矢車通り~オリジナル小説~

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離れない(仮)13

     13

 それは二月の半ばのことだった。
 朝のトーストとコーヒーを食べていると、突然、純子がトイレに駆け込んだ。後ろから声をかけると、ものすごい勢いで戻していた。僕まで気分が悪くなりそうだった。
 それが最初で、純子の吐き気は、二日経っても三日経っても治らなかった。間抜けな僕は、何日も続いて初めて病院に連れていくことを思いついた。二人で近所の総合病院に向かった。僕は純子の婚約者で保護者の立場だと名乗った。医師に症状を話して、検査を受け、結果を待った。再び診察室に呼ばれる。純子を診察用の椅子に座らせ、僕はその後ろに立った。
「えーとですね。妊娠検査の結果が陽性なんですよ」
「はい?」
 二人同時に聞き返した。
「妊娠検査の結果が陽性です」
 医師はもう一度同じことを繰り返した。そして、僕たちにその言葉の意味が伝わるのを待つかのように沈黙した。
 それはあり得ないことだった。でも、今はそのことについてとやかく言っている場合ではない。純子にとって一番言って欲しいはずの言葉はなんだ? 少なくとも堕胎しろではないはずだ。
「堕ろしてください」
 ひどく冷静な声で純子が言う。
「純子」
 僕の言葉はほとんど悲鳴だった。
「冗談じゃない、やめてくれ。そりゃ予定より早かったけど、それならそれで、また別の計画を立てる。大丈夫。純子も赤ん坊も面倒みる。必ず。あ、すみません。先生。二人でよく話し合ってきます。今日のところは」
「そうだね。よく話し合って来なさい。堕胎するなら三カ月以内だから、三月の始めまでに決断すること。それから、保険証を見てるから、立ち入ったことを聞くけど、奥さん、まだ籍に入ってないね。産むとしたら、すぐ結婚できるのかい? 未婚じゃ、親も子も大変だよ?」
「はい。大丈夫です」
「それで産むにしても、奥さんはまだ体が出来上がってないから、二十歳過ぎて産むよりは危険だからね。だんなさんも、今授かった命が惜しいのはわかるが、奥さんに無理させると取り返しのつかないことになるかも知れない。どちらかと言えば出産より堕胎のほうが奥さんの体の負担は少ないということは考慮してあげてください。それと今度受診するときは、産婦人科に行ってくださいね。内科じゃなくて」
「はい、ありがとうございました」
 僕は純子を促して、診察室をあとにした。
 帰り道、僕は純子の手を握りながら、ぶらぶらと歩いた。
「なあ」
 僕は何気なく声をかけたつもりなのに、純子は飛び上がりそうになった。こんなに済まなく思うくらいなら止めればいいのに。だが、起きてしまったことはしかたない。ただ、どうしても確かめたいことがあった。
「こんなこと聞いてごめん。あの、純子、避妊はしないの?」
「避妊?」
 純子の声音は、初めて聞く外国語を繰り返しているかのようだった。なんのことだかわからないのか、首を傾げて僕のほうへ視線を向けている。
「子どもができる確率を減らす方法だよ」
「知らない」
「中学の授業でやったろう?」
「だって性教育なんて、もう、あたしには関係ないと思ってたから、ぜんぜん聞いてなかったもの」
「頼むから、自分をもっと大事にしてくれ。僕のために自分を大事にしてくれ。自分を守る方法をもっと覚えてくれ」
「だって、大事にされたことないもの。わからないよ」
「そうだね。純子が大事にしてもらいたかった人はしなかった。でも、本当に誰も純子のことを気にかけなかったわけじゃないんじゃないか? 僕の前に純子のこと心配してくれた人はいなかったの? ほら、前に言ってた、駄洒落の……」
「お巡りさん」
「そう。ゲーセンの前で声を掛けられたって言ってたろ?」
「うん。こんなに夜遅く出歩いているとおおかみがおーかみしてくるぞー、なんて言っちゃって。小学生なんだから、さっさと帰りなさいって、お説教されてるんだけど、なんだか漫才聞いてるみたいだった。あんまり遅くならないように気をつけたから、一回しか会ってないけど。そうだ。夜勤していることが多いから、何か困ってるんなら相談においでって言ってた。ママのこと、言ってみようかなって思ったんだ。行かなかったけど」
「ほかには? 誰か、いなかった?」
「四軒離れたところに、独り暮らしのおばあさんが住んでて、子どもが寄ってくると水撒いて追っ払うから、子どもたちの間では嫌われてたんだけど、なぜか、あたしだけは家に入れてくれてた」
「何か言ってた?」
「なんにも。あたしが庭から入って、窓ガラスに張りついてると、中からおばあちゃんが黙って開けてくれて、あたしはランドセルごと入って、おばあちゃんが編み物したり、折り紙折ったりしてるのを黙って見てるの。二人ともなんにも言わないで、ただ、同じ部屋に居るだけ」
「おばあさんはどうしてるの?」
「中学上がるとき、突然いなくなった。たぶん、死んじゃったんだと思う。家が空き家になって、すぐ、別の家族が住みはじめたから」
