矢車通り~オリジナル小説~

はてなダイアリーから移行させました。

逃亡はこっそりと(中編)26枚

   二

 大型トラックや他県ナンバーの車を縫って国道を飛ばし続けた。ラーメン屋がはるか後ろになったころ佐々間が横に並んできた。左手を内側に向けて親指を立て、しきりに横に振っている。
 左に行こうということらしい。
 藤見は早朝に確認した地図を思い浮かべた。
 肉皮町は山に挟まれていて縦に長い。真ん中に線路と国道と川が走っている。中心に一つだけ駅がある。
 まっすぐ国道を抜けて町の外に出てから左に折れ、フェリー乗り場へ向かう予定だった。が、今は人通りの多い駅前を通るわけにはいかない。
 となれば、早めに左に折れて山道を通って町境を目指すのが妥当だろう。が、それはそれで不安があった。
 佐々間のバイクは安定走行を重視したBMWの K1200LTで、ハンドルから手を放しておいても倒れない。どこまでもまっすぐ進むようなバイクだ。藤見のバイクは佐々間のよりは多少機動性はあるものの、やはり安定走行重視のKAWASAKIのZZ-R400でオフロードには向いていない。もし道が舗装されていなかったら転がせなくなってしまう。出来れば知らない山道は避けたいところだが、そんなぜいたくを言っていられる状況でもない。
 佐々間に向かって藤見は親指を立てた。全行程、舗装が行き届いていることを祈りつつ、佐々間と藤見は次の信号を左折した。
 スピードを乗せながら、すぐ次の交差点を右折しようとして作業服姿の歩行者に気がついた。同じタイミングで交差点に入りそうだ。だがブレーキをかけてもこちらは止まれそうにない。佐々間がスピードを上げたのを見て藤見も上げた。佐々間のバイクが作業服の鼻先をかすめ、作業服はわっとばかりに飛び退いて尻餅をつく。その目前を藤見は走り抜けた。
 通り過ぎてから藤見は長く息を吐いた。
 佐々間のバイクのブレーキランプが灯った。ちょっと体を傾けて前方を確認すると、次の交差点の信号機が黄色になっていた。
 タイミングからいって、さっきのスピードで突っ込んでいれば黄色のうちに駆け抜けられたはずだ。いつもの佐々間ならそうする。
 赤信号を守って停車したものの、歩行者はいない。藤見は佐々間の隣に並んだ。
「ちんたら……」
「藤見ー」
 佐々間が即答してきた。藤見は唇を引き締める。
「ん?」
「ひとを轢くわけにはいかないー。安全運転で町内を通過するー」
「ん」
 信号が変わって発進した佐々間はやけにのんびりと走り出した。時速四十キロの標識が立っているのを見て、藤見は肩を落とした。
 道の両側の田んぼでは細長い葉が風に揺れている。山裾までひろがる、のどかな風景の中をとろとろと大型のバイクを走らせる。
 後ろから軽トラックが近づいてきた。さきほど通り過ぎた脇道から出てきた奴だ。藤見はぐっとハンドルを握りしめた。
 軽トラックは静かに近寄ってきて、相対速度はたいして出さずに追い抜いた。そのままこちらとずーっと同じ車間距離を保って走行していく。
 トラックの右ウインカーが点滅した。右折する道が見当たらずにいぶかしく思っていると、左に駐車車両が見えた。
 佐々間がすかさずウインカーを出してくる。しょうがなく、藤見もつきあった。
 中央線を少しはみだしたトラックは、車両を避けて通り過ぎると左ウインカーを出してくる。
 佐々間も律儀に続く。
 進路変更はウインカーを出すことになってはいる。教習所ではそう習う。だが、一般道、ましてや、こんな交通量の少ない道路でパトカーもいないのに守る奴はいない。それどころか地方によっては赤信号無視、中央線はみだし禁止無視が横行している。
 何が楽しくて歩行者一人いない道路を、時速四十キロで走らなくてはならないのだろう。しかもうんざりするほどの安全運転で。
 藤見はのろのろとウィンカーを操作した。
 トラックが徐々に下がって佐々間と並んできた。運転席の後ろの窓から、佐々間のほうに何度も顔を向けているのが見えた。
 たぶん何か話しかけているのだろうが、顔は透明なプラスチックで全面覆われている。走行中はとてもじゃないが人間の声など聞き取れない。
 先の信号が黄色に変わった。停止する佐々間に合図を送って少し前に行かせた。佐々間の顔をトラックの運転手に見せるわけにはいかない。藤見は自分がトラックと並んだ。
 風除けのプラスチックを上げて、運転している男に笑いかけた。
「何か?」
「長いこと、この道通っているけど。法定速度で走っているもんを見たのは初めてなんでえ、どういう人かと思ってさあ。なんか教科書通りの運転って感じだしい」
 長いといっても四、五年だろうと思いつつ、藤見は愛想笑いを続けた。
「こいつ、教習所で教官やってんだよ」
「ああ、それでえ」
 あっさり相手が納得したので、かえって笑顔がこわばった。こんなに簡単に相手の言うことを信じるのか? 教官ならいつでもどこでも交通ルールを守っているというような単純な人間観しか持っていないのか、ここらの連中は? 
