンバンジーに手をつける前に、藤見は店主に注文した。
「はいっ!」
 店主が厨房にとってかえす。藤見と佐々間は箸を持ち上げる。ラーメンはラーメン屋にとって最強のファストフードのはずだ。たぶん、出してくるのに三分かかるまい。藤見と佐々間は黙って箸を動かした。その箸先は見えないほどだ。箸に引っ掛かったものを口に運ぶが、中に入ったものは全て丸呑みされてしまう。噛んでいては三分未満に勝てない。
 二人が箸を置くのと、店主がラーメンを届けに来たのは同時だった。
 三人はけらけらとひとしきり笑った。
「臨時ニュースを申し上げます」
 緊迫したアナウンサーの声が流れてきた。
 入り口付近の天井からぶら下がったテレビからだ。そちらを向いていた藤見と店主は、画面に目をやった。
「強盗の容疑で指名手配された荻原正義は……」
 アナウンサーの声とともに映し出された顔を見て、藤見は息を呑んだ。
 まるっきり佐々間だ。
 今どき珍しい七三にピシッと分けられた髪型。黒々と額に張りついた境目のない眉。つり上がった目はやけに細くて鋭い眼光を放っている。鼻や口には特徴がないが、口のすぐ横に大きなほくろがあって目立っている。
 顔の造作が似ている奴ならいくらでもいるが、ほくろの位置と大きさが同じ人間はそうそういない。
 藤見は佐々間の足をテーブルの下でこづいた。顔を上げた佐々間に唇を動かさずに言った。
「テレビ」
 口をへの字にしながら佐々間はテレビのほうへと顔を向けた。すぐに藤見に視線を戻す。こめかみから油汗を流しながら、たっぷり四秒経ってから口を開いた。
「俺だー」
「な?」
 居心地悪げにみじろぎしながら、佐々間が体を硬くした。Tシャツの上からも見てとれるくらい強張っている。
「強盗の容疑で指名手配されている荻原は、現在肉皮町に潜伏しているとみられ……」
 アナウンサーの声が告げたとたんに、店内にいる客すべてがテレビを見上げた。
「この町に?」
「勘弁してえ」
「面倒だな」
 客たちのささやき交わす声が聞こえてくる。
「ヤッホー!」
 カウンターの金髪青年が歓声を上げながら拳を天に突き出した。
 店主までがテレビをしげしげと見入っている。
「あの」
 藤見に声をかけられて店主は振り向いた。
「なんで騒いでるの?」
 小声で藤見が聞くと店主は声をひそめて答えた。
「そりゃもう、滅多にないですから、こんなことっ」
「事態わかってんの? 犯罪者が来てるんだよ? あの青年なんか喜んでいるみたいだけど」
「えー、あの、平穏でなんにも起こらないんですっ。この町。強盗どころか泥棒一つないんですっ。たいがいの家が親戚同士でお互いあれこれ融通し合う仲なんで。国道だけはたくさん人が通りますけど、トラックやバイクが通り過ぎるだけなんですっ。町とも人とも関わってきませんっ」
「で?」
 言いたいことはなんとなくわからないでもないが、どうも店主の話ははっきりしない。もっとしっかりした話を聞こうと藤見は続きをうながした。
「いろいろと、そのぉ、よどんじゃっているんですっ。溜まってるですっ。このあたり。刺激がないんですっ。変わったことが起こらないんですっ。なんていうか、その、張り合いがなくて。特にハタチそこそこの連中なんか、もう見ててもいかにも退屈そうでっ!」
 店主は金髪青年のほうをちらっと見た。藤見はうなずいてみせた。
「そこに指名手配犯で。もしかすると一生に一度のことかも知れないんで。それでぇ、まあぁ、こんななんですっ」
 女性が指し示した客席では若い客たちがテレビを熱心に見上げながら、手近な紙になにごとか書き込んでいた。指名手配犯の特徴でも書き留めているのだろう。背中に力が入って盛り上がっていた。
「警察にまかせておけばいいんじゃ?」
「この町は駅前に交番がひとつあるきりなんですっ。人口少ないですし、なにせ犯罪が無いのでっ。そんな町ですから警察より町民のほうが役に立つはずですっ。なにせ、道行く人たちが、ほぼ全員指名手配犯はいないかと探すわけですからっ」
 店主は一礼して遠ざかり、やはり手近な紙にメモしだした。
 交番しかない? 意外と過疎地域なんだ。じゃあ、警察に捕まる心配はない。藤見はホッとした。
 藤見は電車の中で痴漢と間違えられて、警察に拘束されたことがある。そのときはたまたま現場を盗撮していた奴があとから捕まった。そいつが持っていた盗撮写真に痴漢の犯人の顔がかすかに写っており、藤見ではないという物的証拠となって藤見は釈放された。しかし、その偶然がなかったら、いつまで拘束されたかわからない。なにせ「やっていない」ということを証明するのは、「確かにやった」ということを証明するよりはるかにむずかしい。
 今後どうするか、藤見は考えた。
