矢車通り~オリジナル小説~

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離れない(仮)16

16

 九時を回っても純子が帰って来ない。
 一緒に暮らし始めてから、こんなことはなかった。僕は胸騒ぎがして何も手につかない。電話機を見つめながら連絡を待つ。こちらからは何度も掛けたが、電源が切られているか電波が届かないところにいるとアナウンスが流れるばかりだ。
 何度も考え直してみたが、最近、純子を寂しがらせた覚えはない。純子から出かけて行く理由はないのだ。もしかすると犯罪にでも巻き込まれたのか? 純子は目立つ美少女で、繰り返しゲーセンで売春をしている。犯罪組織などに目をつけられても不思議はない。こうなってみると、なぜ、もっと考えておかなかったのかと悔やまれる。
 純子から連絡があったときに備えて、お財布と携帯電話を用意する。電池切れになってはまずい。単三電池で充電できる装置と電池をたくさんカバンに詰め込んだ。靴を履いたまま、玄関先に座る。
 十二時を回った。そろそろ何か手を打たねばならない。
 百十番するには、理由が希薄すぎる。今どき、十七歳の少女が一晩帰らなかったからといって、警察が親身になってくれるとは思えない。何か、はっきりと純子の身に危険が迫っていることを示せる証拠はない限り動いてもらえないだろう。僕は思い立って、一番近い警察署を訪ねてみた。入り口には明かりが点いている。誰か居るのかと入ってみると、カウンターの向こうに制服を来たお巡りさんが座っていた。僕が近づいていくと、立ち上がってカウンターまで来てくれる。
「何か?」
「同居している女性が帰って来ないんです。今、妊娠三カ月で安静を必要としています。こんな時間になっても帰って来ないなんて考えられないんです。何か事件か事故の連絡は入っていませんか? 身元不明の女性が保護されたりしていませんでしょうか?」
「ああ、それはご心配ですね。今のところ、それらしい連絡はありませんが、もし、入ってきたら連絡しましょう。女性のお名前は?」
「真白木純子。十七歳です。血液型はA型。身長は百五十センチ、体重は四十キロ。やせ型で髪を伸ばしています。ふわっとした感じの栗色の髪です」
「真白木? ちょっと待ってね」
 お巡りさんは机の端末を覗くと、何事か打ち込んでいた。やがて、手を放して頭をぽりぽりとかく。
「詳しいことは言えないが、まだ、待っててもいいかな」
「あの」
「あなたは婚約者か何か?」
「はい。そうです」
「その子とね。前にちょっと関わったことがある。そうか、婚約者か。たぶん、朝になったらブラッと帰ってくるよ。私の知ってる真白木純子なら、そういう子だった」
「何年前くらいのことですか?」
「五年前かな。まだ、小学生だった。悪いんだが、守秘義務がある。帰ってきたら、本人に聞いてみるといい。ゲームセンターでお巡りさんに説教されたことがあるって、きっと、覚えていてくれてるだろう」
 僕は純子がしてくれた、たくさんの話の中から、お巡りさんにまつわる話がなかったかと思い出してみた。一つだけ、いい思い出としてあった。
「駄洒落の、お巡りさん?」
 お巡りさんの口が情けなさそうに、への字に曲がった。
「そんな風にしゃべってるのか? 私のこと」
「ええ、嬉しそうに。よほど面白かったらしいです」
「ふとんがふっとんだ。とか。ねこがねこんだ。とか。もう、誰も笑わないようなギャグを言って、気持ちをほぐそうとしただけだよ。何からかはよくわからなかったが、とにかく助けなきゃと思った。そう思わせる子だったね。すぐ見かけなくなったから、わかってくれたのかと思っていたが」
 お巡りさんが純子のことを覚えてくれていたことがありがたかった。僕の不安を打ち明ける。
「僕はありもしない危険を恐れているのでしょうか。去年の十月から同棲しているのですが、今まで、ただの一度も九時過ぎに帰ってきたことはないんです。高校生だから九時には帰ることって言ったのを律儀に守ってくれていたんです。もちろん、一緒のときは、もっと遅くまで外にいたこともありますが、純子が一人で出かけたまま帰らないなんてことはなかったんです。もしかすると、犯罪に巻き込まれているのかも知れない。どこかで事故に遭っているのかも知れない。そう思うと、いても立ってもいられなくて」
「立ち回り先に、心当たりはあるの?」
「いえ。実家は嫌ってますし、泊めてくれるような友達もいないはずです。電話はつながらないし、お手上げです」
「悪いが。それでは、ここでもどうしようもない。おうちのほうは空けといていい?」
「ええ、鍵は持ってるはずですから、帰ってきたときに開いていなくても、勝手に入って休むはずです。僕がいなければ電話してくるでしょう」
「じゃあ、ここに居なさい。万一、事件だったら、すぐ教えてあげる。一人で待つのは心細いだろ」
「はい、ありがとうございます」
 僕は待合所のソファに腰掛けた。お巡りさんがお茶を持ってきてくれる。あわてて立ち上がってお茶を受け取った。
「すみません。こんな気を遣っていただいて」
「なんの。指先が真っ赤なのが、可哀相だっただけだよ」
 携帯電話を握りしめたままの右手に目を落とす。確かに寒さで赤くなっていた。
 ここでなら、休めそうな気がする。僕は端末を握ったまま、目を閉じた。とたんに体中の筋肉が緩むのがわかる。一人で純子の心配をして、ガチガチになっていたらしい。純子の心配をするのは僕だけではない。それがわかっただけで、とても心強かった。
 ああ、そうだ。もっといろいろな人に純子と関わってもらおう。
 僕は唐突に思いついた。僕がいないときは、代わりに誰かがいてくれればいいのだ。もちろん、純子のほうから行けばいい。側にいられる人がたくさんいたら、純子だって寂しくはない。田中さんは事務所に純子がいても、気にしないだろう。あと、二、三か所、純子が寂しくなったら、頼れる場所を作ればいいんだ。僕一人が二十四時間を純子に提供しようとするのは無理があるけど、大勢の人に少しずつ時間をもらえば、純子の二十四時間を隙間なく埋めることができるかも知れない。
 僕は身を起こして、純子が行ってもよさそうなところをリストアップした。九時まででよければ、行けるところはある。問題は純子のほうがなつくかだが、こればかりは計画を話してみないとわからない。僕のほうは、何がなんでも九時までには仕事を終わらせることにすればいい。添削指導の仕事を受けられれば、教師としてのキャリアアップにもつながる。塾を開くという夢にももう一度チャレンジできる。
 純子が帰ってきたら、まず、その話をしよう。
 僕は手帳に、メリットやデメリットを書き込んでいった。
 電話の音を聞いて、我に返ったとき、時計の針は、午前五時を指していた。