 それって、もしかすると「悪い奴だ」と決めつけたら、何の疑問もなく追い詰めていくということではないのか?
 こいつらに指名手配犯と間違えられて追われるというのは、ものすごくやばいことなんじゃなかろうか。
 痴漢と間違えられて取り押さえられたときの、まわりの冷たい視線を思い出して藤見は身震いした。
 クラッチをつなごうとして動く左手を、かろうじて意思で押さえつけた。急に逃げたら怪しいに決まっている。
 トラックの中から『ルパン三世のテーマ』が流れ出した。運転手は助手席から何やら取り上げると耳に当てた。
「なに? え? で、ナンバーは? え?」
 男の視線が佐々間のナンバープレートに止まった。男の目が大きく開かれていく。
 こちらの様子を見ていた佐々間は、前に向き直ると急発進していった。
 藤見も続く。
 佐々間のがっしりとした後ろ姿を見ながら、藤見はスロットルを開いて加速していく。
 次の交差点では右側から進入してきたセダンから、鋭い制動の音が響きセダンのタイヤが路面を滑った。
「あぶねえだろうが!」
 ドスのきいた兄ちゃんのわめき声をあとにして、バイクをどんどん加速させる。バックミラーを確かめると、軽トラックが追ってきていた。
 佐々間と藤見は自転車の脇をすりぬけ、耕運機の前を横切りながら疾走を続けた。
 いつしか上り坂に入っていた。
 後ろからは軽トラックが追いすがってくる。さっきの一台だけではなく、五台に増えている。カーブで引き離し、直線で追いつかれる。それの繰り返しだ。機動性の違いでだいぶ先行してはいるものの、軽トラックをこの山道で振り切るのは無理かも知れない。
 佐々間がスピードを落としたのを見て、藤見も少しスロットルを絞った。道が左にカーブしているのが見てとれる。重心を左に移そうとしたとたん、佐々間がまっすぐ進んでいるのが目に入った。
 その先は視界が開けて町が見えている。藤見の位置からは崖に飛び込んで行くようにしか見えないが、佐々間が行くからには道が見えているのだろう。佐々間を信じてそのまま進んだ。
 佐々間のバイクは小さな石柱と石柱の狭い間に乗り入れていく。佐々間の体が前に傾いた。そのまま、視界から消えていく。
 藤見が続くと石造りの階段が見えてきた。佐々間は座席からお尻を浮かし、重心を後ろにとって器用に階段を降りていく。
 バカヤロー!