 町内中親戚なら連絡網は、さぞ発展しているだろう。実際に捕り物に参加してくるのは若者だけだとしても、かなりの数になるに違いない。ニュースを見た人間が特徴をメモしているという状況を考えれば、早々に指名手配犯の情報は町内中に広まると考えていい。何時間もしないうちにテレビを見ていなかった人々も知るところとなるだろう。
 そして、特徴だけを聞いた人間は、当然佐々間を犯人と誤解する。なにせ本人も自分だと言っているくらいだ。
 藤見は下を向いたまま小声で佐々間に話しかけた。
「どうする? 警察に出頭するのが一番騒ぎにはならないと思うが、もしかすると長く拘留されるかも知れない。俺の痴漢騒ぎ、覚えてるだろ?」
 佐々間は五秒間沈黙したのち、口を開いた。
「何もしていない人間が来ることなんか考えてないだろうー。警察って。俺は犯人ではありませんって出頭したって向こうだって扱いに困るんじゃないかー?」
「じゃあ。とにかく強盗犯じゃないって言ってみるか? 犯人とよく似た旅行者がいることが町の人間に伝われば、間違えられる確率はうんと減る」
 佐々間は藤見の目を見て首を横に振った。
「そんなに都合よく、こっちの思惑通りに伝わらないよー。――他の手はー?」
「とっとと逃げて、この町を出る。で、百キロも走っちまえば自由だ」
 佐々間はため息をついて箸を置いた。ろくに食べてもいないラーメンがもったいないがしかたがない。逃げると決めたら急がないと、店内の人間に気づかれる。
 
「ありがとうございましたっ」と詰まった声を背にラーメン屋をあとにした。
 寝袋を積んだバイクに向かって早足で歩いていると、後ろで引き戸の大きな音がした。
「待ってくださいっ!」
 藤見の鼓動が跳ね上がった。佐々間と顔を見合せながら、ゆっくり振り向いた。店に入ってからこのかた、佐々間の顔はゆるみっぱなしで手配写真とはかけ離れているはずだ。ここで気がつかれることはないと踏んでいたのだが……甘かっただろうか。
「そ、そんなにまずかったんですかっ?」
 店主の両手はエプロンのポケットのあたりをつかんでいた。目からは大粒の涙があふれて頬をすべり落ちている。
「うまかったよー!」
 佐々間は店主のほうに体ごと向き直った。店主は佐々間を見つめて顔を少し突き出した。涙で濡れた頬に赤みがさした。
「じゃあぁ、なんでラーメンだけ食べてくれないんですかっ」
 しゃくりあげながら店主はじりじりと近寄ってくる。
「宿の予約がー、そう。三時までにチェックインしなくてはいけないって思い出してさー。ほらもう二時だから行かないとー」
 佐々間がいつになく饒舌になっている。よほど、店主が好みらしい。なんとか損ねた機嫌を取り結ぼうと必死になっている。藤見はなかばあきれながら成り行きを見守った。
「私、物知りませんけど、いなかもんですけど、そんな宿があるわけないってことはわかりますっ」
「き、君は知らないかもしれないけどー、そういうところもあるんだよー」
「か、かまいませんから。私っ。大丈夫ですからっ。まずかったのなら、どこがどう、とはっきり言ってくださいっ。そのほうがすっきりしますっ。今度こそって思えますっ。覚悟は出来てますっ」
「いや、違うー。本当に急な用事が出来ただけなんだー」
「注文したラーメンを、残さなくてはならないほどの急用って、なんですっ」
 泣きながら佐々間をしかと見上げている店主と、でかい図体のくせして女性に対してだけは腰砕けになる佐々間を、藤見は交互に見た。
 店主の目がパッと見開かれた。なにやら大きくうなずいている。
「ご、ごめんなさいっ。お急ぎなのに引き止めたりして。失礼しますっ」
 店主はくるっと体を回して店に入っていった。
「来い!」
 藤見はワンタッチでヘルメットをサイドからはずして装着する。佐々間は、と見るとまだ突っ立っていた。
「早くしろ!」
 藤見はバイクにまたがってキーを差し込んだ。幸い他に停まっている車両はない。そのまま発進させてその場で方向転換する。
 ようやく佐々間がヘルメットを着け終わった。佐々間の向こうで店の戸が勢いよく開いた。鍋で盾を造り、手におたまや菜箸を持った客たちがぞろぞろと店から出てくる。先頭は店主だ。
「ご、強盗犯だったんですねっ!」
 店主が涙を溜めた目をつり上げて怒鳴った。
「強盗犯じゃないー」
 佐々間は店主に弱々しく言い返した。
「君にだけは、そんな風に思われたくなかったー」
「だって、そのホクロっ」
「さらばー。愛しい人よー」
 藤見の腕に鳥肌が立ち、あやうくハンドルを放しそうになった。こんなクサイセリフが言える奴だったとは。
 藤見は振り切るようにスタートして国道に入った。バックミラー越しにバイクにエンジンをかける佐々間が見えた。
「に、逃がさないっ!」
 飛び出してくる店主をかわして国道に乗り出す佐々間がミラーに映った。
「強盗だあぁぁぁぁ!」
 店主の後ろで金髪青年の絶叫が上がった。行く手の国道脇の家々の窓が次々と開いていく。
「指名手配犯だあぁぁぁぁ!」
 声がこだました。