「ほかには?」
「いない」
「じゃあ、純子が大事にしたいと思った人は? いないの?」
「先生だけ」
「いや、僕の前に」
「通学路に生えてた貧乏草は大事にしてた」
「貧乏草?」
「マーガレットに似た花なんだけどね、花びらがあんなに広いふわふわのじゃなくて、針みたいな尖った花びらなの。似てるけどしょぼいから貧乏草。なんだか、あたしみたいで毎日声かけてたんだけど枯れちゃって悲しかった」
「もっと思い出してごらん」
「熱帯魚屋さんの売れ残りの金魚とか、コンクリートの駐車場の壁に張りついていた帰る家のないヤモリとか、いつも飼い主に蹴飛ばされてる近所の飼い犬とか、そういうものたちは大事だった。死んじゃったときは悲しかった。でも、先生。大事だったけど、あたしは何もしてやれなかった」
「それは子どもだったから。大丈夫。少しずつ覚えていけばいいから。とりあえず、もっと自分を大事にすることを覚えよう。まず、栄養をバランス良くとるんだ。それから、安静にして、お腹の子どもが楽しくなるように、純子もいつもニコニコしてないといけないよ」
 純子の顔がたちまち曇る。
「産めない」
「僕は純子の子どもなら可愛がれる」
「どうして? どうして先生、そんなにやさしいの? あたし、裏切ったのに」
「やさしいんじゃなくて臆病なだけだ。僕は純子がいなくなるって考えただけで死にそうになる。純子は僕を裏切ってない。僕がかまってくれなくて寂しかったんだ。だから、抱きしめてもらいに行った。それだけだ。でも、いいかい。ほかの人には、決して理解してもらえない。だから、この子の父親は僕だということにしておくんだ。いいね。誰にも言っちゃダメだよ」
 そんなことより、問題は一緒に暮らしているだけでは、やはり純子を止められなかったということだ。今、二カ月なら、純子がほかの男と寝たのは、十二月ということになる。論文で忙しかったときだ。あそこまで忙しいことは卒業までもうないはずだが、いざ社会人になったらどんなことが起こるかわからない。少なくとも学生よりは社会人のほうが忙しいはずだ。
「先生?」
「なんだい?」
「やっぱり、あたし、苦しめてるね」
「そんなことないよ」
「今、すっごく怖い顔をしてた」
「真面目に考えてただけだよ」
「うそ。ときどき、先生、寝ながら唸されてる。純子、やめろって、大声で叫ぶこともある。知ってるんだから。きっと何か残酷な夢を見てるんだ」
 僕は誤魔化しきれなくなって、純子と向かい合って両腕を掴んだ。
「ああ、苦しんでる。だけど、それがなんだっていうんだ。君とつきあう前、僕はどん底だった。君のいない人生を送るくらいだったら、こんな苦しみくらいなんでもない」
「だって、先生、あたしがいなけりゃ、もっとほかの、もっと、いい人とつきあえるかも知れないじゃない。何もあたしにこだわらなくても、今なら、つきあいたがる人きっといっぱいいるよ。あたし、子ども堕ろすから。それで、もう、あたしと別れて。あたしのことなんか忘れて、もっと、幸せになって。お願い。先生」
「それで君はあの鬼婆の居る家に帰って、寂しくなったら手当たり次第に男と寝るのか? 冗談じゃない。君を地獄に送り返して、僕が幸せになれるなんて本気で思ってるわけじゃないだろうね」
「鬼婆なんてひどい。ママなのに。ああ、でも、早く、そういう風に割り切ればよかったんだ。鬼婆だと思えば何を言われても痛くないや。ママに言われるのはこたえるけど。でも、先生。子どもを産むわけにはいかないの。純子も鬼婆になっちゃうよ。きっと」
「ならない。純子、君が大事だ。君のお腹にいる子どもが大事だ」
 僕は純子の目を見て悟し続けた。
「いいかい。純子。赤ん坊は、女性の胎内で進化の過程を十月十日で駆け抜ける。今、二カ月だから、単細胞生物を経て、水棲生物になったところだ。手の指の間には水掻きがある。そのちっちゃなちっちゃな生き物には、内蔵が出来て肺が出来て脳が出来て、どんどん大きくなっていく。そして、最後は羊水という海から、空気中という陸に上がるんだ」
 純子が興味深げに僕の話に聞き入っている。
「そう、昔から、純子はこういう話を聞くのが好きだったね。生き物が好きなんだ。雑草が枯れたと言っては泣き、金魚が死んだと言っては泣き、ヤモリの死体を見つけたと言っては泣くような人が、堕胎なんかできるわけないだろう。純子は自分がわかってないんだ。堕胎はダメだ。よし、こうなったら最後の手段だ。僕の親に頼ってみよう」
「先生の?」
「大工だから工務店関係なら顔がきくんだ。パチンコ店の引き換え所とか、マンションの管理人とか、駐車場の管理人とか、給料は安いけど、一日、その場にいさえすれば成立する仕事もある。夫婦で出来る仕事を紹介してもらえるよう頼んでみる。住込みで働いて子どもを育てるんだ。親父たちは子どもを三人育ててる。子どもが好きなんだ。純子の子どものこともきっと喜んでくれる」
 僕が熱心に口説くと、純子ももう反対はしなかった。