 藤見は心の中で叫んだ。声に出してののしってやりたいが、口を開けたら舌を噛む。
 佐々間のBMWが降りられるんなら、藤見のZZ-Rで出来ないはずはない。ないが……。
 前輪ががくんと落ちた。体が前に引かれて地面に向かってダイビングしていく。グリップを回して軽く駆動をかけながら、腰を浮かせて後ろに重心を取る。右でも左でもバランスを崩せば一気に転んでしまう。前輪が跳ね上がる度に、少し変わる角度を修正しつつバイクを立てた。
 ぐんぐんと地面が近づいてくる。ブレーキをかけて速度をゆるめたい。こんなスピードで地面に激突したらただではすまない。
 だが、ここでブレーキをかけたら前輪が引っかかって倒れてしまう。むしろスピードを上げてバランスを保つのだ。
 頭ではわかっていても、迫ってくる地面を見ているとブレーキをかけそうになる。
 がくんと階段を一段降りるたびに、バイクが跳ね上がりハンドルから手が放れそうだ。
 目前に地面が迫る。ふっと体が地面と平行になる。慌てて左に体を傾ける。そのままタイヤが滑りそうになるのを、右に上半身を戻して立て直し、どうにか走り出した。
 目の前には細いが、きちんと舗装された道がある。歩いて山に登るひとのためのショートカットの階段らしく、階段とつながる形で道がある。あまり使われていないのか、道の脇には鉄くずなどが放り出してあった。
 階段の上では、大きなクラクションの音がいくつも鳴り響いている。
 追ってこられないトラックが、悔し紛れに鳴らしているのだろう。
 藤見は鼻唄まじりでバイクを進めた。
 ところがしばらく走っても、佐々間のバイクが見当たらない。藤見は元来た道を引き返した。
 階段からあまり離れていないところで、草がまとめて倒れているのが目に入った。そこから森の中に乗り入れて少し進むと、葉が生い茂った木の奥に、佐々間のバイクが転がっていた。藤見はバイクの横に足を抱えて座る佐々間の前で停車した。
「どうした?」
 心ここにあらずといった表情で、佐々間は藤見を見上げた。
「パンクー」
「どんなだ?」
 唇をへの字に曲げて、佐々間はバイクの前輪を差した。
「タイヤの横から鉄の棒が刺さってるー」
 横から、となると簡単に修理は出来ない。通常の走行ならいけるかも知れないが、逃避行は無理だろう。
「ここなら隠れていられるかもな。しばらくここにいるか?」
 ろくに車通りもない山道の途中の、さらに脇道だ。実際、藤見は気がつかなかった。テントも寝袋もある。手元にある食料で二、三日なら過ごせるだろう。
「仕事休んだらクビになるー。バイクは置いていっても俺だけでも帰らないとー」
「そだな」
 地図を確かめるとまだ町の中心部すら通過できていなかった。相談の結果、駅から電車に乗ることにした。
 藤見は佐々間の顔を剃ったり、絆創膏を貼ったりして特徴を消した。二人は白いティーシャツを青のカッターシャツに換え、皮のライダーパンツをジーンズに換えた。
 当面必要な物だけをリュックに詰めて、あとの荷物は雨が降っても濡れないようにバイクに載せてシートをかぶせた。
「必ず、迎えに来るからな」
 佐々間はシートの上から、バイクをなでた。
 バイクは便利屋にでも頼んで後で取ってきてもらうつもりだ。あとからバイクだけ送ってもらうと、かなり高額な出費になるが捕まらないためにはしかたない。背に腹は替えられない。
 差し迫った逃亡を成功させるために、多額の出費を我慢するというのは、どちらが背でどちらが腹なのだろう。そもそも、背も腹も大事なものなのに、なぜこんな言い方をするんだろう。
 今までの成り行きがどうにも腹立たしくて、藤見は次々と文句を頭に浮かべていった。
 ふと、佐々間が心配そうに顔を覗き込んでいるのに気がついた。背の低い藤見の顔を見るためには、佐々間は中腰にならねばならない。その手間をかけるからには、よほど暗い顔をしていたに違いない。
 文句を言っていても何も解決はしない。行動あるのみ、と気持ちを引き上げた。
 
   三

 方角だけ見当をつけて山の斜面を降りていった。軽トラックが走り回る音がときどき聞こえてドキッとした。バイクを置いてきた道のほうからも爆音がした。あのままバイクに乗っていたら、道をふさがれてすぐに捕まってしまっていただろう。パンクしたのは運が良かったのかも知れない。
 国道に出た時は四時にもなっていなかった。ラーメン屋を出て二時間しか経っていないことになる。藤見は胸が上下するほど大きな動作でため息をついた。
 地図によると駅までは四キロもない。藤見と佐々間は国道に接した細い道を選び、住宅街へと入っていった。
 しばらく住宅街を歩くと藤見と佐々間が居る道と、斜めに交差する道が見えてきた。そちらの道はぞろぞろと大勢人が歩いている。
 同じような格好をした集団がひとかたまり行き過ぎたと思うと、やがてまた次の集団がやってくる。まるで誘い合って祭りにでも行くようにがやがやとにぎやかにおしゃべりをしている。
 交差点に出た藤見は、手でひさしを作って右に目を凝らした。突き当たりにトラックが行き交う国道があった。左を向くと道の両脇にいろいろな看板が出ていた。
 どうやらこの道は駅へと続く大通りらしい。藤見と佐々間はひとの流れに乗った。
 長靴を履いて割烹着をつけたおばさんグループを追い越すと、急に会話が聞こえてくるようになった。
「それでねぇ。息子はすんでのところでぶつかるところだったって、カンカン。絶対捕まえてやるって息巻いちゃってぇ」
「無理ないわあ」
「でも、お宅は車だったんでしょ? 鈴木さんとこの息子さんなんか、横断歩道を渡っているときにバイクが突っ込んできたんだって。あと一歩前に出てたら轢かれてたってよ」
「ひどいわあ」
「怖いぃ」
 いや、あのときは、いや、だって……。と申し開きをしたい気持ちをぐっとこらえて、藤見と佐々間はうつむいた。逃げることにしたのは、面倒なことに関わり合いになりたくなかったからなのだ。ここで問答をはじめてしまっては、何のために逃げたのかわからない。
 藤見は佐々間に目配せした。佐々間もうなずいている。二人とも自然と早足になった。
 唇を噛みしめながら下を向いて歩いていると、女の子が顔を見上げてきた。いつのまにか子供たちに取り囲まれている。
「ねえねえ、おじさんたち、なんか嫌なことでもあったの?」
「え」
 親しげに話しかけられて、藤見は反射的に返事をした。
「くらーいよ? せっかくのお祭りなのに」
「そ、そうか」
「シメイテハイハンってひとを追いかけるんだよ。わかってる?」
「ああ」
「捕まえたら、お巡りさんに知らせるんだよ?」
「ああ」
「そんなに下ばっかり向いてたら、探せないじゃん?」
 女の子は藤見の察しの悪さにあきれたのか、強い口調で言ってきた。
「あああ、そっか」
 藤見はポンと手を打ってうなずいた。
「そうだね。顔を上げてないと、見逃すね」
「うん、今日はなんだか人が多くて、あたしたちなんか、知らない人ばっかりでドキドキしちゃう。ね?」
 女の子がまわりの子供たちにうなずきかけると、子供たちはクスクスと笑い出した。
「あー、君たちは捕まえようとしたりしちゃ、ダメだよ。見つけたら知ってるひとに言うんだよ?」
 藤見が顔をしかめて注意すると、女の子はペロっと舌を出した。
「わかってるって」
 子供たちは駅のほうへ走り出す。藤見と佐々間は見えなくなっていく背中を目で追いながら顔を上げた。
「変装しているんだし、バレやしないよ。普通にしてよう、普通に」
 佐々間は顔から力を抜こうというのか、口や目などを動かし始めた。額や頬など動くところはてんでバラバラに動いている。
 傍から見ていると、百面相だ。
 前をゆく幼児が、母親らしい女性の手を握ったまま振り向いて、佐々間の顔を見つめている。
 佐々間はピタッと顔を止めた。目を半ば閉じ、口をクワっと開けた。
 たぶん、笑おうとしたのだろう。藤見にはわかる。だが、実際には……。
 佐々間と目が合った幼児は、大きな声で泣き出した。泣き声に注目が集まる。
 幼児はべそをかきながら、大粒の涙を流し続けている。
 手を握っていた女性が、ひょいと幼児を抱き上げた。背中を軽くリズミカルに叩いている。しゃくりあげる回数が、少しずつ減ってきた。
「おい」
 藤見が佐々間を肘でこづくと、佐々間はようやく笑いだした。ニコニコと愛想を浮かべて幼児に顔を向けている。
 幼児はしばらく口をぽかんと開けて佐々間を見ていたが、やがて泣き止んだ。
 佐々間は頭をかきかき、くすくすと笑い出した。
 うふふ。えへへ。ははは。ぶはははは。
 ひーっ、ひっひっ。
 佐々間は高笑いをし始めた。
「強盗犯だ!」
 ギクッとして声のしたほうを振り向くと、長靴を履いた若者が佐々間を指さしていた。
「ひ、人違いー」
 たっぷり二秒沈黙したあと、震える声で佐々間は抗議する。佐々間をにらみつけながら、若者は大きくかぶりを振った。
「さっき、オレのトラクターの前を横切ったライダーは間違いなくお前だ!」
 佐々間はアゴをカクッと落してから、三秒かかって引き上げた。
「そんなことー、決めつけられるわけないだろうー」
「体と足のバランスだ!」
 自分の体を眺め佐々間は四秒首を傾げてから、口を開いた。
「べつに普通だろー?」
 佐々間は八の字に眉毛を曲げながら、藤見に同意を求めた。
 若者は指を一本、顔の前に立てて横に振った。
「そうだな、普通の範囲内だ。だが、オレにはわかる。オレにはな。絶対身体測定能力があるんだ!」
 佐々間は五秒ほど唇を噛みしめてからおもむろにつぶやいた。
「世界でも三人しかいないと言われている伝説の能力者がー、こんなところにー!」
「なんだ、その絶対身体測定能力って」
 藤見が尋ねると佐々間は一度ポカンと口を開けてから、ああ、とうなずいた。
「教習所の教官に伝わっている都市伝説だー。 絶対身体能力ってー、なんの器具も使わずにー、身長、体重、座高、バスト、ウエスト、ヒップ、腕まわり、肩幅、太ももまわり、足の長さを計ってしまう能力だー」
「……つまり?」
「こいつー。コホン。このかたの目に一度映ったら、どんな変装をしても個体識別されるってことだよー。体の全てのサイズを覚えてらっしゃるんだからー」
「……えーと」
オービスってあるだろー? スピード違反をした車両を自動的に写真に撮る、あれー」
「ああ」
「あれは普通ナンバープレートまでしっかり写しておくからー、後からどこの誰が違反したのか調べられるよなー?」
「ああ」
「ところがー、泥がついていたりー、わざとよごしてあったりして、読めないことがあるー」
「うん」
「そのときー、体型や顔だけで本人を完璧に識別できる能力者がいれば、町で見かけたときに捕まえられるわけだー」
「待て」
「なんだー?」
「スピード違反をした場所と、その人間が居る場所が近いとは限らないだろ?」
「そうだー、遠いほうが多いだろうなー」
「犯人を町で見かけるのは、ものすごく珍しいことなんじゃないか?」
「そうだー、実際には役に立たない。だから伝説なんだー。実物に会うのは俺も初めてだー」
 佐々間はじりじりと後ずさりしながらも、若者と目を合わせた。
「指名手配犯の写真はごらんになりましたー?」
「いや」
「そうかー、見ててくださったら、あの写真が俺じゃないってことをすぐわかっていただけたのにー。残念ですー」
 藤見は目立たないようにゆっくりと首をめぐらして人々の様子を眺めた。佐々間のまわりに一定の空間がある。その外側に壁のような人垣ができつつある。人々がどんどん集まっていて、抜けていけそうな隙間は刻一刻と埋まっていく。
 一歩、また一歩と、佐々間は後ずさる。とうとう、街頭テレビの足になっている鉄柱に背中がぶつかった。駅舎はすぐ後ろにあるはずだが、もうたどりつけそうにない。
 若者はまっすぐ佐々間を見据えたまま、顔を突き出してくる。
「そうだな。オレなら数ミリ単位のずれでも感知できたんだが、見ていないものはしかたない。おまえの言うことを確かめられなくて残念だよ」
「人違いだー」
「そうか。だが、さきほど交差点で歩行者の鼻先をかすめたのはおまえだろう?」
 佐々間は唇を噛みしめた。
「オレに急ブレーキをかけさせたのも、おまえだよな?」
 若者の頭はだんだんと沈み、下から佐々間の顔を見上げる体勢になっていく。両手をズボンのポケットにひっかけて若者は半身になった。
 人垣を作っている人々のまなざしが、若者の言葉を受けてだんだん険しくなっていく。
 藤見は佐々間の背中に手を置いて強く叩いた。
 佐々間ははっとしたように顔を引き、人々の顔に目を止めながら見回した。こめかみから汗が流れ出した。
「こ、交番に行くー!」
 人垣に向かって絶叫した。